[ファイトクラブ]怒涛の怪力★ストロング小林81歳で死去~その偉大なる足跡を辿る

[週刊ファイト1月13日合併号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼怒涛の怪力★ストロング小林81歳で死去~その偉大なる足跡を辿る
 by 藤井敏之

 2021年12月31日午前7時21分、東京・青梅市内の病院で膿肺の為ストロング小林さんがお亡くなりになったという悲しいニュースが舞い込んできた。ついその前の12月25日のクリスマスに、81歳の誕生日を迎えたばかりであった。
 私が初めてストロング小林のファイトを見たのは昭和45年2月5日の大阪府立体育館であった。時のAWA世界ヘビー級チャンピオンであったバーン・ガニアが待望の来日を果たし、5日(大阪)、6日(東京)で小林がガニアの世界王座に連続挑戦することが決まり、期待に胸をはずまして会場に行ったものだ。
 前年、老舗の日本プロレスは若きNWA王者であるドリー・ファンクjr.にアントニオ猪木が挑戦した時の館内とは打って変わり、冬の寒さも多少影響はするのだが館内の観客の少なさに驚いたものだ。そんな中においても王者ガニアに、まだまだキャリア不足ではあるが自慢の怪力殺法で立ち向かう勇ましい国際プロレスの期待のエースのファイトぶりに感銘を受けた。
実際対戦したガニアは小林の素質を見抜き、ミネアポリスに呼び彼とタッグを組んでゆくと共に、キャリア不足を解消させる為「クラッシャー・リソワスキーやデイック・ザ・ブルーザーをドンドンぶつけて行きたい」との興味深い発言をしている。実際1971年のアメリカ遠征では、AWA圏の強豪と多く対戦、ガニアのAWA王者にも再三挑戦する中でキャリア不足も解消し、IWA世界王者として真っ黒に日焼けした堂々たる肉体を誇り凱旋帰国する。国際プロレスの不動の王者として君臨し続けた。


 その後ワフー・マクダニエルに敗れるまで、なんと25回連続防衛という偉業を成す。ただワフーとの白浜は勝浦での敗戦試合や、王者復活後の川崎でのビル・ワット戦は全くファイトに精彩が無くファンをやきもきさせていた。
 かなりのスランプに陥っているのは明らかで、その身の振り方に注目していた矢先、自ら国際プロレスを辞め、ジャイアント馬場とアントニオ猪木両雄に挑戦状をたたきつけた。
 低迷していた日本のプロレス界において、爆弾が投下された。挑戦を受諾したアントニオ猪木と彼との試合は、これまでプロレスに振り向かなかった人、一度プロレスを卒業した人にプロレスに興味を沸かさせ戻さすほど、凄まじい試合を行った。
 幾多のスポーツ新聞もその一戦が一面を飾り、世間にプロレスの本気度を浸透させ、再びプロレスに脚光が浴びせられるという歴史的大試合を行ったのだ。

▼井上譲二の『週刊ファイト』メモリアル 第33回
 温厚なストロング小林が血相を変えて怒った「あんた、言い過ぎなんだよ」

[ファイトクラブ]井上譲二の『週刊ファイト』メモリアル第33回 温厚なストロング小林が血相を変えて怒った「あんた、言い過ぎなんだよ」


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