[ファイトクラブ]角界の悪習を持ち込んだ力道山~マット界をダメにした奴ら

トップ画像:wikipediaより引用
[週刊ファイト11月11日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼ 角界の悪習を持ち込んだ力道山~マット界をダメにした奴ら
 by 安威川敏樹
・戦後の日本史を変えてしまった力道山
・プロレスの真剣勝負幻想は、力道山から始まった
・反社会勢力との関係を断ち切れなかった力道山
・プロレス団体=相撲部屋、という時代錯誤


『マット界をダメにした奴ら』というのは逆説的な意味で、実際には『マット界に貢献した奴ら』ばかりである。つまり、マット界にとって『どーでもいい奴ら』は、このコラムには登場しない。
 そんなマット界の功労者に、敢えて負の面から見ていこうというのが、この企画の趣旨である。マット界にとってかけがえのない人達のマイナス面を見ることで、反省も生まれるだろうし、思わぬプラス面も見つかって、今後のマット界の繁栄に繋がるだろう。記事の内容に対し、読者の皆様からは異論も出ると思われるが、そこはご容赦いただきたい。(文中敬称略)

 最初に登場するのは、力道山以外にいないだろう。まさしく『日本プロレス界の父』であり、力道山がいなければ日本のプロレスは存在しなかった。
 そんな力道山がなぜ『マット界をダメにした』のか? それを検証しよう。


YouTubeキャプチャー画像より https://www.youtube.com/watch?v=HXIUoH8a8A8

戦後の日本史を変えてしまった力道山

 太平洋戦争終結からまだ8年半しか経っていない1954年2月19日、日本のプロレスは事実上この日から始まった。それまでも日本でプロレスは行われていたが、全く注目されてなかったのである。
 しかしこの日、東京・蔵前国技館で行われた力道山&木村政彦vs.シャープ兄弟(ベン&マイク)のタッグ・マッチ61分3本勝負は日本テレビとNHKで同時中継された(結果は1-1の引き分け)。この日から、日本国民は『プロレス病患者』になったと言っても過言ではない。そのDNAは、21世紀になった現在の我々にも受け継がれているのである。

 ここでよく考えていただきたいのは、僅か9年前の日本は、空襲で焼け野原となっていた、ということだ。何にもないところから、海の物とも山の物とも判らないプロレスを日本で行い、日本で始まったばかりのテレビ電波にプロレスを乗せ、あっという間に日本中をプロレス・フィーバーに陥れたのである。その熱狂度は、2021年に行われた東京オリンピックの比ではないだろう。
 今から9年前、何が起こっていたか憶えているだろうか。我々は今と同じようにインターネットを使い、普及し始めていたスマートフォンを利用していた(まあ、筆者は未だにガラケーだが)。つまり9年前も今も、新型コロナウイルス以外で時代が変化したという実感はあまりない。

 しかし、敗戦から日本プロレス誕生までの9年間で、日本は劇的に変化した。それまでの軍国主義から民主主義へ概念が変わり、様々な技術革新を起こして、なんとか先進国の仲間入りを果たそうとしていたのだ。だが、当時の日本人にはどうしようもないコンプレックスがあった。それは、戦勝国のアメリカには絶対に勝てないという、絶望的な劣等感である。

 それを払拭したのが、他でもない力道山だった。日本人が日本の象徴である空手チョップで、アメリカ人の大男をなぎ倒し「日本バンザイ!」と熱狂したのである。もっとも、実際には力道山は朝鮮半島出身で、シャープ兄弟はカナダ人だったのだが、当時の日本人はそんなことを知る由もなかったのだ。もちろん、プロレスを真剣勝負と捉えていたのである。
 戦後の日本を変えたのは、吉田茂でもなければ長嶋茂雄でもない。朝鮮半島出身の力道山である。力道山は日本にプロレスを根付かせた以上に、戦後日本史を変えたのだ。

プロレスの真剣勝負幻想は、力道山から始まった

 力道山を語るうえで、外せないのが木村政彦との『巌流島の闘い』だろう。シャープ兄弟との試合から僅か10ヵ月後の1954年12月22日、タッグを組んでいた力道山と木村が敵対するようになり、蔵前国技館で両者がシングル・マッチで激突することになったのである。
 大相撲で関脇まで行った力道山が強いか、柔道史上最強の男と名高い木村政彦が勝つか、焦点はその一点に絞られた。しかし、結果は無残なものに終わった。力道山の一方的なKO勝ち、というよりも、木村の一方的なKO負けである。

