[週刊ファイト3月17日号]収録 [ファイトクラブ]公開中
▼盟主になれなかった新日本プロレス~マット界をダメにした奴ら
by 安威川敏樹
・黎明期~定期テレビ中継、有名外国人なしという大嵐の中での船出
・成長期から黄金時代へ~様々な手法でブームとなった80年代
・安定期から厳冬の時代へ~新日本プロレスが遂に身売り
・力道山の日本プロレスを追い越せない新日本プロレス
『マット界をダメにした奴ら』というのは逆説的な意味で、実際には『マット界に貢献した奴ら』ばかりである。つまり、マット界にとって『どーでもいい奴ら』は、このコラムには登場しない。
そんなマット界の功労者に、敢えて負の面から見ていこうというのが、この企画の趣旨である。マット界にとってかけがえのない人達のマイナス面を見ることで、反省も生まれるだろうし、思わぬプラス面も見つかって、今後のマット界の繁栄に繋がるだろう。記事の内容に対し、読者の皆様からは異論も出ると思われるが、そこはご容赦いただきたい。(文中敬称略)
今回は、旗揚げ50周年を迎えた新日本プロレス。つまり『マット界をダメにした奴ら』に登場するのは個人だけではないのである。
新日本プロレスは言うまでもなく現存する最古のプロレス団体であり、業界最大手だ。逆に言えば、最大級の『マット界をダメにした奴ら』なのかも知れない。
▼旗揚げ記念&春祭典ゲストは限定的 オカダ「50周年まだまだ長いです」
黎明期~定期テレビ中継、有名外国人なしという大嵐の中での船出
『裏切り者の 名を受けて すべてを捨てて たたかう男』というのはアニメ『デビルマン』のオープニングだが、新日本プロレスを旗揚げするまでのアントニオ猪木はまさしくデビルマンさながらだった。
1972年1月13日、アントニオ猪木が新日本プロレスを設立。その僅か1ヵ月前の1971年12月13日、猪木は日本プロレスを永久追放された。日本プロレスとは言うまでもなく、猪木の師匠である力道山が興した、日本で最初のプロレス団体だ。
永久追放の理由は、猪木が日プロの乗っ取りを企てたから。真相はともかく、所属団体の日プロから『裏切り者』扱いされた猪木は新日本プロレスを創設した。
新日本プロレスの旗揚げは、今からちょうど50年前の1972年3月6日、東京・大田区体育館。所属選手は猪木以下、魁勝司、山本小鉄、柴田勝久、木戸修、藤波辰巳(現:辰爾)のたった6人だった。しかも定期テレビ放送なしである。この頃は、テレビ中継のないプロレス団体はすぐに潰れるのが常識だった。
新日は、当時世界最大のプロレス組織だったNWAのルートを日プロに抑えられ、頼れるのはブッカーとなったカール・ゴッチが送り込む無名の外国人レスラーだけ。まさしく大嵐の太平洋を小舟で渡ろうとするような船出である。
だが、日プロも安泰だったわけではない。困ったのは、猪木をエースとしていたNETテレビ(現:テレビ朝日)。『デビルマン』を放送していたテレビ局だ。NETテレビに新日を放送されてはたまらんと、日プロは契約を破りジャイアント馬場の試合を独断でNETテレビに売ってしまった。
これに対し、馬場の試合を独占放送していた日本テレビが激怒。日テレは日プロの放送を打ち切り、馬場に独立を持ち掛け、馬場は同年10月に全日本プロレスを設立した。この時、新日本プロレス=アントニオ猪木vs.全日本プロレス=ジャイアント馬場の対立時代が生まれる。
馬場の離脱で窮地に陥った日プロが、さらに大打撃を被った。馬場、猪木に次いで№3だった坂口征二が新日本プロレスに合流したのだ。これによりNETテレビは日本プロレスの定期放送を打ち切り、20年間続いた日本プロレスは1973年4月にあっけなく崩壊した。この頃のプロレス団体は経営能力がなく、スター選手とテレビ中継を失えば為す術がなかったのである。
逆に、坂口の加入により息を吹き返したのが新日本プロレス。しかも、旗揚げから1年後の1973年4月からNETテレビが定期放送を開始した。
もし、坂口の入団とNETテレビの定期放送があと3ヵ月遅れていれば、新日本プロレスはその時点で崩壊していたと、営業本部長だった新間寿は述懐する。坂口の新日本プロレス登場は、まさしく『その時、歴史が動いた』瞬間だった。
▼『日プロ乗っ取り事件』時は舌戦を繰り広げたアントニオ猪木と坂口征二が歴史的合体
成長期から黄金時代へ~様々な手法でブームとなった80年代
日本プロレスが崩壊して、日本の男子プロレス界は新日本プロレス、全日本プロレス、国際プロレスの3団体時代となった。しかし、この中で最も歴史が古い国プロは人気面で大きく劣っていたため、実質的には新日と全日の2団体時代である。国プロは3団体時代となって8年後の1981年に崩壊した。
2団体の競合でも、優勢だったのは全日本プロレス。日本プロレスから受け継いだNWAルートを独占し、常に有名外国人で賑わっていた。当時はまだ、日本人対決はタブーとされ、海外から押し寄せてくる外国人レスラーを日本人レスラーが迎え撃つという、単純な構図だったのだ。
しかし新日本プロレスは、国際プロレスのエースだったストロング小林を引き抜いてアントニオ猪木と激突、『禁断の果実』だった日本人対決を実現。実はそれより前、国プロでストロング小林とラッシャー木村の同門対決を行っていたが、話題にならなかったのは弱小団体の悲しさか。
猪木は、『プロレスは最強の格闘技』を旗印として異種格闘技に着手。柔道王のウィリエム・ルスカやボクシング世界ヘビー級チャンピオンだったモハメド・アリと対戦し、世間の話題をかっさらった。常にセンセーショナルなファイトを発信し続ける猪木・新日本プロレスは、人気面でも馬場・全日本プロレスを追い越したのである。