[ファイトクラブ]トップに立てなかった天才、武藤敬司~マット界をダメにした奴ら

[週刊ファイト6月30日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼トップに立てなかった天才、武藤敬司~マット界をダメにした奴ら
 by 安威川敏樹
・新弟子時代から持っていた武藤敬司の強運は天才の証し
・武藤敬司とグレート・ムタの二刀流で大ブレイク
・高田延彦との対戦で、武藤敬司の天才的センスが爆発
・原辰徳が阪神の監督に?
・武藤敬司がもし、プロレスラーとして専念していれば……


『マット界をダメにした奴ら』というのは逆説的な意味で、実際には『マット界に貢献した奴ら』ばかりである。つまり、マット界にとって『どーでもいい奴ら』は、このコラムには登場しない。
 そんなマット界の功労者に、敢えて負の面から見ていこうというのが、この企画の趣旨である。マット界にとってかけがえのない人達のマイナス面を見ることで、反省も生まれるだろうし、思わぬプラス面も見つかって、今後のマット界の繁栄に繋がるだろう。記事の内容に対し、読者の皆様からは異論も出ると思われるが、そこはご容赦いただきたい。(文中敬称略)

 今回は、先日「来年の春までに引退する」と表明した武藤敬司。武藤敬司は平成の日本のプロレス界を牽引しただけではなく、グレート・ムタとして海外マットを席巻した稀有なレスラーだ。

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新弟子時代から持っていた武藤敬司の強運は天才の証し

 独断と偏見で、日本のプロレス界に現れた天才トップ5を挙げると、アントニオ猪木ジャンボ鶴田佐山聡、武藤敬司、オカダ・カズチカの5人となる。この中に、ジャンボ鶴田と武藤敬司という、山梨県人が2人もいるのが面白い。何しろ、山梨県は東京都と隣接しながら人口は僅かに約80万人と、世田谷区(約94万人)よりも少ない。その中から、2人の天才レスラーを輩出しているのだ。

 力道山ジャイアント馬場は天才に含まれないのかという声が聞こえてきそうだが、この2人ももちろん天才ではあるものの、レスリングの動きとしては天才的というのとは違う。武藤とは同学年で、常に比較されていた三沢光晴は、天才というイメージ以上に泥くさい努力家という印象があるのでトップ5から外した。
 その点、武藤敬司は洗練された天才ということに異論はないだろう。

 武藤の天才ぶりは新弟子の頃から発揮されていた。と言っても、他のレスラーとは天才ぶりが一味違う。武藤が新日本プロレスに入門したのは21歳の時。元々は、柔道整復師になろうとしており、その関係で先輩にプロレス入りを勧誘されたという。
 武藤は、あまりの練習の厳しさについていけない。ヒンズー・スクワットをしても、他の選手たちは続けているのに、武藤だけは苦しくなって膝が曲がらなくなってしまう。

「辛かったら辞めていいんだぞ」
 コーチ役が厭味ったらしく言う。この程度のトレーニングで音を上げているようではプロレスラーになるのはとても無理だから、とっとと辞めて田舎へ帰ってしまえ、という意味だ。
 ところが武藤は、ヒンズー・スクワットをやめて、見学よろしく座り込んでしまった。『プロレスを辞めていい』ではなく『練習をやめていい』と武藤は解釈したのである。
 あまりにも意表を突く武藤の行動に、全員が唖然。同期はおろか先輩が必死で練習をしているのにもかかわらず、自分だけサッサと休んでしまう武藤に対し、非常識な奴だと思われるのと同時に、この図太さは大物になれるとも期待された。

 それでも苦しい練習には耐え切れず、何度も辞める(これはプロレスを、という意味)と訴える武藤。そのたびに“鬼軍曹”の山本小鉄は「あと1週間だけ我慢しろ」と言い続けた。
 1週間、また1週間、その繰り返しで武藤は新日に居続けることになる。普通なら、脱走する新弟子など誰も構わないのだが、武藤はそれだけ期待されていたのだ。
 この点でも、三沢光晴とは随分違う。三沢の場合は、他の新弟子たちが辛さに耐えかねて脱走を企て、その時に三沢も誘われたが、三沢は「俺は辞める気ないから、逃げるんなら勝手に逃げてよ」と言ったらしい。三沢は武藤と違い、プロレスを辞める気はサラサラなかったのである。

 武藤は木村健吾(現:健悟)の付き人だった。厳しい先輩が多かった中、ほとんど怒らない木村の付き人を務めるは楽だったという。もし怖い先輩の付き人だったら、武藤は本当に辞めていたかも知れない。
 さらに、武藤が入門してから間もなくして、UWF(第一次)とジャパン・プロレスが設立されたため、新日から大量離脱者が出た。つまり、厳しい先輩がゴッソリ抜けたことにより、武藤はますます楽になる。しかも、レスラーが足りなくなったため、武藤にチャンスが回ってきた。

 スターには強運が付き物だ。その点では、武藤はかなり恵まれたプロレスラー人生のスタートだったと言える。
 このラッキーさも、武藤敬司に備わっていた天才性なのだろう。

