[ファイトクラブ]『最強の名のもとに』沈んだ高田延彦~マット界をダメにした奴ら

[週刊ファイト4月28日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼『最強の名のもとに』沈んだ高田延彦~マット界をダメにした奴ら
by 安威川敏樹
・ミスター・プロ野球から燃える闘魂へシフトした青春のエスペランサ
・第一次UWFから新日本プロレスに出戻り、高田も大きく成長
・高田延彦にとって不完全燃焼となった第二次UWF
・UWFインタナショナルが目指した『昭和の新日本プロレス』
・『口は禍の元』隆盛を誇ったUWFインターナショナルが自滅
・『最強沼』から脱出できなくなった高田延彦


『マット界をダメにした奴ら』というのは逆説的な意味で、実際には『マット界に貢献した奴ら』ばかりである。つまり、マット界にとって『どーでもいい奴ら』は、このコラムには登場しない。
そんなマット界の功労者に、敢えて負の面から見ていこうというのが、この企画の趣旨である。マット界にとってかけがえのない人達のマイナス面を見ることで、反省も生まれるだろうし、思わぬプラス面も見つかって、今後のマット界の繁栄に繋がるだろう。記事の内容に対し、読者の皆様からは異論も出ると思われるが、そこはご容赦いただきたい。(文中敬称略)

かつて『プロレスは最強の格闘技』という幻想があった。提唱したのはアントニオ猪木であり、それを受け継いで具現化しようとしたのが高田延彦である。しかし、結果的にそれが高田を『マット界をダメにした奴』にしてしまった。

▼バブルと共に弾け散ったUWF、前田日明~マット界をダメにした奴ら

[ファイトクラブ]バブルと共に弾け散ったUWF、前田日明~マット界をダメにした奴ら

ミスター・プロ野球から燃える闘魂へシフトした青春のエスペランサ

1997年10月11日、東京ドーム。『プロレスは最強の格闘技』という看板を掲げ、自らをその中でも『最強』と自負していた男は、グレイシー柔術“なる”格闘技のヒクソン・グレイシー“なる”選手に、僅か1ラウンド4分47秒で腕ひしぎ十字固めによりギブアップ負けした。この日は、プロレス・ファンには『プロレスの命日』として記憶されている。
その1年後、同じ『プロレスの命日』の日に、同じ東京ドームで、同じヒクソン・グレイシーに『プロレス最強の男』は、前年より善戦したとはいえ1ラウンド9分30秒で同じ腕ひしぎ十字固めによってギブアップ負けを喫した。
それより前の1995年10月9日には、同じ東京ドームで『プロレス最強の男』は新日本プロレスの武藤敬司に足4の字固めでギブアップ負けしている。『プロレス最強の男』にとって10月10日前後は厄日、東京ドームは鬼門なのかも知れない。

後に『最強』と名乗る男、高田延彦は、子供の頃から『最強』を目指していたわけではなかった。小学生だった高田が憧れていたのは、ご多分に漏れず長嶋茂雄。当然のことながら野球少年だった高田だが、小学六年生の時に長嶋は「我が巨人軍は永久に不滅です」という言葉を残して引退する。中学では野球部に入ったものの、高田少年の野球熱は冷めていった。
もし、あと1年遅く、即ち高田が中学生になってから長嶋が引退していれば、高田はそのままプロ野球選手を目指していたかも知れない。

長嶋に代わり、高田にとっての憧れの対象はアントニオ猪木に移っていく。いかにも強そうな外国人レスラーを、猪木は次々と倒していった。大人になる前の少年にとって、猪木はあまりにも光り輝いていたのだ。
中学卒業後、高田は高校へ進学せずにトレーニングしながらアルバイト生活を送り、新日本プロレスの門を叩く。1980年、17歳の時のことだった。『最強の男』への第一歩だ。

エリートとは程遠い叩き上げの高田だったが、雲の上の人であるアントニオ猪木の付き人になり、先輩の前田日明には弟のように可愛がられ、必死でトレーニングを積んで強くなっていく。
さらに、初代タイガーマスク(佐山聡)の突然の引退により、前座レスラーに過ぎなかった高田に思わぬチャンスが巡ってきた。
たまたま猪木の付き人として北米にいた高田は、タイガーマスクの代役としてカナダのカルガリーで初のテレビ・マッチを行うことになる。この試合に勝利した高田は、若手のホープとして期待されるようになり、ワールドプロレスリングの実況を担当していた古舘伊知郎からは『青春のエスペランサ』と称された。

