[ファイトクラブ]覚醒を拒否した化物サラリーマン、J鶴田~マット界をダメにした奴ら

[週刊ファイト12月23日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼ 覚醒を拒否した化物サラリーマン、J鶴田~マット界をダメにした奴ら
 by 安威川敏樹
・全日本プロレスに『就職』し、始まったプロレス・サラリーマン人生
・ジャンボ鶴田を受け入れる土壌がなかった、特殊な日本マット界
・当時のプロレスラーとしては常識人すぎたジャンボ鶴田
・他団体のライバルとの対戦でも、本気は出さなかったジャンボ鶴田
・三度あった、ジャイアント馬場から離れるチャンス
・『鶴田の時代』が実現していれば、マット界の様相は変わっていた


『マット界をダメにした奴ら』というのは逆説的な意味で、実際には『マット界に貢献した奴ら』ばかりである。つまり、マット界にとって『どーでもいい奴ら』は、このコラムには登場しない。
 そんなマット界の功労者に、敢えて負の面から見ていこうというのが、この企画の趣旨である。マット界にとってかけがえのない人達のマイナス面を見ることで、反省も生まれるだろうし、思わぬプラス面も見つかって、今後のマット界の繁栄に繋がるだろう。記事の内容に対し、読者の皆様からは異論も出ると思われるが、そこはご容赦いただきたい。(文中敬称略)

『日本プロレス界史上、最強のレスラーは誰か?』という問いに、必ず名前が挙がるのがジャンボ鶴田だ。少なくとも素質の上では力道山、ジャイアント馬場、アントニオ猪木を上回り、歴代№1に違いない。しかし、この3人とは異なり、鶴田がマット界を牛耳った時代はなかった。
 そのあたりに、ジャンボ鶴田が『マット界をダメにした奴』になった理由があるのだろう。

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▼ジャンボ鶴田☆三度目の夢

ジャンボ鶴田☆三度目の夢

全日本プロレスに『就職』し、始まったプロレス・サラリーマン人生

「全日本プロレスに就職します!」
 1972年10月、鶴田友美はそう言ってプロレスラーとなった。実際には「就職のために、尊敬する(ジャイアント)馬場さんの会社を選びました」という言い方だったのだが、いずれにしても『就職』という言葉がインパクトを与えたのだ。プロレス界には似合わない、あまりにも弱くて常識的な言葉だからである。インパクトが弱すぎて、逆に印象に残ったわけだ。しかも、この言葉は鶴田にあまりにも似合い過ぎていた。

 力道山は荒野を耕し、日本では全く知られてなかったプロレスを大衆スポーツにのし上げた功労者だ。ジャイアント馬場はプロ野球をクビになるという挫折を味わい、プロレスしか生きる道がないと一念発起して、全日本プロレスの社長にまで登り詰めた。アントニオ猪木はブラジル移民から日本に逆輸入、会社乗っ取りの汚名を着せられながら新日本プロレスを立ち上げ、日本マット界史上最大のカリスマとなったのである。いずれも『就職』とは程遠い印象だ。
 しかし、鶴田にはそんな挫折した過去は見当たらない。高校時代はバスケットボールでインターハイ出場、中央大学では「こっちの方がオリンピックに出場しやすい」という理由でレスリングに転向し、あっさりミュンヘン・オリンピックに出場してしまう。

 オリンピアンとして鶴田は鳴り物入りで全日本プロレスに『就職』した。全日本プロレスの旗揚げが1972年10月21日、鶴田の入団記者会見(入社会見?)が同年10月31日だったから、旗揚げから僅か10日後だったわけだ。
 創立から10日しか経っていない会社に就職したのだから、鶴田にとってみればある意味バクチだったのかも知れない。住友グループや日本航空などに就職するのとはワケが違う。
 それでも、力道山や馬場、猪木に比べると、鶴田のレスラー人生のスタートは圧倒的に恵まれていた。全日に入団した時点で、未来のエースの座は約束されていたからだ。

