[ファイトクラブ]真の革命を起こせなかった天龍源一郎~マット界をダメにした奴ら

[週刊ファイト2月10日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼真の革命を起こせなかった天龍源一郎~マット界をダメにした奴ら
 by 安威川敏樹
・部屋の分裂騒動に巻き込まれ大相撲を廃業、プロレスラーに転身
・ビル・ロビンソンとディック・スレーターにより、天龍がプロレス開眼
・天龍にとって目の上のタンコブだったジャンボ鶴田
・ジャンボ鶴田にフォール勝ち、天龍がプロレス界の中心的存在に
・『黒船襲来!』と恐れられたSWSも、僅か2年で崩壊
・SWSの崩壊が、天龍源一郎にとって最大の失敗


『マット界をダメにした奴ら』というのは逆説的な意味で、実際には『マット界に貢献した奴ら』ばかりである。つまり、マット界にとって『どーでもいい奴ら』は、このコラムには登場しない。
 そんなマット界の功労者に、敢えて負の面から見ていこうというのが、この企画の趣旨である。マット界にとってかけがえのない人達のマイナス面を見ることで、反省も生まれるだろうし、思わぬプラス面も見つかって、今後のマット界の繁栄に繋がるだろう。記事の内容に対し、読者の皆様からは異論も出ると思われるが、そこはご容赦いただきたい。(文中敬称略)

 今回、登場するのは天龍源一郎。『風雲昇り龍』『ミスター・プロレス』などと称された、押しも押されもせぬレジェンドだ。それ故に、天龍もやはり『マット界をダメにした奴』なのである。

▼覚醒を拒否した化物サラリーマン、J鶴田~マット界をダメにした奴ら

[ファイトクラブ]覚醒を拒否した化物サラリーマン、J鶴田~マット界をダメにした奴ら

部屋の分裂騒動に巻き込まれ大相撲を廃業、プロレスラーに転身

 日本のプロレス界を世代別に分けてみると、第一世代が力道山、第二世代がジャイアント馬場&アントニオ猪木、第三世代がジャンボ鶴田&藤波辰爾&長州力&天龍源一郎となるだろう。世代が下るたびに、人数が倍々ゲームになっているのも、日本のプロレス界を象徴している。
 第三世代の中で、最年長が天龍だ。しかし、注目を集めるのが最も遅かったのも天龍である。
 そんな天龍でも、晩年は4人の中で最も光っていた。つまり、典型的な遅咲き、大器晩成だったということになる。

 福井県出身の嶋田源一郎は、力士になるために上京、中学二年生の時に二所ノ関部屋に入門した。今では中学卒業を待たずに大相撲の土俵を踏むことはないのだが、この頃は中学生が相撲取りになることもあったのだ。こと相撲に関しては、天龍は早咲きである。
 21歳で新十両、即ち関取となって『天龍』の四股名をもらい、入門して9年で入幕を果たした。後に大横綱になる北の湖にも勝ち、ちょうど10年目の初場所には最高位の西前頭筆頭に昇進する。23歳の時だった。

 このまま順調に出世するかに思われた天龍だったが、二所ノ関部屋の分裂騒動に巻き込まれる。角界の古いしきたりに、天龍は嫌気がさしていた。
 そんな頃、天龍はプロレスに関心を持つようになる。相撲で順調に出世していた頃の天龍は「相撲取りがプロレスなんて観るな!」というタイプだったが、大相撲の因循姑息な面を味わうとプロレスの持つ明るさと自由さに惹かれていった。

 1976年8月、天龍はジャイアント馬場に会い、その笑顔を見て全日本プロレス入りを即決。翌月の秋場所を最後に大相撲を廃業した。翌10月に、全日本プロレスへの入団を発表する。まさに電車道の早さだ。この時、天龍は26歳になっていた。
 こうして、天龍源一郎にとって相撲人生よりも遥かに長いプロレス人生が始まったのである。

ビル・ロビンソンとディック・スレーターにより、天龍がプロレス開眼

 ジャイアント馬場は天龍源一郎に期待をかけていた。大相撲で前頭筆頭という申し分ない実績に、190cm近い大柄な体。国内デビュー戦でも馬場とタッグを組み、ピンフォール勝ちするという、エリートらしい扱いを受けている。
 しかし、天龍にとってプロレスラー生活は不安だらけだった。最も大きかったのは、一つ年下のジャンボ鶴田の存在である。そもそも相撲時代、初めてプロレスを生観戦したのがジャンボ鶴田vs.テリー・ファンクのNWA世界ヘビー級タイトル戦だった。この時、プロレスの持つ明るさに惹かれ、天龍はプロレス入りを考えるようになる。いわば、天龍のプロレス転向のきっかけは鶴田が作ったようなものだ。

 だが、国内デビュー前にテキサス州アマリロのファンク牧場へプロレス修業に行くと、聞こえてくるのは鶴田の凄さばかり。アマリロ修業時代のグリーンボーイだった鶴田は、1ヵ月も経つと何も教えることはなくなったと言われるぐらい、天才ぶりを発揮していた。
 国内デビュー戦をフォール勝ちで飾った天龍は、ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田に次ぐ『全日本プロレス・第三の男』と呼ばれるようになる。しかし、馬場や鶴田との距離は遥かに遠く、鶴田との差は歴然だった。実際の天龍の地位は、キム・ドクから改名して全日本プロレス所属になったタイガー戸口よりも下だったのである。

 不器用な天龍はプロレスになかなか馴染めず、日本にいて「幕内力士の天龍もプロレスでは大したことないじゃないか」と言われるのがイヤで、誰も天龍のことを知らないアメリカで気楽にレスラー人生を楽しみたいと考えていた。
 1981年5月、タイガー戸口が新日本プロレスに引き抜かれ、馬場の命令により天龍は帰国、名実ともに『第三の男』となる。しかし、プロレスの下手糞さは相変わらずで、日本で嫌味を言われるのを嫌い、馬場には何度もアメリカ行きを直訴した。

 そんな天龍にとって転機になったのが、同年7月に行われたジャイアント馬場&ジャンボ鶴田vs.ビル・ロビンソン&天龍源一郎のタッグ・マッチである。
 当初、ロビンソンのパートナーはディック・スレーターの予定だったが、スレーターは交通事故による後遺症のため帰国、ロビンソンの相方が不在となった。
「最終戦のタッグ・マッチのために外国人を呼ぶのはギャラがもったいないし、僕がロビンソンと組みますよ」
 と、天龍がロビンソンのパートナー役を買って出る。そこには、どうせ俺は渡米するから日本陣営にいても仕方がない、という意味も込められていた。

 試合前、天龍はロビンソンからアドバイスを受ける。
「テンルーは体格的にイノキと似ているし、イノキの必殺技であるオクトパス・ホールド(卍固め)やラウンド・キック(延髄斬り)をやってみろ」
 天龍はアメリカで卍固めや延髄斬りを使っていたものの、さすがに全日本プロレスのリング上でアントニオ猪木の必殺技を使うのは躊躇していた。しかし、ロビンソンの助言により、天龍は馬場と鶴田を相手に卍固めや延髄斬りをかまし、思わぬ好試合となったのである。

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