[週刊ファイト1月27日号]収録 [ファイトクラブ]公開中
▼[Fightドキュメンタリー劇場22] 井上義啓の喫茶店トーク
1977年1月、スタン・ハンセン新日マット初登場
by Favorite Cafe 管理人
1975年9月の全日本プロレス「ジャイアント・シリーズ」に初来日したスタン・ハンセンだが、翌年、ニューヨークの試合でサンマルチノの首に大怪我を負わせてしまった。そのハンセンは戦場を新日本プロレスに改め再来日を果たした。プロモーターからは敬遠されつつあったハンセンに猪木はどんな試合をさせるのか、I編集長の興味はこの一点だった。
■ 闘いのワンダーランド #029(1997.01.14放送)「I編集長の喫茶店トーク」
1977.02.02 大阪府立体育会館
アントニオ猪木 vs. スタン・ハンセン
坂口征二&ストロング小林 vs. タイガー・ジェット・シン&上田馬之助
(I編集長) 今日はご覧になっていただいた通り、ハンセンが初めてこの「闘いのワンダーランド」の放送に姿を見せましたね。
ハンセンといいますと、最近の若いファンの方たちは、始めから新日に上がっておったんだと、そして全日本プロレスがハンセンを引き抜いて全日に移ったんだと、そういう風な認識で見ておられる人が非常に多いと思いますね。ところがそうじゃないのであって、最初、第一回目に来日した時は、全日本プロレスのマットに上がってるんです、昭和50年ですね。
9月のジャイアントSを占う週刊ファイトより(1975年)
(I編集長) なぜそういった話をするかと申しますと、この時のハンセンというのは、もう、みんなが言ってましたけども、木偶の坊で箸にも棒にもどうにもかからなかったんです。今日の放送で御覧頂いた通り、非常にパワー溢れる試合はするんですけども、ハッキリ言えば試合が得手勝手(えてかって)なんですよね。自分勝手に動き回ると。
(I編集長) プロレスの試合っていうのは、ご存知のようにAが攻めておる時にはBがそれを受ける、それが終わったらBが攻撃に転じてAがそれを受けると、そういった微妙な間合いがあるもんなんですよね。それによってプロレスは成り立っている訳ですよ。ところがハンセンは、それを無視して掟破りをするわけです。だからそういった点で、ジャイアント馬場あたりも顔をしかめてましたよね、「あんなことをやられたんじゃ、たまらん!」と。
「相手がワルツを踊れば、私もワルツを踊る・・・」(ニック・ボックウィンクル)
(I編集長) ハンセンはああいったレスラーですから、その全日のシリーズに参加した後に、アメリカのプロモーターから総スカンを食らったんですよ。NWAからもWWWFからもAWAからも、シャットアウトされたんです。要するにわかりやすく言うと、ハンセンは自由契約選手になったんですね。そうだとしても新日本プロレスがハンセンを来日させることは、これは本来であれば許されることではないんです、全日系のレスラーですからね。しかし馬場が“いちゃもん”をつけるとか、問題にするとかにならなかったのは、そういった背景があるんですね。
ビンス・マクマホン(WWWF)、ジム・クロケット(NWA)、バーン・ガニア(AWA)
(I編集長) 本題に入りますけども、ハンセンというと皆さんご存知のように、サンマルチノの首をへし折ったということで、一躍有名になった男なんですよね。これも結局、今申し上げましたように、ハンセンは攻めの間というものを全然無視して闘いますから、対戦相手は受け身が非常に取り難いんですよ。ハンセンが上手に投げることができれば、相手にそういった怪我をさせることは無いんです。ハッキリ言えば当時のハンセンは下手なんですよ。だから、勝手に「バーン」とやるもんですからサンマルチノにしても受け身が取れなかったんですね。
“バッド・ボーイ”スタン・ハンセンにブルーノがやられるなんて・・・
▼ブルーノ・サンマルチノ 格下の対戦相手に「ありがとう」と言える人格者だった
(I編集長) だからこれ、ドラゴンスクリューで考えてみれば、ハッキリわかりますよね。下手なレスラーがドラゴンスクリューをやったら、必ず足がどうにかなりますよ。藤波にしろ武藤にしろ、ドラゴンスクリューの名手ということで、この技を使って相手にダメージを与えていますけど、次の日そのレスラーはちゃんと出てきて試合が出来る、そんなギリギリの状態で痛めつけているということですよ。もし下手なレスラーがドラゴンスクリューをやったら相手は大怪我ですよ。
この体勢から「ドラゴン・スクリュー」
▼’21年11月18日号新日大阪9試合 藤波辰爾50年