[ファイトクラブ]劣等感にさいなまれた超天才、A猪木~マット界をダメにした奴ら

[週刊ファイト12月2日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼ 劣等感にさいなまれた超天才、A猪木~マット界をダメにした奴ら
 by 安威川敏樹
・コンプレックスにまみれたアントニオ猪木の青春時代
・挫折続きのレスラー人生から、光明を見出す
・プロレス馬鹿から脱却するために、事業家および政治家に転身
・プロレスを宗教化し、マイナーなジャンルに追いやったA猪木


『マット界をダメにした奴ら』というのは逆説的な意味で、実際には『マット界に貢献した奴ら』ばかりである。つまり、マット界にとって『どーでもいい奴ら』は、このコラムには登場しない。
 そんなマット界の功労者に、敢えて負の面から見ていこうというのが、この企画の趣旨である。マット界にとってかけがえのない人達のマイナス面を見ることで、反省も生まれるだろうし、思わぬプラス面も見つかって、今後のマット界の繁栄に繋がるだろう。記事の内容に対し、読者の皆様からは異論も出ると思われるが、そこはご容赦いただきたい。(文中敬称略)

 第1回が力道山、第2回がジャイアント馬場とくれば、次に登場するのはアントニオ猪木しかいないだろう。この3人は、間違いなく日本プロレス界の三大英雄であり、その中でも猪木は最も日本のプロレス・ファンに愛されたプロレスラーに違いない。
 日本でプロレス人気を沸騰させた最大の功労者は猪木だったと断言できる。だからこそ、猪木は『マット界をダメにした奴』になってしまったのだ。

▼『成功は失敗のもと』となったG馬場~マット界をダメにした奴ら

[ファイトクラブ]『成功は失敗のもと』となったG馬場~マット界をダメにした奴ら

コンプレックスにまみれたアントニオ猪木の青春時代

 もし力道山がブラジル遠征していなければ、猪木の人生は全く違うものになっていただろう。現在のような英雄にはなっていなかっただろうが、それなりに幸せな人生を歩んでいたかも知れない。

 戦時中の1943年2月20日、横浜で猪木寛至は石炭商を営む家に生まれる。幼少期の猪木は体こそ大きかったものの、動きが鈍く『ドンカン』とアダ名された。後のリング上での猪木からは想像できないが、ノロさは嘲笑の的となったほどだ。しかも、勉強はまるでダメ。この時、猪木には深い劣等感が心に刻まれたに違いない。
 さらに実家も、日本のエネルギー源が石炭から石油へ移行する時期だったため、貧しい生活を強いられるようになった。

 そして猪木一家は一念発起、ブラジル移住を決意する。猪木寛至少年がまだ中学生の時だった。つまり猪木は、中学中退である。
 地上の楽園を夢見てブラジルに渡った猪木一家、しかしそこに待っていたのは、地獄の日々だった。奴隷さながらの重労働に耐える毎日。猪木少年は、地球の裏側でも挫折を味わう。

 そんな猪木少年にとって、唯一の心の拠り所が、一個の砲丸だった。日本にいるときに、砲丸投げを覚えた猪木少年は、再び砲丸投げを始める。
 日本にいた頃は『ドンカン』だった猪木少年も、ブラジルでの過酷な労働が全身のパワーを身に着け、さらに円盤投げも習得してサンパウロで優勝した。
 そして偶然にも、力道山がこの時、ブラジルに遠征していたのである。もし猪木少年が円盤投げで優勝していなければ、後のアントニオ猪木は誕生していなかったに違いない。

 円盤投げで優勝した移民の少年に興味を抱いた力道山は、その日本人少年を求め、遂に猪木少年を探し当てた。そして猪木自身も、日本時代に見た力道山に憧れて、投擲競技でオリンピックに出場した後はプロレスラーになりたいと思っていたのだ。
 猪木少年は力道山に会い、力道山は猪木の体に惚れ込んで、自らの弟子にすると即決した。こうして猪木は、ブラジル移民から日本へ逆戻りしたのである。

 スーパー・ヒーローの力道山にスカウトされた猪木少年。それは、日本での大スターへの道を約束されたようなものだった。
 しかし猪木少年には、さらなる地獄が待っていたのである。

 日本に戻り、スーパー・ルーキー扱いされるはずだった猪木に待ち受けていたのは、身長209cmもある馬場正平だった。後のジャイアント馬場である。
 プロ野球の読売ジャイアンツの投手だった馬場は、猪木を含む他の新弟子とは別待遇だった。当時の日本プロレスでは、新弟子は先輩レスラーの付き人となって合宿所で生活するか、力道山の付き人として力道山邸に住まわされるかである。もちろん、給料など出るわけもなく、先輩や力道山からもらう小遣いが全収入だった。
 しかし、馬場には給料が与えられ、アパートでの独り暮らしが許されたのである。

 一方の猪木は、力道山の付き人をさせられ、理不尽なシゴキ(というよりイジメ)が続く。意味もなく力道山から殴られた。猪木が力道山に対し、殺意を抱いたのも一度や二度ではない。
 スター候補生の馬場は、出世街道の急行券と呼ばれたアメリカ遠征へ飛び立つ。そして、たちまちアメリカでトップ・レスラーの地位に登り詰めた。
 しかし猪木は、力道山に容赦なく殴られる毎日。馬場との差は歴然だった。

