[ファイトクラブ]三沢光晴さん13回忌、筆者が前座から観続けた26年間を回顧

[週刊ファイト6月24日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼三沢光晴さん13回忌、筆者が前座から観続けた26年間を回顧
 text & photo by 西尾智幸
・38年前、前座なのに凄い空中殺法を使う若手がいた
・「ミサワ!」と飛び交う声援、そんな選手に興味を持った途端海外遠征
・1984年・彗星の如く現れた2代目タイガーマスクが華麗にデビュー
・正体バレバレ! でもやはりというか、凄い身体能力を発揮
・初代の亡霊&満身創痍の状態で心身ともに限界・・・そして転機
・超世代軍を経て四天王プロレスへ! 危険な闘いにファンは熱狂
・小川良成とのアンタッチャブル始動! 10年間最後まで相方だった
・御大馬場死去後、理想のプロレスができずNOAH設立を決断
・三銃士橋本真也と夢の対決に、大阪人はテンションMAX!
・ノアだけはガチ! そんな言葉が生まれるほど絶好調だった筈
・筆者が最後に観た三沢のタイトルマッチは田上&佐野が挑戦したGHCタッグ
・三沢さん亡き後のノアは別物だが、数々の名勝負は忘れない、有難う!


三沢光晴さん13回忌、筆者が前座から観続けた26年間を回顧

 あれは、12年前。筆者はいつものように、自身で営んでいるバーをOPENしていると、1本の電話が。
 それは、プロレス好きの常連さんからだった。「三沢、亡くなったみたいですよ!」
 「え? ウソやん!?・・・」状況が全く呑み込めない。いや、呑み込みたくない。
 帰宅後、急いでニュースをネット検索したが、まだあがっておらず、ガセじゃないの?! とも思ったが、翌日のネットニュースにはしっかりとあがっていた。
 しかも、齋藤彰俊の放ったバックドロップで・・・。受け身の天才の三沢が?!
 ただただショックで、まだ何かの間違いであって欲しいと思った事を記憶している。
 2009年6月13日、まだ46歳の若さだった。

 三沢さんは、昭和37年6月18日生まれ、実は筆者と同級生という事もあり、親近感を持っていたし、何かと意識して試合も観ていた。
 他に、武藤敬司、高田延彦、山崎一夫らも同級生で、勝手に親近感を持ってしまうのは、きっと何かしら共通項を持ちたいというファン心理であろう。
 40半ばにしてまだ“死”なんて意識すらした事のなかったのに、同い年の人が亡くなるなんて・・・と当時は、大きなショックを受けた。
 今年は、早くも13回忌という事で、改めて三沢さんの軌跡に合わせ、筆者が生で観た試合を中心に思い出を語りたいと思う。秘蔵写真も蔵出しデス!

38年前、前座なのに凄い空中殺法を使う若手がいた

 時は遡る事、38年前の1983年4月14日。筆者は二十歳になったばかり。その日は、スタン・ハンセンとテリー・ファンクの因縁の対決を観たくて、大阪府立体育会館に足を運んでいた。

 終盤、ハンセンはテリーをブルロープでの市中引き回しからの絞死刑が、倫理的に引っ掛かったのか、当時としても珍しくその一部は静止画となって放送された。近年のG+での再放送では、フルver.を放送しているが。
 これはこれで、記憶に残る名勝負だったのだが、筆者の中でもうひとつの記憶がある。
 当時、全日、新日、国際、全女と、わけ隔たり無く、タイミングが合えば行くという感じだったが(勿論、絶対観たい試合は優先的)、プロレスを意識してTV観戦し始めたのは、全日からなので、贔屓目なところがあっても、当時の全日の前座はちょっと眠いと思う事があった。
 しかし、この日の若手の試合は、いつもと違い声援が凄い!! 当時は、スター選手がお目当てだったので、若手には興味なかったし、その前から三沢の試合も観ている筈だが(1981年8月21日デビュー)、名前すら知らなかった。この日「ミサワーッ!」とやたら声援が飛び交った事で名前を覚えた。若手で、この人気は何だ? と最初は思ったが、その脅威の空中殺法を観て納得。当時は、懐事情でフィルムも1~2本しか持参してないので、前座の試合を撮る事はなかったのだが、これは撮らなきゃという気にさせられた。それがこの越中詩郎戦。
この頃から、ウルトラタイガードロップをやっていたのが凄い(ネーミングは違ったが)

