[ファイトクラブ]理解不能な孤高の天才、佐山聡~マット界をダメにした奴ら

[週刊ファイト4月14日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼理解不能な孤高の天才、佐山聡~マット界をダメにした奴ら
 by 安威川敏樹
・漫画『タイガーマスク』を圧倒した、佐山聡のタイガーマスク
・第一次UWFも佐山聡にとって安住の地ではなかった
・過去の自分を否定し続ける佐山聡
・佐山聡がタイガーマスクを被った、意外すぎる理由⁉


『マット界をダメにした奴ら』というのは逆説的な意味で、実際には『マット界に貢献した奴ら』ばかりである。つまり、マット界にとって『どーでもいい奴ら』は、このコラムには登場しない。
 そんなマット界の功労者に、敢えて負の面から見ていこうというのが、この企画の趣旨である。マット界にとってかけがえのない人達のマイナス面を見ることで、反省も生まれるだろうし、思わぬプラス面も見つかって、今後のマット界の繁栄に繋がるだろう。記事の内容に対し、読者の皆様からは異論も出ると思われるが、そこはご容赦いただきたい。(文中敬称略)

 プロレス界に多大な影響を与えた人物として、佐山聡を忘れてはいけないだろう。プロレスラーとしての活動期間は10年程度だが、その10年間が日本のプロレスにとって転換期となった。

▼井上譲二の『週刊ファイト』メモリアル第59回 佐山聡氏 タイガーマスクの電撃引退も暴露本も、どこ吹く風?

[ファイトクラブ]井上譲二の『週刊ファイト』メモリアル第59回 佐山聡氏 タイガーマスクの電撃引退も暴露本も、どこ吹く風?

漫画『タイガーマスク』を圧倒した、佐山聡のタイガーマスク

 日本のプロレスラーには、数々の天才が存在した。実力や体の大きさはもちろん、ファンを熱狂させたという点も含めて、総合的に最高の天才と言えばアントニオ猪木だろう。
 しかし、体の大きさなどに関係なく、単純にリング上での動きという点では、№1の天才と言えば佐山聡になるのではないか。

 1981年4月23日、東京・蔵前国技館で衝撃的なデビューを飾ったプロレスラーがいた。佐山聡が扮する初代タイガーマスクである。ダイナマイト・キッドに鮮やかなジャーマン・スープレックス・ホールドでピンフォール勝ちしたタイガーマスクに、プロレス・ファンのみならず日本中のお茶の間が驚愕した。
 まさしく一夜にしてスーパースターとなったシンデレラ・ボーイ。これほどのインパクトがあるデビュー戦を行ったプロレスラーを、他には知らない。

 もちろん、そこには漫画やアニメで人気のあった『タイガーマスク』(原作:梶原一騎、作画:辻なおき)の影響もあっただろう。そもそも、タイガーマスクを現実世界で実現させたのは、同時期に『ワールドプロレスリング』と同じテレビ朝日系列で放送開始したアニメ『タイガーマスク二世』(原作:梶原一騎、作画:宮田淳一)とのコラボ企画だった。
 アニメの放送開始から僅か3日後に、実在のタイガーマスクが登場して大ブームを巻き起こしたのだから、企画は大成功だっただろう。むしろ、アニメ『タイガーマスク二世』の方が佐山タイガーに食われてしまい、第1シリーズのアニメ『タイガーマスク』ほどの人気を残せなかったから、こちらは失敗だったかも知れないが。

 だが、仮に佐山がタイガーマスクにならなくても、かなりの人気レスラーになっていたのではないか。タイガーマスクになる前、佐山はメキシコやイギリスでは素顔でファイトしていたが、現地のファンから多大な人気を得ていた。ファイト・スタイルもタイガーマスクとほとんど変わらない。
 謎のマスクマンではないただの東洋人に、外国人のファンが熱狂したのだから、佐山の天才ぶりが判るだろう。佐山が日本人レスラーで最高の天才と言ったのは、こういう理由にもよる。

 よく言われるのが「佐山タイガーの動きは漫画やアニメのタイガーマスクを超えた」ということだ。佐山聡は漫画の動きを再現したどころか、漫画以上のことをしていたという意味である。
 豊福きこうの著書『水原勇気0勝3敗11S』(情報センター出版局)によると、第1シリーズの漫画『タイガーマスク』で、タイガーマスク(正体は伊達直人)がフォールを奪われたのは10人にものぼる。しかも、その中にはミル・マスカラスやドリー・ファンク・ジュニアなど、実在のレスラーが4人も含まれていた(アニメでは対戦相手や戦績は異なる)。
 一方の佐山タイガーは、シングル戦で155勝1敗9分という圧倒的な戦績を残している。この1敗も、ダイナマイト・キッドと対戦した時の反則負けで(オーバー・ザ・フェンスで、不運な反則負けというイメージが守られた)、国内でのフォール負けは1度もない。メキシコでは2回フォールを許しているが(ペロ・アグアヨとフィッシュマン)、試合には勝っている。

 リング上の動きだけではなく戦績面でも、佐山聡のタイガーマスクは漫画のタイガーマスクを凌駕していたのだ。

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第一次UWFも佐山聡にとって安住の地ではなかった

 人気絶頂のタイガーマスク。しかし『中の人』の佐山聡には、不満が募っていく。本当は格闘技がやりたいのに、やらされるのはタイガーマスクをイメージしたファイトばかり。
 試合のない日も引っ張りだこで、にもかかわらず手にするギャラは雀の涙。ピンハネする人間が新日本プロレス内にいたのだ。 さらに、肝心のファイト・マネーも、アントニオ猪木が興した事業『アントン・ハイセル』の多額な負債を埋めるために流用される。
 極め付けは、結婚式を極秘裏で挙げろと強要されたことだ。完全に嫌気がさした佐山は1983年8月、突如として引退宣言する。タイガーマスクに変身して、僅か2年後のことだった。

 タイガーマスク引退事件が引き金となり、新日本プロレスでクーデターが勃発。この際、新日を退社した営業本部長の新間寿が1984年4月、新団体のUWF(第一次)を旗揚げした。
 UWFは所詮、トカゲのシッポ切り団体だったものの、新間が離脱した頃から独り歩きを始める。

 その頃、佐山聡は新しい格闘団体としてタイガージムを設立。そして、新間のいなくなったUWFに佐山がザ・タイガーとして登場することとなった(後にスーパー・タイガーと改名)。
 1984年8月23日、東京・後楽園ホールで行われた『UWF無限大記念日』のリングに佐山が上がって以降、それまでは通常のプロレスを行っていたUWFが格闘色を強めていく。

▼『UWF無限大記念日』での佐山聡(ザ・タイガー)はまだ、空中殺法を使っていた

 UWFをプロレスから脱却させ、真剣勝負の格闘技に移行させようとした佐山は、そのファイト・スタイルを『シューティング』と呼び、U戦士たちをプロレスラーではなく『シューター』と名乗らせた。当時、人気のあったアニメ『機動戦士ガンダム』が巨大ロボット物のアニメと一線を画すため、登場するメカを『ロボット』とは呼ばずに『モビルスーツ』と呼称したのと似ている。

 しかし、急激な改革は反発を呼ぶのが世の常。佐山は細かなルールを制定し、それまでのプロレス技を禁止したりしたから、他のレスラー(シューター?)から反感を買った。ルールでがんじがらめにされると、ファイトの自由度が狭まり、試合もつまらなくなる、と。
 プロレスラーは何よりも、得意技を披露して自分を表現し、ファンを喜ばせるのが仕事だ。それを規制されたのだから、不満が高まる一方である。

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