 こうして、鶴田のプロレス・サラリーマン人生が始まった

ジャンボ鶴田を受け入れる土壌がなかった、特殊な日本マット界

 ザ・ファンクスの本拠地、アメリカのテキサス州アマリロでプロレス修業した鶴田は、入門してちょうど1年後の1973年10月に凱旋帰国し国内デビュー、その3日後にはいきなり馬場とタッグを組んでメイン・エベントに登場して、3本勝負の1本ながら師匠のテリー・ファンクからジャーマン・スープレックス・ホールドでフォールを奪うという破格の扱いを受けた。
 つまり、鶴田は前座を経験しないまま、プロレスラーになってから僅か1年で団体の№2に登り詰めたわけだ。「一人前のプロレスラーになるには10年はかかる」という常識を覆したのである。

 その後も『外国人天国』の全日本プロレスには強豪外国人レスラーが次から次へと来襲、そのたびに鶴田は彼らを迎え撃った。好勝負を演じながらもなかなか勝てない鶴田は『善戦マン』という有り難くないニックネームを頂戴しながら、プロレスラーとしてのエッセンスを身に着けていく。
 本場アメリカの一流レスラーとの対戦は、鶴田にとってかけがえのない財産となった。それは、師匠の馬場の狙いでもあったのだ。身長196cmと、外国人レスラーに勝るとも劣らない立派な体格で、アメリカン・プロレスを体得すれば、日本プロレス界史上最高のレスラーになると計算したのである。

 しかし、馬場の目算は狂った。鶴田がどれだけ一流外国人レスラーと好勝負を演じても、鶴田人気が爆発することはなかったのだ。全米でトップを張った馬場は、日本でも本場アメリカ流のプロレスを披露すれば人気を博すと思っていたのだが、そうはならなかったのである。
 なぜなら、ここは日本だったからだ。

▼『成功は失敗のもと』となったG馬場~マット界をダメにした奴ら

[ファイトクラブ]『成功は失敗のもと』となったG馬場~マット界をダメにした奴ら

 日本のプロレス・ファンが熱狂したのは、アントニオ猪木型の怨念のプロレスだった。下積み経験もなく、エスカレーターのようにトップ・レスラーとなった『サラリーマン』鶴田には、日本のファンは感情移入できなかったのである。
 日本のプロレス界は、アメリカにはない特殊な土壌だったのだ

当時のプロレスラーとしては常識人すぎたジャンボ鶴田

 1980年代前半、日本にプロレス・ブームが到来した。正確には新日本プロレス・ブームである。
 本場アメリカでは異端とも言えるアントニオ猪木のファイトが『過激なプロレス』ともてはやされ、さらに長州力と藤波辰巳(現:辰爾)の日本人対決がファンを熱狂させた。
 プロレス・ブームのはずが、日本テレビの全日本プロレス中継はゴールデン・タイムから撤退。『本場流のプロレスをじっくり見せる』全日のファイトは、日本人には受け入れられなかった。そんな全日流ファイトの代表が、他ならぬジャンボ鶴田だったのだ。

 体格に優れたアマレス経験者の鶴田は、体の大きい一流外国人レスラーと対戦しても、互角にレスリングの攻防を見せる。こんな芸当ができる日本人レスラーは、鶴田ぐらいしかいなかった。
 しかし、それは素人には判りにくい世界だ。日本人ファンは、そんな味わい深い攻防を見せられるよりも、新日琉のせっかちで目まぐるしく変わる攻防を好んだのである。

 しかも、鶴田のファイトには余裕があり過ぎた。実力に自信があるため、どうしても相手に合わせてファイトしてしまうのだ。そんな余裕がファンには見えてしまって、鶴田のファイトに熱狂することができなかった。
 テリーをフォールしたジャーマン・スープレックス・ホールドも『危険すぎるから』という理由で封印したぐらいだ。もっとも、これには『ハゲるのがイヤだったから』という説もある。

 時折見せる鶴田の「うぉぉぉ!」という雄叫びも、ファンから嘲笑の的となった。猪木が「ダァーーーー!」と叫ぶとファンは大歓声を上げるが、鶴田が「うぉぉぉ!」と言っても、ファンには「そんなことやってるヒマがあったらサッサと攻めろよ」と呆れられる始末である。
 鶴田の「うぉぉぉ!」には、鶴田の「こうすればファンは喜ぶんだろう? 所詮プロレスなんてそんなもんでしょ」という本音(かどうかは知らないが)がファンには見て取れた。どうもコイツはプロレスをナメてる、と。

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