まだ素人写真のうえ、フィルムの劣化で色も悪く、見づらいのはご勘弁(汗)。


 顔が分かるのはこれ! この2人の対決が、前座の黄金カードと呼ばれているとのちに知り、越中との闘いがこんなに面白いんだと。そこから越中ではなく(笑)、三沢にも興味を持つようになったが、当時は今のようにインターネットで公式HPやネットニュースも無ければ、衛星放送で大会をフルで観られる訳もないし、試合結果も雑誌や新聞がメインの時代、なかなか若手の三沢では情報が得られなかった。
 そんな矢先、翌1984年4月に行われたルー・テーズ杯決勝をこの両者で争い、テレビでもフルではないにしろ、この黄金カードが放送され、歓喜したものだ。
しかし、喜んだのも束の間、優勝の越中、準優勝の三沢はメキシコに遠征となり、またも活躍が観られない状態となった。

1984年・彗星の如く現れた2代目タイガーマスクが華麗にデビュー

 1984年7月31日、蔵前大会で、2代目タイガーマスクのお披露目となった。
 そして8月26日、田園コロシアムにて、メキシコでライバルだったラ・フィエラ戦で鮮烈デビューし、タイガー・スープレックス’84で勝利を飾った。
 筆者がプロレスに嵌るキッカケを作ってくれた、クラスメイトのY君。初代が現れた時は、すぐさま佐山だと教えてくれたが、2代目は流石に聞くまでもなく三沢さんだと解った。
 田コロでも、ミサワー!の声援はあちこちから飛んだ。
 考えれば、メキシコ遠征からたったの4ヵ月ほどで、とても早い帰国となった。
 実はその裏では、初代タイガー佐山を全日で復活させたいとマネージャーのコンチャ氏が独断で持ち掛けたが途中で頓挫した為、当時業務提携していた新日本プロレス興行の大塚氏が、それなら全日の選手で作りませんか? となり、馬場社長はメキシコの三沢に電話し「コーナーに飛び乗れるか?」、「乗れます」の一言で急遽帰国命令が出たのだ。

 1985年8月31日に小林邦昭を破ってNWAインターナショナル・ジュニアのベルトを奪取。これが、自身の王座初戴冠となる。

 しかし、半年余り経った1986年3月には、ヘビー級に転向を宣言。ジュニア王座も返上。

 10月からは、ヘビー級転向の試練として、“猛虎七番勝負”を行い、リック・フレアー、阿修羅・原、天龍源一郎、テッド・デビアス、ジャンボ鶴田らと闘い、対戦成績は3勝4敗となった。

 1987年7月には、ジャンボ鶴田と組んでPWF世界タッグ王者となる。
 1988年4月「’88格闘技の祭典」のメインイベントに馬場とのタッグで出場。その時、エキシビションで出場していた初代タイガー佐山を激励する形で、初のツーショットが実現。
 そして、5月には今の奥様である真由美さんと結婚を発表、これを機に正体を明かしたが、タイガーマスクは続けるというマスクマンとしては異例のケースとなった。

“初代の亡霊”&満身創痍の状態で心身共に限界・・・そして転機

 順風満帆に見えたが、常に初代タイガーと比較される事への精神的な重圧、また空中殺法を多用する為、常に満身創痍の状態で、心身共に厳しい状態が続いていた。そして遂に、左膝前十字靱帯断裂の手術で1989年3月~1990年1月迄、長期欠場に追い込まれた。
 再びの転機は、復帰し暫く経った1990年の春。新団体SWSが天龍源一郎に声をかけ全日を退団。当時の目玉だったジャンボ鶴田とのライバル抗争が消滅する。
 そんな渦中の5月14日、三沢はマスクマンとしての限界を感じていた事もあり、 この日の「タイガーマスク、川田利明vs.谷津嘉章、サムソン冬木戦」の試合中、川田に「取れ!」とマスクを指差した。マスクを取っている間、会場はざわめき、放送席にいたカブキは「何してるの?」を4連発。しかし、マスクを脱ぎ捨て、三沢光晴に戻った瞬間、歓声に包まれ大ミサワコールとなった。
 このあと、素顔の「三沢光晴」としてリングに上がる事が正式に発表され、川田、小橋健太(現建太)らと超世代軍を結成し、鶴田軍やハンセンらの外国人チームとの闘いが軸となり、再び全日が熱くなっていく。

