[週刊ファイト6月16日号]収録 [ファイトクラブ]公開中
▼リング禍の教訓が活かされず…三沢光晴~マット界をダメにした奴ら
by 安威川敏樹
・根っからのプロレス好き、三沢光晴の素顔
・二番煎じと揶揄された、タイガーマスクへの変身
・素顔の三沢光晴に戻り、全日本プロレス最大の危機を救う
・確実に三沢光晴の体を蝕んでいった四天王プロレス
・ケーフェイが守られる限り、プロレスラーの命は守られない
『マット界をダメにした奴ら』というのは逆説的な意味で、実際には『マット界に貢献した奴ら』ばかりである。つまり、マット界にとって『どーでもいい奴ら』は、このコラムには登場しない。
そんなマット界の功労者に、敢えて負の面から見ていこうというのが、この企画の趣旨である。マット界にとってかけがえのない人達のマイナス面を見ることで、反省も生まれるだろうし、思わぬプラス面も見つかって、今後のマット界の繁栄に繋がるだろう。記事の内容に対し、読者の皆様からは異論も出ると思われるが、そこはご容赦いただきたい。(文中敬称略)
今回のテーマは三沢光晴。三沢は、前座の星から二代目タイガーマスク、全日本プロレスのエースを経てプロレスリング・ノア設立と、たった46年間で激動のプロレスラー人生を駆け抜けた。
▼三沢光晴さん13回忌、筆者が前座から観続けた26年間を回顧
根っからのプロレス好き、三沢光晴の素顔
今から13年前の2009年6月13日、筆者は阪神タイガースの取材で行っていた関東遠征から大阪に戻ってきた。間もなく日付が変わる午前0時前にパソコンを立ち上げると、画面に飛び込んできたネットニュースを見て体が凍り付いたのを憶えている。
……三沢光晴が死んだ?
突然の訃報に事態が呑み込めず、頭が混乱して阪神の試合内容は吹っ飛んでしまった。
三沢光晴は1962年6月18日、北海道夕張市に生まれる。生まれて間もなく埼玉県越谷市に転居したため、長い間クレジットでは埼玉県出身とされていた。筆者は偶然にも、三沢が亡くなる直前に、三沢が育った埼玉県に行っていたのである(筆者が行ったのは所沢市の西武ドーム)。
多くのプロレスラーがそうであるように、三沢の家庭も決して裕福ではなかった。三沢の父親は今でいうDVで、酔っぱらっては三沢の母親を殴っていたという。両親は当然のことながら離婚したが、三沢が強くなりたかったのは父親を倒すためだった。
しかし、三沢は強くなるためにプロレスラーを志したわけではない。中学生の時、初めてプロレスを見て「これは見るもんじゃなく、自分でやるもんだ」と直感したという。こんな子供も、そうはいないだろう。
中学卒業後、三沢は早速プロレスラーになろうとしたが、さすがにそれは周囲に止められて、レスリングの名門である足利工大付属高校に進学する。もちろん、アマレスをやりたかったわけではなく、プロレスラーになるための基礎作りが理由だ。
それでも、高校二年の時には高校を中退しようと決意し、全日本プロレスの門を叩く。この時、応対したのは後にリング上で名勝負を繰り広げるジャンボ鶴田だった。
鶴田からは「高校を卒業してから来なさい」と諭され、しぶしぶ高校に戻った三沢だが、高校を卒業すると一目散に全日本プロレスへ駆け込む。実は高校卒業時にも、自衛隊体育学校からの勧誘があった。「軍隊としての訓練を受ける必要はなく、レスリングをやってるだけで給料を貰えるんだ。メシだって普通の隊員よりもいいんだぞ」と熱心に説得されるが、三沢は一切耳を貸さず、プロレスラーへの道を歩む。
「俺がやりたいのはアマレスではなくプロレスだ」と言わんばかりである。約束通り高校は卒業したんだから文句はあるまい、というわけだ。
後に二代目タイガーマスクとなる三沢光晴が、初代タイガーマスクの佐山聡と違う点は、三沢は根っからのプロレス好きだということである。佐山が『作りごと』のプロレスに嫌気がさしてサッサとシューティング(現:修斗)を設立したのに対し、三沢は死ぬまでプロレス一筋。それも『より強くなりたいから』ではなく『プロレスが面白いから』という単純な理由である。
三沢がプロレスを好きだったのは「アマレスや柔道などは先人が作った技をマネするだけだが、プロレスでは自分で考えて技を作れるから」だという。さらに「プロレスには『縦の動き』がある」とも。
アマレスや柔道は、寝技や投げ技など『横の動き』だけだが、プロレスでは空中殺法のような『縦の動き』がある。そこにプロレスが持つ幅の広さを、三沢は見出したのだ。
デビューしてからの三沢は前座の星となり、先輩の越中詩郎との対決は『全日本プロレス前座の黄金カード』と呼ばれるようになる。当時、前座では大技禁止という不文律があったが、三沢は平気で空中殺法を使っていた。三沢は若手時代から、伝統を破っても周囲を納得させるオーラがあったのだ。
現在のプロレス界では、デビュー間もない若手レスラーが大技を繰り出すため、昔のレスラーは苦言を呈しているが、最初に禁じ手を使ったのは三沢とも言える。その意味では、三沢光晴は力道山の頃より守られてきたプロレスの掟を破ったA級戦犯という意味で、『マット界をダメにした奴』なのかも知れない?