武藤敬司とグレート・ムタの二刀流で大ブレイク

 武藤敬司はスター候補生として渡米、1986年10月に帰国後はスペース・ローンウルフとして売り出される。さらに、テレビ朝日の定期放送が1987年4月から『ギブUPまで待てない!!ワールドプロレスリング』に代わると、司会の山田邦子が強烈な武藤推しを始めた。まあ、そのミーハーぶりが新日信者から総スカンを食ったのだが……。
 さらに、同年10月には映画『光る女』に主演。まだメイン・エベンターにもなっていないプロレスラーの映画主演は異例で、相米慎二監督は武藤のスター性を見抜いたに違いない。トップに立つ前に映画出演を果たすのは、ハルク・ホーガンに通ずるものがある。

▼武藤敬司主演の映画『光る女』

 しかし、武藤が本当にブレイクするのは第2回海外遠征の時だろう。ザ・グレート・カブキ(高千穂明久)の息子、ペイント・レスラーのグレート・ムタというギミックで売り出し、トップ・ヒールとして全米で大人気を博す。
 天才肌の武藤にとって、縦型社会の日本よりも実力主義のアメリカの方が、水が合ったのではないか。武藤の持つ天才性とセンスが、グレート・ムタに変身することによって開花する。

 1990年4月、アメリカでの実績を引っ提げて凱旋帰国した武藤には、トップ・レスラーの座が用意されていた。そして、同期入門の橋本真也および蝶野正洋と共に闘魂三銃士として売り出される。三銃士は、上の世代の長州力藤波辰爾を上回り、エース級の扱いを受けた。
 さらに武藤の場合、武藤敬司とグレート・ムタという、2つの貌を持つ二刀流としてファイトするようになる。現在では珍しくないが、これは日本のプロレス史上、画期的なことだ。
 普通、片方のキャラで売り出すとそれまでのギミックは封印する。二代目タイガーマスクは虎の仮面を脱ぎ捨てた後は素顔の三沢光晴一本でファイトしていたし、小沢正志はモンゴル人のキラー・カーンとしてのブレイク後はずっとキラー・カーンで押し通した。ムタ以降は、佐々木健介もパワー・ウォリアーと使い分けしたが、先駆者となった武藤はやはり天才である。

 ただし、それが武藤にとってイメージ的に損した部分があった。現在ならともかく、ストロング・スタイルが売りの当時の新日本プロレスにあって、キャラが濃すぎるグレート・ムタはエースとしては相応しくない。また、素顔の武藤敬司はテクニックとスター性こそ抜群だが、力強さにはやや欠ける。ストロング・スタイルという点では“破壊王”橋本真也の方が似合っていた。
 そこで、新日は人気の武藤&ムタ、IWGP王者の橋本、G1男の蝶野という棲み分けをする。しかも、藤波や長州はまだメインとして君臨しており、三銃士に対して完全にトップを明け渡したわけではなかった。もちろん、武藤も完全な新日のエースとは呼べなかったのである。

 その点でも三沢とは対照的だ。ちょうど同じ頃、全日本プロレスでは四天王が形成されるが、最もキャリアの長い三沢が4人の中でもトップ扱いされていた。さらに、これは偶然だが、ジャンボ鶴田が内臓疾患のため長期療養に入る。つまり全日では、三沢より上の世代がいなくなったため、三沢光晴が完全に全日本プロレスのエースとなったのだ。
 武藤の場合は、実力ある橋本と蝶野が同期だったため、3人で一括りという扱いになったのである。武藤敬司らしからぬ不運だ。

高田延彦との対戦で、武藤敬司の天才的センスが爆発

 1995年5月3日、武藤敬司は福岡ドームで橋本真也を破り、IWGPヘビー級王者となる。以前にはグレート・ムタとして同王座に君臨したことはあったが、武藤敬司としては初戴冠だった。
 同年10月9日、東京ドームで新日本プロレスとUWFインターナショナルが全面対抗戦を行う。メイン・エベントは、Uインターのエースである高田延彦が、IWGPヘビー級チャンピオンに挑戦するという形だ。IWGP王者に君臨しているのは言うまでもなく武藤敬司である。つまり、王者が橋本のままだったら、メインは橋本真也vs.高田延彦になっていた可能性があるのだ。この対抗戦が決まったのは同年8月だったから、高田戦を見越しての武藤IWGP戴冠というわけではあるまい。

 東京ドームは6万7千人(主催者発表)の大観衆を集め、これは東京ドームの観客動員新記録だった。当時のファンが、どれだけ熱狂したか判るだろう。何しろ、犬猿の仲と言われた新日とUインターである。旗揚げ当初から最強を売り物にしていた新日に対し、真の最強はウチで新日なんてショーに過ぎないと噛み付いたのがUインターだった。
 Uインターでは高田延彦が日本はおろか世界最強の格闘家(プロレスラー、ではない)であると喧伝し、実際にファンの間でも、ジャンボ鶴田が長期離脱中だったので日本最強のプロレスラーは高田だと思われていたのである。

 しかし、強気な態度とは裏腹に、Uインターは火の車だった。安生洋二のグレイシー道場破り失敗により人気は急落し、山崎一夫の新日移籍、田村潔司の造反、極め付けは高田延彦の参院選落選だ。それ以前から高田は「近い将来に引退する」と宣言したほど精神的に追い詰められていた。
 困っていたのは新日も同じである。新日は、北朝鮮遠征により多額の損失を出していた。赤字解消のためにはなりふり構っていられない新日と、団体存続の危機に陥っていたUインターとの利害が一致。お互いの台所事情が最悪という夢のない背景から、夢の対抗戦が実現したのである。

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