▼角界の悪習を持ち込んだ力道山~マット界をダメにした奴ら

[ファイトクラブ]角界の悪習を持ち込んだ力道山~マット界をダメにした奴ら

 猪木と馬場は、いわば同期の桜。しかも、猪木は力道山にスカウトされたという、言うなればエリートだ。しかし馬場は、怪我を負ってプロ野球を断念せざるを得なくなり、やむなくプロレスラーへの道を模索して、日本プロレスの門を叩いた。ハッキリ言うと挫折者である。
 一般的な見方では、馬場がエリートで猪木は叩き上げとなるが、実際には全く逆だ。にもかかわらず、力道山は馬場をエリート扱いし、猪木を叩き上げとして徹底的にシゴく。

 プロ野球の世界では、プロ入りの順序に関係なく、年齢が目上と目下の基準だ。たとえば、プロ入り4年目の東京ヤクルト スワローズの村上宗隆は、阪神タイガースの新人である佐藤輝明に対して「佐藤さん」とさん付けにし、新人の佐藤は村上のことを「村上」と呼び捨てにする。
 なぜなら、村上はプロ4年目とはいえ高卒のためまだ21歳で大学4年生と同じ年齢だが、佐藤は大卒で22歳なので、新人にもかかわらずプロ4年目の村上よりも立場は上なのだ。学校での部活が盛んな野球界では、高卒と大卒でプロ入り時に逆転現象が起きるため、年齢を絶対基準としているのである。

 一方のプロレス界は、芸人の世界と同じく、年齢には関係なく入門時の後先が先輩・後輩の基準となる。落語家の笑福亭鶴瓶が笑福亭松鶴(六代目)に弟子入りした時、先に入門していた小学生の笑福亭手遊(おもちゃ)がいた。そのため、鶴瓶にとって手遊は兄弟子に当たるので、既に20歳を超えていた鶴瓶は、小学生の手遊に対し「オモチャ兄さん」と呼んでいたのである。
 プロレス界でもそれは同じで、プロレス入りが早かった藤波辰爾は、2歳年上の長州力に対し「長州」と呼び捨てにするが、長州は2歳年下の藤波に対して「藤波さん」と呼ぶ。

 猪木と馬場の関係にしても、ブラジルでスカウトされた猪木の方が、僅かながら馬場よりもプロレス入門の時期は早い。つまり、猪木は馬場に対して「馬場」と呼んでもいいし、馬場は5歳年下の猪木のことを「猪木さん」と呼ぶべきだ。
 しかし、そういうことを馬場も猪木もせず、馬場は猪木のことを「寛ちゃん」と呼び、猪木は馬場を「馬場さん」と呼んで先輩扱いしていた。猪木にとって馬場は、頼れる兄貴だったのだ。

 だが、それとこれとは別。同期の馬場が出世街道を歩むことに、猪木は反発を憶えていた。しかし、馬場が猪木よりも試合面で優遇されていたのは当たり前の話で、まだ17歳だった猪木は子供の体だったのである。
 当時の馬場は22歳で、しかもプロ野球で厳しいトレーニングを積んでいた。いくらブラジル移民で重労働に耐えていたと言っても、やはり猪木の体は出来上がってなかったのだ。まだ子供の体である猪木を大人と同じ扱いにすると、体が壊れてしまう。

 ティーンエイジャーだったので、そういうことが判らなかった猪木は、馬場に対してコンプレックスを抱いてしまった。同期入門の馬場に、これだけ差を付けられた、と。
 だが、その劣等感がとてつもないパワーを生み出していく。

挫折続きのレスラー人生から、光明を見出す

 力道山が急死し、日本プロレスの二代目エースは豊登道春となるが、日プロは全米スターとなった馬場を売り出そうとしていた。さらに豊登はギャンブル狂で会社の金を使い込んだとして日プロを追われ、新団体の東京プロレスを設立する。この時、豊登は新エースとして弱冠23歳の猪木に白羽の矢を立てた。
 馬場にライバル意識を燃やす猪木は、東プロのエースとして日プロのエースである馬場と対決する意欲満々だったが、資金力の差は如何ともし難く、東プロはあえなく崩壊。猪木はまたしても挫折を味わう。

 東プロ崩壊後、日プロに復帰した猪木は、馬場とのBI砲として売り出される。東プロでのエース経験は無駄ではなく、東プロ結成時点では若手レスラーに過ぎなかった猪木は、日プロ復帰を機にメイン級の扱いを受けたのだ。
 ただ、それでも猪木は、馬場の下の№2的存在。猪木は祖父から「どんな世界でも№1になれ」と言われてきたので、№2に甘んじている気持ちはサラサラなかった。

記事の全文を表示するにはファイトクラブ会員登録が必要です。
会費は月払999円、年払だと2ヶ月分お得な10,000円です。
すでに会員の方はログインして続きをご覧ください。

ログイン