[ファイトクラブ]ブルーノ・サンマルチノ 格下の対戦相手に「ありがとう」と言える人格者だった

[週刊ファイト5月3日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

◆追悼!人間発電所第二弾
▼ブルーノ・サンマルチノ 格下の対戦相手に「ありがとう」と言える人格者だった
 by 井上譲二
・リングを降りると物静かな紳士だった
・「ブルーノ初来日」各スポーツ紙の扱いは明らかに違っていた
・カリスマ性を持つブルーノ・サンマルチノへの注目度はメジャー級
・格下の選手にも対等に接する本物の紳士
・ボストン・ガーデンでのキラー・カーン戦


 北米の専門誌でもブルーノの活躍とジャイアント馬場戦は取り上げられた。

1971年1月、舞台裏では仲の良かった故イワン・コロフを次期チャンピオンに指名して王座を降りる


 マシンガンキックなどエネルギッシュな闘いぶりから“人間発電所”のニックネームが付けられたブルーノ・サンマルチノさん。典型的なパワーファイターだが、リングを降りると物静かな紳士だった。人気をハナにかけないところといい、ライバルのジャイアント馬場さんと人間性において共通点があった。私が取材した外国人レスラーの中で最も尊敬できた男である。

 ブルーノ・サンマルチノさん(以下、ブルーノ)が待望の初来日を果たしたのは1967年3月。『ファイト』(新大阪新聞社)が創刊されたのもこの年だった。

 他の米マットの大物外国人と比較して各スポーツ紙の扱いは明らかに違っていた。

 ジャイアント馬場さんとのインターナショナル・ヘビー級戦(3・2蔵前国技館)は1面で報じられ、羽田空港での来日会見にしても大きく取り上げられた。

 ニューヨークからスーパースターがやってきた!–当時、熱狂的なプロレスファンだった私は学校をサボってブルーノが宿泊する新大阪ホテルにサインをもらいに行き、そのあと大阪府立体育会館にも足を運んだ。

 1番驚いたのは翌日の授業の時、なんと化学の先生が大阪大会を観戦したことを明かし、ブルーノのファイトぶりについて語り始めたのだ。このため授業は半分くらい潰れてしまったが、生徒たちは大喜びだった。

 当時、安倍晋三首相もプロレスをテレビ観戦していたようで、3年くらい前に国会でアントニオ猪木議員の質問を受けた際、「私も昔、猪木さんとブルーノ・サンマルチノの試合を見てまして・・・」と言っている。


ブルーノ・サンマルチノさん来日時、アントニオ猪木とジャイアント馬場は日本プロレスに所属していた

 恐らく安部さんは馬場さんと思い違いしたと思うが、日本の総理大臣が彼の名前をハッキリ記憶していたのは事実で「ブルーノ初来日」のインパクトの大きさがうかがえる。

 米国ではこんなエピソードもある。全日本プロレス旗揚げが決まった時、馬場さんの指令を受けたジョー樋口氏が渡米。ピッツバーグの高級レストランでブルーノと契約の話をしていると中年紳士がテーブルから立ち上がって挨拶をしに来た。

 樋口氏はてっきり地元のプロレス関係者と思ったが、ブルーノから「彼は(米メジャー・リーグ)ピッツバーグ・パイレーツの現役の監督だよ」と教えられて驚いたという。

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