順調にプロレスラー人生を歩み始めた高田だったが、新日本プロレスが大激震に見舞われる。それは、高田の人生をも大きく左右することになった。

▼アントニオ猪木の存在が、高田延彦を『最強』への道を歩ませるようになった

第一次UWFから新日本プロレスに出戻り、高田も大きく成長

タイガーマスク引退騒動の頃、新日本プロレスでクーデターが勃発。それをキッカケに1984年、新団体UWF(第一次)が設立された。若手のホープ前田日明をエースとする新団体に、高田は新日からの貸し出し選手という形でオープニング・シリーズに参加する。
そして、前田の兄貴分である藤原喜明の誘いもあって、高田は正式にUWF入団。さらには、引退していた佐山聡がザ・タイガー(後にスーパー・タイガーと改名)として参加し、新日の道場ではカール・ゴッチを師と仰いでいた連中が出揃った。

それまでは普通のプロレスをしていた第一次UWFも、後に格闘プロレスと呼ばれるスタイルの原型が出来上がる。空中殺法は封印、ロープに飛ばない、地味な関節技で勝負が決まる、本格的なキックを多用、格を廃して実力者だけが勝ち残るなど、プロレスの持つ胡散臭い要素を排除したファイトに、一部のファンが熱狂した。
新日に比べて選手層が薄かったため、高田にもチャンスが増える。上の方の試合で使ってもらえたのだ。高田の知名度が上がると同時に、実力も身に付く。

しかし、当時はテレビ中継がなければプロレス団体は潰れると言われた時代。第一次UWFには定期テレビ放送もなく、資金力もない。
しかも、スポンサーとして期待された豊田商事がとんでもない詐欺会社で、会長刺殺事件が起きて『ギャラが3倍になる』などという夢のような計画も頓挫。資金繰りがさらに困難となる。
そして、スーパースターの佐山聡が他のレスラーやフロントと対立して退団。第一次UWFは活動を停止し、新日本プロレスと業務提携する以外に生き残る道はなかった。

1985年、再び新日マットに上がる高田らU戦士。高田にとって、第一次UWF経験は無駄ではなかった。UWFと新日との対抗戦では主力選手として扱われたのだ。
ただ、シングルで高田のライバルにあてがわれたのは全日本プロレス出身の越中詩郎。新日本体の選手を傷付けないマッチメイクに、高田は不満を持っていた。言葉は悪いが、なんで全日では前座だったレスラーなんかと闘わなきゃならないんだ、と。高田は、UWFはもちろん新日本プロレスから見ても、全日本プロレスは一段下と思っていたのだ。

だが、高田は越中と熱戦を繰り広げ、『ジュニア版・名勝負数え歌』と呼ばれてファンを熱狂させる。高田のキックを逃げずに正面から受け続ける『耐えるファイト』越中のおかげで、高田の人気が急上昇すると共に、越中も外様のポジションから脱した。
全く異質のスタイル同士が触れ合うと、とてつもない化学反応を起こし、伝説的な試合が生まれる場合がある。それがプロレスの魅力の一つだ。

▼越中詩郎は高田伸彦(現:延彦)との名勝負で、新日本プロレスでも認められるようになった

しかし、前田日明が長州力の顔面を蹴ったことがキッカケで新日を退団することになる。高田にとって、兄貴分たる前田のいない新日本プロレスに留まる理由もない。
前田と高田、そして第一次UWFのメンバーだった山崎一夫が中心となって、第二次UWFを立ち上げる。1988年5月のことだった。

そして高田自身も、第二次UWFで『最強の男』へ大きく羽ばたいていく。

高田延彦にとって不完全燃焼となった第二次UWF

第一次と同じく、テレビ中継なしで旗揚げした第二次UWF。しかし、それでもUWFは大人気を博した。
ちょうどその頃、新日本プロレスおよび全日本プロレスのテレビ中継が、ゴールデン・タイムから撤退している。テレビ・プロレスが衰退した時期でもあったのだ。
逆に第二次UWFは、テレビ中継を行わないことでファンに飢餓感を与え、大会場を超満員で埋めるほどのファンを集める。

そして、第二次UWFも格闘プロレスを唱え、従来のプロレスとは一線を画すファイト・スタイルを貫いた。それが、ファンの目には新日や全日とは違う『真剣勝負のプロレス』と映り、熱狂的なUWF信者を産むことになる。
さらには、第二次UWFはプロレスに興味のなかった人たちも巻き込み、社会現象となった。高田は前田に次ぐ№2として、ますます人気が上がる。前田を倒したこともあり、高田は最高のレスラー人生を送っているかのように思えた。

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