[ファイトクラブ]秘蔵写真で綴る浪速のアントニオ猪木#11(1968年2・26DブルーザーHレイス)

[週刊ファイト7月1日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼秘蔵写真で綴る浪速のアントニオ猪木#11(1968年2・26DブルーザーHレイス)
 by 藤井敏之
・生傷男ディック・ザ・ブルーザー 粉砕者クラッシャー・リソワスキー
・AWAでは抗争していた美獣ハーリー・レイス 新鋭ディック・マードック
・2月26日大阪府立体育会館 インター・タッグ選手権試合
・インターバル中、猪木が馬場の足をマッサージする絵面
・一方が観客の後押しを受け逆転する昭和的な良き時代
・貫禄ではまだまだブルーザーにかなわぬレイス
・猪木が肩を貸し支える場面は小学生ながら「猪木かっこいいなぁ」
・東京で馬場、インターナショナル選手権20回の連続防衛を達成


 なんとこの年(1968)の初頭からAWA世界タッグ王者であった、ご存知世界一無法コンビである“生傷男”ディック・ザ・ブルーザー・アフィルスと“粉砕者”クラッシャー・レジー・リソワスキーが、ジャイアント馬場のインター・ナショナル・ヘビー級王座を狙い、散弾攻撃を仕掛けるかの如く日本に来日してきたのだ。満を持してこの二人が同時に来日して乗り込んできたらどうなるかと思うと、ゾッとするぐらい当時においては二人のタッグは怖いもの無し。全米はもちろん、日本にもその名を轟かしていたものだ。

 新春チャンピオン・シリーズで弟分であるクラッシャー・リソワスキーが大暴れ。かろうじて馬場はインターシングル王座を防衛したが、なんとBI砲が保持していたインター・タッグ王座において、大雪に見舞われ、猪木が決戦地である広島(1月8日)に到着することができずに。よって急遽、吉村道明が馬場のタッグパートナーとなり、タッグ防衛線ではなく争奪戦に変更されるというアクシデントが発生。残念ながら1-1の引き分けとなり、タイトルは空位となってしまう。

 そう、1月7日の大阪大会後、猪木は急用の為、東京へ帰り次の日に飛行機で広島に来る予定が大雪で広島空港が閉鎖され、飛行機が急遽大阪に降りてしまったのだ。残念ながら大阪から広島までの電車も雪の為、運行していなかったのである。幸いにもシリーズの東京・大田区体育館でBI砲が再びタッグを結成、ディック・ザ・ブルーザー&“ドクター”ビッグ・ビル・ミラーとの争奪戦においてなんとか勝利、見事に王座奪還を果たしたのである。

         生傷男 ディック・ザ・ブルーザー

 クラッシャー・リソワスキー大旋風が日本マットを席巻した後、休む暇もなく兄貴分であるディック・ザ・ブルーザーがシカゴでブルクラ(ブルーザ&クラッシャー)とAWAタイトルを争っていた“美獣”ハーリー・レイス(相棒は“プリティ・ボーイ”ラリー・ヘニング)、テキサスで売り出し中のディック・マードックら新鋭(二人とも初来日)を引き連れ来日。早々2月26日に大阪でブルーザーとレイス組がBI砲に挑戦する、インター・タッグ選手権試合の開催が日本プロレス協会より発表された。

 当時はアメリカからのニュースが伝わるのも遅く、ファンもそれほど全米の戦いを意識していない、いや意識できない時代故、アメリカで血の抗争をしていた同士が、日本遠征において即席タッグを組み日本が誇るBI砲のインター・タッグ王座に挑戦する事のほうが多く、それほど違和感もなく受け入れられていた。逆に全米で活躍するタッグチームが挑戦するのが稀であり、上げてみてもファンク兄弟、ブルクラなど、認知されていたのがほんのひと握りであった事実もある。
 今回においてもブルーザーとレイスのタッグはAWA圏のファンが見たら驚く、異色タッグでの王者チームへのチャレンジである。

 相変わらず大阪府立体育館は超満員札止めの人気であった。確かその12日前に行われた国際プロレスは、閑古鳥が鳴く散々な大会であった事を考えると、まさに日本プロレスは我が世の春を満喫していた状況であった。ブルーザーの相棒を務めたレイスはまだまだ新鋭の域ではあったが、若くして各テリトリーで揉まれてきたゆえ、すでに風格さえあったような記憶がよみがえる。

2月26日 大阪府立体育会館
インター・タッグ選手権試合
ジャイアント馬場 アントニオ猪木 vs. ディック・ザ・ブルーザー ハリー・レイス
① 馬場 (反則 13分14秒) 外人組
② ブルーザー(体固め 1分56秒) 馬場
③ 馬場(逆片エビ固め 6分10秒)レイス

         ブルーザー&レイス組
         控室でのレイス、マードック、ブルーザー

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