超世代軍を経て四天王プロレスへ! 危険な闘いにファンは熱狂

 鶴田の新たなる好敵手となり、1990年6月には、遂にシングルで鶴田に勝利! また、翌年8月にはハンセンから三冠王座を奪取するなど、天龍のあとに続けとグレート・カブキ、谷津嘉章ら主要選手数名がSWSへ移籍し全日崩壊説も出る中で、いなくなった穴を埋めるどころか、それ以上の活躍を見せてくれたのが三沢だ。1992年7月、鶴田が内臓疾患で長期欠場となった事によって超世代軍もそれぞれにユニットを作り、小橋建太、川田利明、田上明とで、四天王プロレスが始まった。
エグい角度でマットに叩きつけたり、場外に断崖式に落とすように危険な技の応酬が醍醐味であったが、その反面、選手の身体への負担も危惧されていた。面白いと危険が紙一重であった。
 そんな中、三沢は1994年3月、遂に馬場超え! 天龍に続き、馬場から3カウントを取った日本人は2人目。以降、誰もいないのでこの2人きりなのだ。
 普段、案外クールな筆者だが(笑)、恥ずかしながらこの時、プロレスの試合で始めて涙を流した。
 以降、加齢と共に涙腺はゆるくなる(笑)。まあ、それはどうでもいいが、この四天王の頃は全日の歴史の中でも一番の全盛期で年間7度の日本武道館興行、しかも即完売と大人気であった。

▲川田利明vs.田上明(左)、川田利明vs.小橋健太(右)




 上の写真は、1993年4月のチャンピオン・カーニバル戦より。この日も、激しい技の応酬に酔った。20分超えの激闘を制したのは三沢のタイガースープレックスホールドだった。
下は、2000年1月の三沢、秋山準vs.田上、ベイダー。


 田上も豪快に三沢を叩きつける! 最後はタイガードライバーか?
 90年代が最も熱い闘いが多かったわりに、大会の写真が少ないのは、80年代の終わり頃から、プロレスに少しずつ飽きはじめていた(笑)。今、周りの人に聞いても、ゴールデンタイムの頃は嵌ったけど、最近は・・・というひとは、わんさかいる。
 ただ、筆者は従来のプロレスから両極端に離れたUWFとFMWが現れた事で、目新しく感じ、会場に行く選択肢が広くなってしまったのだ。特に、三銃士全盛だった新日の写真が全然ない。でも、結局いまだに観てるのが、根っからのプロレス好きなんだと我ながら感心する。ちょっと話がそれてしまったが(笑)。

 1999年1月、この日は試合に没頭したくて、珍しくカメラを持参しなかったのだが(あとで後悔)、王者三沢に挑戦者が川田の三冠戦。結果、三沢は王座転落となるのだが、あとで川田は右腕尺骨骨折しており、王座返上と聞いて吃驚! そんな素振りもなく、最後まで闘い抜いた根性に感動!

 1999年11月、最強タッグリーグにてノーフィアーと激突。この前年から、小川良成とのタッグが始動。近年は、裏切りだなんだで、すぐにパートナーが替わるか、ユニット内で入れ替わりコンビを組む的な感じで、ファンクスやロードウォリアーズのような本格的タッグチームというのは少ないが、このチームは三沢が亡くなるまで10年間続いた。
 先日の5・15ノア後楽園ホール大会の試合後、武藤敬司が小川良成と組んだ試合で、武藤は「なぜ三沢社長が、小川選手を常に横に置いていたか、なんとなく感じる事ができた。パートナーとしては、痒いところに手が届いて非常にやりやすい」と語っていた。

御大馬場死去後、理想のプロレスができずNOAH設立を決断

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