[ファイトクラブ]『成功は失敗のもと』となったG馬場~マット界をダメにした奴ら

[週刊ファイト11月18日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼ 『成功は失敗のもと』となったG馬場~マット界をダメにした奴ら
 by 安威川敏樹
・日本でブレイクする前に、全米のトップとなったG馬場
・経営者ではなく、いちレスラーとして生きることを望んでいたG馬場
・プロレスラーとしては珍しい常識人だったことが災いした!?
・G馬場の個人商店から脱却できなかった全日本プロレス
・G馬場が非常識人だったら、現在のプロレス界は栄えていた!?


『マット界をダメにした奴ら』というのは逆説的な意味で、実際には『マット界に貢献した奴ら』ばかりである。つまり、マット界にとって『どーでもいい奴ら』は、このコラムには登場しない。
 そんなマット界の功労者に、敢えて負の面から見ていこうというのが、この企画の趣旨である。マット界にとってかけがえのない人達のマイナス面を見ることで、反省も生まれるだろうし、思わぬプラス面も見つかって、今後のマット界の繁栄に繋がるだろう。記事の内容に対し、読者の皆様からは異論も出ると思われるが、そこはご容赦いただきたい。(文中敬称略)

 第1回の力道山に続き、第2回に登場するのはジャイアント馬場。言うまでもなく力道山の弟子であり、力道山の死後は日本のプロレス界を背負って立った。そんな馬場ですら、やはり『マット界をダメにした奴』なのである。

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日本でブレイクする前に、全米のトップとなったG馬場

 1960年4月、プロ野球の読売ジャイアンツ(巨人)をクビになり、大洋ホエールズ(現:横浜DeNAベイスターズ)のキャンプにテスト生として参加したものの風呂場で転倒して大怪我、野球を断念せざるを得なかった馬場正平は、日本プロレスの門を叩いた。野球を失い、残された209cmの巨体を活かす道は、プロレスしかなかったのである。
 実は、馬場が日プロを訪ねたのはこの時が2回目だった。それより少し前、馬場は日プロを訪れたものの、力道山はブラジル遠征中で不在だったのである。

 2度目の訪問で力道山に会えた馬場は、その場でヒンズー・スクワットをやらされ、入門を許された。この時、ブラジルから力道山に連れられて帰国したのが猪木寛至、つまり馬場にとって終生のライバルとなる後のアントニオ猪木だったのだ。馬場が22歳、猪木が17歳の時である。
 力道山の付き人となって徹底的にシゴかれた猪木に対し、馬場はアパートでの独り暮らしが許され、給料まで出た。当時の日プロとしては新弟子に給料が出るなど異例で、本来なら力道山邸で付き人になるか、合宿所に住んでメシを食わしてもらうかのどちらかだったのである。

 若手の出世頭となった馬場は、同期の猪木はもちろん、それ以外の先輩を差し置いて入門から僅か1年後にアメリカ遠征する。当時、アメリカ遠征は何よりの出世コースだったのだ。
 渡米して、最初の頃こそ試合がなかった馬場だったが、経験を積むとみるみるのし上がり、1年後には当時世界最高峰と言われたNWA世界ヘビー級王座にも挑戦した。馬場は、全米のどこでも通用するメイン・エベンターとなったのである。

 馬場にあり、力道山や猪木にないのは、この『アメリカでの成功体験』だ。力道山がアメリカで通用したのはハワイと西海岸のみ、猪木に至っては「アメリカ修行中はプロレスラーとしての誇りを持てなかった」と語っていたぐらいだから成功したとは言い難い。
 しかし馬場は、全米から引っ張りダコの大スターとなったのである。しかも、日本よりも先にアメリカで有名になったのだ。日本でのブレイク前に全米でメインを張り、帰国してから『ジャイアント馬場』というリング・ネームが与えられたのである。

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 しかし、結論を先に言うと『アメリカでの成功体験』が、馬場を『マット界をダメにした奴』にしてしまった。これは、どういうことなのか。
 誰でも成功体験は宝だ。それが自信になり、人生を豊かにする。だがその反面、成功体験に捉われてしまったために、それが足枷になることもあるのだ。つまり『成功は失敗のもと』である。

経営者ではなく、いちレスラーとして生きることを望んでいたG馬場

 なぜ、馬場にとって成功体験が足枷になったのか。それを探る前に、その後の3人の足跡を見てみよう。

 馬場が日プロに入門してから3年半後の1963年12月15日、力道山は39歳の若さでこの世を去る。力道山の死後、豊登道春が日プロのエースとなるが、スター性のある馬場が力道山ゆかりのインターナショナル王座を獲得して事実上、日プロのエースの座を豊登から奪い取る。
 さらに、ギャンブル狂の豊登は日プロを追われ、東京プロレスを興すが、その時に誘ったのが若手のホープ猪木だった。だが、東プロは僅か3ヵ月で崩壊、猪木は日プロに復帰する。そして馬場とタッグを組み、BI砲時代の幕開けとなった。

