[ファイトクラブ]“フツーの人”プロレスラー、藤波辰爾~マット界をダメにした奴ら

[週刊ファイト12月30日合併号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼ “フツーの人”プロレスラー、藤波辰爾~マット界をダメにした奴ら
 by 安威川敏樹
・馬場の後継者の鶴田とは対照的だった、ポスト猪木の藤波辰爾
・藤波を売り出すためにJr.ヘビー級市場が開拓された
・長州力との抗争により、本格的な日本人対決のパイオニアとなる
・プロレス界を『普通人の世界』に変えてしまった藤波辰爾
・『おでん』では、厳冬の時代は乗り切れなかった


『マット界をダメにした奴ら』というのは逆説的な意味で、実際には『マット界に貢献した奴ら』ばかりである。つまり、マット界にとって『どーでもいい奴ら』は、このコラムには登場しない。
 そんなマット界の功労者に、敢えて負の面から見ていこうというのが、この企画の趣旨である。マット界にとってかけがえのない人達のマイナス面を見ることで、反省も生まれるだろうし、思わぬプラス面も見つかって、今後のマット界の繁栄に繋がるだろう。記事の内容に対し、読者の皆様からは異論も出ると思われるが、そこはご容赦いただきたい。(文中敬称略)

『炎の飛龍』として大人気を博した“ドラゴン”藤波辰爾。ポスト・アントニオ猪木と期待されて新日本プロレスの屋台骨を支え、昭和末期から平成初期にかけて日本プロレス界の中心レスラーとして活躍した。
 それでも藤波は『マット界をダメにした奴』の一人になってしまうのだ。プロレス界におけるドラゴンの功罪とはどういうものなのか(本稿では『藤波辰爾』に表記を統一)。

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馬場の後継者の鶴田とは対照的だった、ポスト猪木の藤波辰爾

 ジャイアント馬場の後継者と言えばジャンボ鶴田だが、アントニオ猪木の後釜を担ったのが藤波辰爾である。1980年前後、この両者は何かと比較され、馬場vs.猪木の代理対決も囁かれた。
 しかし鶴田と藤波、これほど対照的なプロレスラーも珍しい。

 中央大学法学部卒業の鶴田に対し、藤波は中卒で職業訓練学校を経て自動車整備会社に入社。その後、二人ともプロレス入りするが、鶴田はレスリングでオリンピック出場の超エリート、藤波は格闘技経験なしの叩き上げだ。かたや全日本プロレスにスカウトされていきなり№2の地位にあった鶴田、こなた日本プロレスの門を叩くも練習生とは認められないまま日プロの巡業に付いて行った藤波。
 身長196cmでスーパー・ヘビー級の鶴田に対して、藤波はジュニア・ヘビー級からのスタートだった。そのため、鶴田は若い頃からアメリカのヘビー級チャンピオン・クラスとの対戦が多かったが、藤波の主な相手はメキシコのルチャドールだったのである。

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 しかし、似ている点もあった。脳内がブッ飛んでいるプロレスラーが多い中、鶴田は中大卒のインテリ、藤波は一般企業に就職した経験もあってか、当時のプロレス界では珍しくまともな思考回路の持ち主だったのである。自分がトップに立って団体を引っ張る、という野望をあまり持ち合わせていなかったのも共通点と言えよう。
 相手を光らせるプロレスをしていた点でも、鶴田と藤波は似ている。特に藤波は、我先に攻めるスタイルのレスラーが多かった新日の中にあって、受けるレスリングの巧さには定評があった。
 二人は私生活でも仲が良く、ライバル団体同士だったのに連絡を取り合うこともあったという。鶴田が亡くなる前、鶴田から電話が掛かってきて食事に誘われたと、藤波から聞いたことがある。

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 とはいえ、やはり鶴田は馬場型レスラー、藤波は猪木型レスラーだった。体の大きなエリートを手取り足取り教えて英才教育を施す馬場と、自分と同じく叩き上げレスラーをシゴキ上げた猪木。馬場と同様に体の大きさを活かして雄大なレスリングをする鶴田に対し、猪木のようにスピード溢れるファイトを藤波は展開した。
 鶴田と藤波の違いは、そのまま馬場と猪木の違い、全日本プロレスと新日本プロレスの違いだったのである。そしてお互いに「藤波選手と闘いたい」「鶴田選手と闘いたい」と言っていた。

藤波を売り出すためにJr.ヘビー級市場が開拓された

 1970年、藤波は日本プロレスに入門。16歳の時だった。プロレスラー志望の動機は「アントニオ猪木に憧れたから」。そして入門から1年後の1971年5月9日にデビューする。17歳でデビューというのは猪木と一緒だが、入門から初試合まで1年もかかるという遅いデビューだった。体が小さく、格闘技経験もなかった藤波は、力道山にスカウトされた猪木と違って期待されてなかったのだろう。そもそも入門してから、しばらくは前述のように練習生とは認められてなかった。

 藤波のデビューから僅か半年後、猪木は会社の乗っ取りを企てたとして日プロを永久追放され、新日本プロレスを興す。猪木の付き人を務めていた藤波は、迷わず猪木に付いていき、新日所属のレスラーとなった。
 ここがまさしく、藤波にとって人生の分岐点だっただろう。当時の日プロは選手層が厚く、体の大きなエリートを重宝していたので、体が小さく格闘技経験もない藤波は、良くて中堅レスラー止まりか、あるいは前座レスラーのまま整理の対象となっていたかも知れない。

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