ジャンボ鶴田☆三度目の夢

【ジャンボ鶴田から大学院生、鶴田友美への転身時に一番側にいた人物、高尾淳さんの書き下ろしノンフィクション。リング上からは想像もできない普通の大学院生のジャンボが見られます! 読むにつれ、当時のジャンボの様子が走馬灯のように思い出されました。 鶴田保子】

◆ジャンボの後は任せておけ!
高尾は俺に、「ジャンボ鶴田の再来」というが、俺は俺だから、ジャンボ鶴田を意識することはない。だが、「三度目の夢」を読んで思ったよ。四十三歳は、人生の下り坂ではないと。
 偶然、ジャンボ鶴田と同じ道を歩むことになったが、俺はジャンボ鶴田を超える気でいる。絶対に負けるつもりはない。
 だが、同じ大学院の先輩に対して、敬意をはらって言いたい。
「鶴田先輩に開いていただいた道を、大事に歩みたいと思います」と。
                       推薦文・小川直也

◆ジャンボ鶴田没後10周年企画
【著者・口上】
一七年前の春、私は故ジャンボ鶴田のタッグパートナーに選ばれた。だが、私達が集い、闘う場所はプロレスリングというマット上ではなかった。縦四十センチ、横七十センチの小さな……机という置物が用意され、傍らには筆記用具が置かれているという、教室と言う名の“舞台”。私たちは共に助け合いながら、大学院受験という目標に向かって闘っていった。
「そこは違うでしょう…全く理解できていませんね」
「はい、すいません…気をつけます」
 素直に私のリードに従うジャンボ鶴田。机の上で闘うジャンボ鶴田は、あの“怪物”と謳われたチャンピオンではなかった。オドオドしながら問題に向き合う彼の姿は、それまで絶対にリング上では見ることが出来なかった、苦悩と不安が交差している横顔が垣間見える挑戦者だったのである。

あれからもはや、十七年。当時四十三歳だった鶴田さんと同じ年になった私は、いま改めてかつての鶴田さんの“挑戦”を思い出して感慨が尽きない。何故、四十三歳という年齢から、新たなる道にチャレンジしようと思い立ったのか? プロレスラーとして終わることを選択しない生き方。それはやはりあの“病魔”によって襲われた自身の生に対するいくばくかの不安を拭い去ろうとしての行動だったのか?

ジャンボ鶴田が亡くなって十年。彼の“生への執着”、その苦悩を当時、奥様以外で最も知る立場にあったであろう私が、あの半年の出来事を、ジャンボ鶴田ファン、多くのプロレスファンに伝える必要性を感じ、今回、筆を取ることとなった。
プロレスラーから大学教授への転換。その裏には、想像も出来ない苦悩が……
そして、プロレスへの思いを断ち切った本当の理由とは?

今回、この本を作成するにあたり、鶴田さんの奥様である保子さんからは暖かいメッセージと、貴重なお写真を頂いた。論文抜粋の許可をも頂き、心から感謝しています。現在アメリカで暮らす鶴田さんの家族の為にも、初公開となる晩年の秘話を、余すことなくしっかりとお伝えできたらと思います。


長州力との唯一のシングル60分フルタイム戦85年11月4日大阪城ホール、トミー・リッチとのインターヘビー級初防衛戦87年4月2日大阪府立体育会館 撮影・西尾智幸
、自宅の和室でパソコンと格闘しながら論文を作成中 提供・鶴田保子

◆謎のベールに包まれた“挑戦の日々”が17年の時空を超えて蘇る!!!
“昭和プロレス”の時代を彗星の如く駆け抜けたジャンボ鶴田の貴重な大学院受験秘話。鶴田本人による自身の試合を論評した論文も逐次、公開!! 大学院受験時、講師としてその傍らで様々な人間・鶴田友美を垣間見た著者・高尾淳だけが知る、17年の時を経た、まさにノンフィクション・ドキュメントゆえの衝撃。
“怪物”ジャンボ鶴田伝説の深淵が明かされ、ここに高らかに甦る。この書にはあなたの知らないジャンボ鶴田がいる!

【はじめに:抜粋】
人生四十九年。そんな短い人生の中で、三度も夢を掴んだ男がいた。
 一度目はレスリングで、ミュンヘンオリンピックに出場。二度目は、プロレス界での頂点に登りつめた。そして、三度目の夢に出会ったのは、四十三歳――その時、男は死を宣告されていた。それでも夢を飽くまでも追い続けたのだ。
☆ ☆ ☆
忘れもしない。それは、一九九四年、そよぐ風の香りが感じられる皐月の季節に起こった出来事であった。東京駅から出発した高速バスが、つくばセンターに到着する。高速バスから降りてきた、身長百九十センチを超える大男。
☆ ☆ ☆
わずか一年ではあったが、彼と共に勉強した時間を私の心にだけ留めておくのは、彼の家族をはじめ、日本全国のジャンボ鶴田ファン、往時のプロレスファンに失礼かなと考え、ペンをとることに思いが至った。
 人間・鶴田友美の強さ、そして、意外であった多少の脆さ。四十歳を過ぎた年齢で、闘病生活を続けながら新たな道に挑戦しようとした真っ直ぐな心。
 なぜ、彼は四十代という年齢から新たな道へと挑戦を始めたのか?――そして、その挑戦が何故、可能足らしめたのか?
「無理だと言われれば、余計に挑戦したくなるんです。ファイトが沸いてきます」
この一行に込められた彼の生き様。
 ジャンボ鶴田が亡くなって早、十年。
一九九四年から一九九五年の一年間で、鶴田友美氏から受けた全てを、一人のファン――学友として、皆さんに伝えたいと思う。

【高尾淳プロフィール】
関東某私立高校教諭
つくばユナイテッド柔道コーチ
著作『パニックマン』(新潮社)2009年3月出版。

【巻末資料:美城丈二
・“三度目の夢”ジャンボ鶴田とその時代
・ジャンボ鶴田没後10年・往時の軌跡“試練の10番勝負”篇

写真提供:鶴田保子、西尾智幸、藤井敏之、猪俣謙次、高尾淳
表紙デザイン:安部雅

小川直也が筑波大学大学院合格!『ジャンボ鶴田☆三度目の夢』発売
表紙拡大画像

ジャンボ鶴田☆三度目の夢

商品コード takaojun-m001

価格 2,000 円

ウィッシュリストに追加する »