[ファイトクラブ]追悼“怒涛の怪力”ストロング小林~マット界をダメにした奴ら

[週刊ファイト1月20日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼追悼“怒涛の怪力”ストロング小林~マット界をダメにした奴ら
 by 安威川敏樹
・アンドレを投げ飛ばし、国際プロレスのエースとなったS小林
・本人は意外にあっけらかん? ファンが燃えたA猪木との名勝負
・国際プロレスを崩壊へ導いた、ストロング小林の離脱
・長州力の『嚙ませ犬』となったストロング小林
・伝説となった“田コロ決戦”、ストロング小林の試合はノー・テレビ


『マット界をダメにした奴ら』というのは逆説的な意味で、実際には『マット界に貢献した奴ら』ばかりである。つまり、マット界にとって『どーでもいい奴ら』は、このコラムには登場しない。
 そんなマット界の功労者に、敢えて負の面から見ていこうというのが、この企画の趣旨である。マット界にとってかけがえのない人達のマイナス面を見ることで、反省も生まれるだろうし、思わぬプラス面も見つかって、今後のマット界の繁栄に繋がるだろう。記事の内容に対し、読者の皆様からは異論も出ると思われるが、そこはご容赦いただきたい。(文中敬称略)

 文中敬称略と言いながら、冒頭文のみ『さん』付けで書かせてもらうが、今回は予定を変更して、先日お亡くなりになったストロング小林さんについて取り上げる。
 小林さんは、国際プロレスのエースとして活躍した後、新日本プロレスに移籍。引退後はストロング金剛と改名して俳優に転身した。
 哀悼の意を表して、ストロング小林さんを『マット界をダメにした奴』に認定します。

▼怒涛の怪力★ストロング小林81歳で死去~その偉大なる足跡を辿る

[ファイトクラブ]怒涛の怪力★ストロング小林81歳で死去~その偉大なる足跡を辿る

アンドレを投げ飛ばし、国際プロレスのエースとなったS小林

 1966年10月、ボディービルダーだったストロング小林(本名:小林省三)は、国際プロレスの社長だった吉原功にスカウトされて、プロレスラーとなる。元々、ボディービルを始めたきっかけも、レスラーになるためだった。それまでの小林は、今では死語となった『国鉄マン』だったのである。
 国が保有する公共企業社員という安定した職を捨て、プロレスラーへの道を選んだ小林。実はボディービルを始めた頃、小林は日本プロレスからもスカウトされていた。しかし「レスラーになるのはボディービルで体を鍛えてから」と誘いを断っている。

 そして前述のとおり、小林は国際プロレスの一員となるのだが、この時の国プロはまだ旗揚げ前だった。生活を保障された国有企業サラリーマンから、明日をも知れぬ新団体プロレスラーへ。
 もし、最初にスカウトされた日プロに入団していれば、小林のレスラー人生も違ったものになっていたかも知れない。何しろ、力道山が興した日本プロレスは、当時の日本としては唯一のメジャーなプロレス団体だったのだから、新興の国際プロレスとは規模が違ったのである。

 ただし、弱小の新興団体である国プロだったからこそ、ラッキーな面もあった。日プロに比べて選手層が薄いので、すぐにチャンスが巡ってきたのである。
 1967年7月、小林は日本人初のマスクマン『覆面太郎』としてデビュー。今から見るとダサいネーミングだが、国プロが期待を込めて小林を売り出そうとしていたのが判る。

 翌1968年1月3日、TBSが国際プロレスの全国定期中継を始めたのを機に、小林は素顔に戻った。この日、国プロ(当時の名称はTBSプロレス)にとって、致命的な大事件が起きる。エースと目されたグレート草津が、ルー・テーズのバックドロップの前に失神KO負けしてしまったのだ。
 本当に失神したのかどうかはともかく、全国放送を開始した記念すべき初回で、新エースが惨敗という大失態。スターの売り出しに失敗した国プロは、常に日プロの後塵を拝することになる。

 その後、小林自身は海外遠征で腕を磨き、1971年6月にIWA世界ヘビー級王者となった。帰国後、1972年のIWAワールド・シリーズで初優勝を果たす。決勝の相手はモンスター・ロシモフ、後のアンドレ・ザ・ジャイアントだ。
 小林は、ロシモフをボディースラムで投げ、リングアウトで勝っている。アントニオ猪木やハルク・ホーガン、スタン・ハンセンよりも先に、小林がアンドレを投げ飛ばしたのだ。

 IWA王者とワールド・シリーズ優勝で、名実ともに国際プロレスのエースとなったストロング小林。しかし、国プロは既に過渡期を迎えていた。この頃になると、TBSの国プロ中継はゴールデン・タイムから撤退し、やがては30分番組に降格したのである。

 さらに、小林もブッカーとなったグレート草津との確執から、マッチメイクで冷遇されるようになった。そして、国際プロレスを脱退する決意を固める。

本人は意外にあっけらかん? ファンが燃えたA猪木との名勝負

 1974年2月、ストロング小林は国際プロレスを退団した。当時、既に日本プロレスは崩壊しており、小林のターゲットとなったのは新日本プロレスのアントニオ猪木と、全日本プロレスのジャイアント馬場。新日が素早く小林の獲得に動き、小林は東京スポーツ所属という形で猪木に挑戦する。

 同年3月19日、今はなき東京・蔵前国技館でストロング小林vs.アントニオ猪木の一騎打ちが実現した。国プロではストロング小林vs.ラッシャー木村の試合が行われていたとはいえ、当時は日本人同士の対決がタブーと言われていた時代。数年前、日プロ時代の猪木が同門の馬場に挑戦を表明しても『時期尚早』という意味不明の理由で却下されていた。
 そんな時に、新日本プロレスと国際プロレスのエース同士が激突するのだ。ファンが燃えないわけがない。
 この試合の観衆は、公式発表で16,500人。主催者発表とはいえ、どう考えても蔵前国技館のキャパを超えている。日本武道館ですら、現在の収容人員は14,500人程度だ。

 ひょっとすると、20年前に同じ蔵前で行われた力道山vs.木村政彦のような後味の悪いケンカ・マッチになるのではないかと危惧されたが、フタを開けてみると日本プロレス史上に残る名勝負となった。
 パワーで押しまくる小林に対し、技で対抗する猪木。最後は猪木の必殺技、ジャーマン・スープレックス・ホールドで小林は敗れた。
 しかしピンフォール負けしたとはいえ、超満員の観衆の前で、ファンの期待に違わぬ名勝負を演じたのは、小林にとってレスラー人生で最も輝いた試合だろう。

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