[ファイトクラブ]母国でスターになれなかったS・ハンセン~マット界をダメにした奴ら

[週刊ファイト6月9日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼母国でスターになれなかったS・ハンセン~マット界をダメにした奴ら
 by 安威川敏樹
・プロ・フットボーラーから教師へ転職、そしてプロレスラーに
・ブルーノ・サンマルチノの首を折り、新日マットに登場
・史上最大の引き抜きにより、ハンセンが全日に電撃移籍
・移籍後は日本人以上に全日本プロレス一筋となったスタン・ハンセン
・『スタン・ハンセンはアメリカでは三流レスラー』は本当か?


『マット界をダメにした奴ら』というのは逆説的な意味で、実際には『マット界に貢献した奴ら』ばかりである。つまり、マット界にとって『どーでもいい奴ら』は、このコラムには登場しない。
 そんなマット界の功労者に、敢えて負の面から見ていこうというのが、この企画の趣旨である。マット界にとってかけがえのない人達のマイナス面を見ることで、反省も生まれるだろうし、思わぬプラス面も見つかって、今後のマット界の繁栄に繋がるだろう。記事の内容に対し、読者の皆様からは異論も出ると思われるが、そこはご容赦いただきたい。(文中敬称略)

 今回は外国人として初登場のスタン・ハンセン。ハンセンが『マット界をダメにした奴』になったのは、コロナ陽性になったから……、というわけではない。

▼[Fightドキュメンタリー劇場22]1977年1月、スタン・ハンセン新日マット初登場

[Fightドキュメンタリー劇場22]1977年1月、スタン・ハンセン新日マット初登場

プロ・フットボーラーから教師へ転職、そしてプロレスラーに

 日本のマット界で最も活躍した外国人プロレスラーは誰か? このアンケートを取ると、まず間違いなくトップに選ばれるのはスタン・ハンセンだろう。まさしくハンセンこそ、外国人レスラーの代名詞的存在である。
 しかし、よく言われるのが「ハンセンは日本では大スターだけど、本場のアメリカでは三流レスラーだ」ということだ。果たして、それは本当のことだろうか?
 それでは、ハンセンの軌跡を追ってみよう。

 子供の頃からいくつものスポーツに励んでいたハンセンだが、特に熱中したのはアメリカン・フットボールだった。ウエスト・テキサス州立大学ではラインバッカーとしてスター選手だったハンセンは、プロのNFL入りを果たす。
 しかしNFLの壁は厚く、レギュラーになれなかったハンセンはフットボールを諦め、安定した中学教師への道を進むことになった。専門は体育ではなく、なんと地理。プロレスラーになってからのハンセンは、スーパー・ヘビー級とは思えぬスピード溢れるファイトを展開したが、後にハンセンは「私のスピードはインテリの証明」と語っていた。

 教鞭をとる傍ら、フットボール部のコーチもしていたハンセンだったが、給料の安さは如何ともし難い。ハンセンの父親が、テキサス州アマリロでプロレスラー兼プロモーターだったドリー・ファンク・シニアと知り合いで、さらにシニアの息子であるテリー・ファンクはハンセンにとって大学フットボール部の先輩という縁もあって、プロレスラーに転向することを決意する。
 ハンセンが拠点としていたアマリロに、日本からオリンピアン・レスラーがプロレス修業にやってきた。鶴田友美、後のジャンボ鶴田である。ハンセンと鶴田、そして鶴田と同じアマレス出身のボブ・バックランドとは互いに切磋琢磨し、明日のメイン・エベンターを夢見ていた。
 当時はギャラが安く、食うや食わずの生活をしていたハンセンに、鶴田はよくインスタントラーメンを作ってはご馳走していたという。ハンセンはインスタントラーメンをすっかり気に入り、鶴田に無断で30袋以上も食ってしまった。後にハンセンが日本ビイキになったのは、インスタントラーメンが原因かも知れない?

 1975年9月、テリー・ファンクのブッキングにより、ハンセンにとって初の海外遠征が決まった。行先は日本、ザ・ファンクスが主戦場としていた全日本プロレスである。もちろん、そこにはアマリロの盟友、ジャンボ鶴田がいた。
 だが、アマリロから日本に戻った鶴田は一気にスターダムを駆け上がり、ジャイアント馬場に次ぐ№2レスラーとなっている。一方、初来日で無名のハンセンは当然のことながら前座だった。
 セミ・ファイナルでザ・デストロイヤーと好勝負を演じたハンセンだったが(結果は足4の字固めでギブアップ負け)、それ以外ではパッとせず、鶴田とは決定的に差を付けられる。プロレスの基本ができておらず、セオリー無視のファイトをするハンセンは、馬場からの評価も低かった。

▼スタン・ハンセンが前座だった頃、盟友のジャンボ鶴田は既にメイン・エベンターだった

ブルーノ・サンマルチノの首を折り、新日マットに登場

 日本遠征以来のスタン・ハンセンは、ザ・ファンクスの庇護のままだといつまで経ってもメイン・エベンターにはなれないと悟り、アマリロを離れて様々なテリトリーをサーキットするようになる。初来日から半年後、ハンセンにビッグ・チャンスが巡ってきた。ニューヨークに遠征しないか? という誘いである。ニューヨークと言えば、WWWF(現:WWE)の本拠地だ。
 当時、WWWFでメインを張っていたのはブルーノ・サンマルチノ。そのサンマルチノの相手となるヒールとして、ハンセンに白羽の矢が立ったのである。これが、あのあまりにも有名な大事件を巻き起こす。

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