▼前座時代から空中殺法を使っていた三沢光晴
二番煎じと揶揄された、タイガーマスクへの変身
若手の登竜門であるルー・テーズ杯で準優勝した三沢光晴は1984年春、優勝した越中詩郎と共にメキシコ遠征へ旅立つ。この間に、日本では想像を絶する出来事が起こっていた。
前年の夏に、新日本プロレスを退団していた初代タイガーマスクを、全日本プロレスのリングに上げるという計画である。しかし、初代タイガーの佐山聡はUWF(第一次)に参加することになり頓挫、「それならばウチで二代目を作ってしまえ」とばかりに二代目タイガーマスクを全日でデビューさせることになった。そこで、白羽の矢が立ったのが三沢光晴である。
実績では先輩である越中の方が上だったが、タイガーマスクのイメージに近いのは三沢だった。
急遽、メキシコから日本に呼び戻された三沢は、誰もいない洗面所で虎の仮面を被り、鏡を見て「これからは、俺は俺でなくなるんだ」とタイガーマスクに変身する覚悟を決める。一方、独りメキシコに取り残された越中は、全日には居場所がないことを悟り、新日に移籍した。
1984年8月26日、東京・田園コロシアムで二代目タイガーマスクがデビューする。しかし、そこで待っていたのは『三沢コール』に『佐山コール』、そして『帰れコール』だった。ラ・フィエラには勝ったものの、二番煎じとしてファンから顰蹙を買ったのである。
さらに、三沢自身もタイガー変身には抵抗を感じていた。それまでの前座から、上の方の試合で使ってもらえるのは嬉しいが、タイガーマスクなら上手くやって当たり前、失敗は許されない。また、上手くやったところで三沢光晴が褒められるわけではなく、功績は全てタイガーマスクだ。
そして、初代タイガーマスクのマネをやらされるのも嫌だった。初代はキックを多用していたので、三沢もタイガーマスクになるため極真系の“猛虎”添野義二に空手の蹴りを習わされる。アマレス出身の三沢はキックが苦手で上手くならない。ちなみに練習パートナーだった、高校時代からの後輩である川田利明も同様にキックを習い、後に主要な武器としている。
なんでも初代のマネをやらされ、何かにつけて初代と比較される三沢。「マネをするんなら佐山さんではなく、アニメのマネをやればいいじゃないか」と心の中でレジスタンスしていた。
初代と同じく、ジュニアのチャンピオンになった二代目タイガーだったが、佐山より遥かに大きかった三沢はヘビー級に転向。そうなると、ジュニア時代のように連戦連勝とはいかない。
ジャンボ鶴田、天龍源一郎、谷津嘉章の『3強』の壁は厚く、また全日にはスタン・ハンセンやテリー・ゴディらスーパー・ヘビー級の外国人が目白押しだったため負け試合も多くて、タイガーマスクとしての印象は薄れていった。初代タイガーが、ジュニア・ヘビー級相手とはいえ、日本では一度もフォールを奪われなかったのとは対照的である。
素顔の三沢光晴に戻り、全日本プロレス最大の危機を救う
しかし、そんな三沢光晴にさらなる転機が訪れた。1990年に勃発したSWS事件である。
大手資本のメガネスーパーが親会社となった新団体のSWSは、プロレス界の黒船襲来と言われた。メガネスーパーのターゲットは、全日本プロレスの天龍源一郎である。
SWSに天龍を引き抜かれ、ジャンボ鶴田にとって最大のライバルを失った全日は危機を迎えた。この時に立ち上がったのが三沢光晴だったのだ。