 この試合は大論争を呼び、ただただ凄惨なシーンを見せ付けられたファンはプロレスを楽しめなくなる、と著名人から批判を浴びた。
 日本プロレスを後援していた毎日新聞の記者である伊集院浩ですら「ショーの線を外すな」と苦言を呈していたぐらいである。

 さらに、毎日新聞のライバル紙である朝日新聞でも、ラグビー界の重鎮だった大西鐵之祐が「それは既にショウでもなく、スポーツでもなく、血に飢えた野獣の本能そのものだった」と痛烈に批判した。

 伊集院や大西の論説は、当時としてはプロ・スポーツにおける認識に対してかなり正鵠を射たものであったが、それらの意見がアマチュア・スポーツの権化とされていたラグビー界から出たというのも面白い(当時のラグビー・ユニオンは日本だけでなく世界的にプロを認めておらず、また伊集院浩は元ラグビー選手だった)。

 この試合の結末は引き分けと決められており、力道山の一方的なブック破りが凄惨なシーンを生み出したとされているが、当時はそんな認識などなかった。著名人はともかく、一般のファンは『力道山は強い、木村政彦は弱い』でしかなかったのである。
 現在だったら、一方的なブック破りなどトンデモない、ということになるが、力道山は柔道史上最強の男・木村政彦に勝ったレスラーとして、評価を上げることになった。そして、力道山が興した日本プロレスは、木村政彦の国際プロレス団(後のラッシャー木村らが所属した国際プロレスとは無関係)や、山口利夫の全日本プロレス協会(現在の全日本プロレスとは無関係)を制圧し、日本統一を果たすことになる。

 当時の日本では、真剣勝負は良いもの、スポーツにおけるショーは悪いもの、という認識しかなく、そのため力道山のプロレスは真剣勝負(のように見せる)路線に走った。そもそも、ショーと八百長の違いなんて当時は判らなかったため、ショーであるプロレスは八百長、思われていたのである。現在でも『ショー=八百長』という認識が蔓延っており、これも力道山が『マット界をダメにした奴』になった原因かも知れない。

 アメリカのレスラーが大袈裟に騒いだりするのはショーマン・レスラーの悪癖とされ、日本のプロレスは真剣勝負なんだよ、とばかりに空手チョップを振るう。力道山は、アメリカでのベビーフェイスvs.ヒールの図式を、日本人vs.外国人に変えただけの話なのだが。
 力道山と対戦する外国人レスラーは、ヒールを演じるために反則の限りを尽くす。外国人レスラーにとっては、ヒールとして当たり前の仕事をしたに過ぎないのだが、当時の日本人ファンはそんなことを理解できず、大暴動を起こしてしまった。
 恐怖を覚えた外国人レスラーから、
「ジャパニーズはなんで、プロレスを純粋にエンジョイできないんだ?」
と呆れられる始末である。

 そんなファンを生み出したのが、他ならぬ力道山だった。そして、力道山が根付かせたプロレスの真剣勝負思想は21世紀まで続いて、格闘技ブームもありプロレス界は厳冬の時代を迎えることになったのである。

反社会勢力との関係を断ち切れなかった力道山

 力道山が大相撲の世界からプロレス界へ転身した頃、日本はまだ動乱の時代だった。自ら髷を切って角界に別れを告げた力道山は、新田建設の現場監督として働くことになる。新田建設の社長である新田新作はヤクザ上がりの人物だった。
 当時の建設業(要するに土建屋)にとって、そんなことは珍しくもなく、ハッキリ言うと戦後の日本は反社会勢力が支えていたのである。

 興業の世界もそうで、巡業などは全てヤクザが取り仕切っていた。芸能界はもちろん、角界やプロ野球界も例外ではない。日本の社会全体が『黒い交友』だったのだ。それどころか、政治の世界も警察も、反社会勢力の力を借りていたのである。

▼力道山 四人の妻と 警察と

[ファイトクラブ]力道山 四人の妻と 警察と

 プロレス界に転身した力道山も、当然のことながら反社会勢力との関係を断ち切れなかった。『黒い交友』が続いたのである。日本で最も有名な指定暴力団である山口組の三代目組長だった田岡一雄は、日本プロレス協会の副会長だったほどだ。
 それが『プロレス界は、反社会勢力と繋がっている』というイメージを定着させた。しかも、それはあながちウソではない。

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