 しかし、猪木は日プロ乗っ取りを企てたとして永久追放、馬場も日本テレビとの契約の問題があって日プロから独立する。猪木は1972年1月に新日本プロレスを、馬場は同年10月に全日本プロレスを設立した。このあたりの経緯については散々語られているので、ここでは書かない。馬場と猪木という両エースを失った日プロは、間もなく崩壊する。
 全日は旗揚げ当初から日テレが定期放送するという恵まれたスタートだったが、新日はノーテレビという苦しい出発。しかし、NETテレビ(現:テレビ朝日)が新日の定期放送を始めると、両者の力関係は逆転する。1980年頃にプロレス・ブームが訪れた際も「プロレス・ブームではなく新日本プロレス・ブームだ」と言われたほどだった。

 そうなった理由の一つとして挙げられるのが、馬場の経営者としての才能のなさである。そもそも馬場は、プロレス団体の社長になりたいなんて全く思っていなかった。38歳で引退して、ハワイで好きな絵を描きながらノンビリ過ごしたい、と計画していたほどである。
 馬場にとって最も幸せだった時代は、日プロのエースだった頃のようだ。経営面にはタッチせず、いち選手としてリングで暴れていればよかったからだ、という。プロレスをするのが楽しくて仕方がない、といった時期でもある。

 しかし、全日を設立してからは「社長になんかなるもんじゃない」が口癖となった。他人に頭を下げるのが苦手で、企業からの接待を受けるのも嫌だったので、スポンサーなんか付かなかったのである。
 力道山や猪木がスポンサー探しに奔走していたのとは対照的だ。金策のためなら手段を辞さなかった力道山や猪木に対し、欲のない馬場はそんなことをする気はサラサラなかったのである。
 そもそも全日を興したのだって、日プロが日テレに対して契約違反を犯したのでやむを得ず、という感じだ。自分がエースとして団体を経営することに意欲を燃やしていた力道山や猪木とは、この点でも対照的である。その後も嫌々ながら全日を経営してきたのも、自分が日本マット界を牛耳ろうとしたからではなく、猪木に日本マット界を牛耳られるのが許せなかったのだ。

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プロレスラーとしては珍しい常識人だったことが災いした!?

 馬場が力道山や猪木と全く違うのは、生まれながらの性格もさることながら、プロレス界であまり苦労しなかった、ということも挙げられるだろう。
 若手時代にいきなり全米でトップ・レスラーとなり、力道山の死後は日プロのエースになった馬場に対し、力道山はプロレスのプの字もなかった日本で荒野を耕してプロレスを根付かせ、猪木は弱冠23歳で東京プロレスのエース社長になるも大失敗している。

 また、馬場は力道山や猪木に比べて常識人だった点も見逃せない。力道山は十代半ばに日本統治時代の朝鮮半島から二所ノ関部屋にスカウトされて大相撲入り、猪木は少年時代にブラジルへ移民して奴隷さながらの生活を送りながら16歳で力道山にスカウトされてプロレスラーとなった。
 つまり、力道山は角界、猪木はプロレス界しか知らなかったのである。しかも、いずれも十代での話だ。力道山は大相撲廃業後、建設会社に勤めたことがあるが、社長はヤクザ上がりの男だった。要するに、力道山も猪木も、まともな一般社会を経験したとは言い難い。

 それに対し、馬場は中退とは言え高校に通い、前述のようにプロ野球選手となった。プロ野球界が一般社会かというと異論もあるだろうが、当時から大卒選手が多く、角界やプロレス界に比べれば遥かに一般社会には近かった。
 巨人には5年間も在籍し、それなりの社会教育も受けている。何しろ「巨人軍は紳士たれ」という球団だったのだから。

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 この違いは、金の借り方にも現れている。力道山や猪木はバンスキング、巨額の借金王だった。2人ともプロレス経営に飽き足らず多角経営に手を出し、力道山はリキ・スポーツパレスやリキ・アパートにゴルフ場、猪木はアントン・ハイセルで膨大な負債を抱えてしまった。先に、力道山や猪木は金策のためには手段を辞さないと書いたが、それにはこういう事情もあったのだ。借金返済には、政財界はもちろん怪しげな連中の力も借りなければならなかったのである。
 しかし馬場は、金を借りるにしても、所有している土地を担保にして金融機関から融資を受ける、という極めて常識的な方法。借金の理由も、事業拡大といった野心からではなく、シリーズが赤字になったときにギャラの支払いに困ったからだという。

 だが、常識的な面が馬場にとって、バイタリティーに欠ける要因にもなったのではないか。力道山や猪木のプロレスが情念を感じさせるものだったのに対し、馬場のファイトは『プロレス内プロレス(村松友視)』と揶揄されるほど、ファンに訴えかけるものが少なかった。
 力道山や猪木のプロレスが日本人好みだったのに対し、馬場はそうではなかった面もある。そこが、2人に比べて馬場は後れをとった感があるのは否めない。
 プロレスというのは非日常の世界。常識から逸脱した人間が行うから面白い、とも言える。その点、馬場は常識人すぎたのだろうか。

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