[ファイトクラブ]バブルと共に弾け散ったUWF、前田日明~マット界をダメにした奴ら

[週刊ファイト2月24日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼バブルと共に弾け散ったUWF、前田日明~マット界をダメにした奴ら
 by 安威川敏樹
・プロレスのことは全く知らずにプロレスラーになった、稀有な存在
・問題が山積み、第一次UWFはあえなく失敗
・新日本プロレスを解雇された前田日明が第二次UWFを設立
・第二次UWFが社会現象となるほどの大人気に
・大ブームとなった第二次UWFは僅か2年半であっけなく崩壊
・神社長が前田日明に書いたという『詫び状』の謎
・前田日明はプロレス界における『第四の男』


『マット界をダメにした奴ら』というのは逆説的な意味で、実際には『マット界に貢献した奴ら』ばかりである。つまり、マット界にとって『どーでもいい奴ら』は、このコラムには登場しない。
 そんなマット界の功労者に、敢えて負の面から見ていこうというのが、この企画の趣旨である。マット界にとってかけがえのない人達のマイナス面を見ることで、反省も生まれるだろうし、思わぬプラス面も見つかって、今後のマット界の繁栄に繋がるだろう。記事の内容に対し、読者の皆様からは異論も出ると思われるが、そこはご容赦いただきたい。(文中敬称略)

 今回、ご登場を願うのは前田日明。ご存じ“格闘王”だ。前田の存在は、プロレスはおろか格闘技の歴史まで変えてしまった。それほど偉大な『マット界をダメにした奴』なのである。

▼長州力vs.前田日明は永遠!? 個人メディアでも続く仁義なき闘い

[ファイトクラブ]長州力vs.前田日明は永遠!? 個人メディアでも続く仁義なき闘い

プロレスのことは全く知らずにプロレスラーになった、稀有な存在

 前回の『天龍源一郎編』で、日本のプロレス界は世代が下るごとにエース級レスラーが倍々ゲームに増えている、と書いた。第一世代が力道山、第二世代がジャイアント馬場&アントニオ猪木、第三世代がジャンボ鶴田&藤波辰爾&長州力&天龍源一郎だ。
 その下の第四世代は闘魂三銃士(武藤敬司&橋本真也&蝶野正洋)に全日四天王(三沢光晴&川田利明&田上明&小橋建太)で計7人と、第三世代のほぼ倍となる。闘魂三銃士に佐々木健介を加えると計8人になって、ちょうど2倍だ。

 ところが、これら『世代間エース』に入らない連中がいる。藤原喜明、前田日明、高田延彦ら、いわゆる“U戦士”たちだ。そんなU戦士の中心人物が、他ならぬ前田日明である。
 彼らが『世代間エース』に加わらないのは、U戦士たちが主戦場としていたプロレス団体『UWF』が、既存の全日本プロレスや新日本プロレスとは一線を画す存在だったからだ。

 前田が新日本プロレスに入団したのは1977年。プロレスラーの少年時代は例外なくプロレスが大好きなのだが、前田の場合は違った。前田は、プロレスに全く興味がなかったのである。
 前田を格闘技の世界に引き込んだのは“宇宙恐竜”ゼットン。ウルトラマンがゼットンに敗れて動かなくなり、ショックを受けた前田日明少年はゼットンを倒すために少林寺拳法を始めた。
 普通は、ゼットンに勝った科学特捜隊に憧れるものだが、科学兵器でしか倒せないゼットンを素手でやっつけようという発想がブッ飛んでいる。まあ、そこは小学生だから仕方ないのだが。

 前田は大阪の北陽高校(現:関大北陽)に進学すると、空手道場に通い始める。この頃の前田は、荒くれ者の多いミナミや西成の街に出て喧嘩を吹っかけていた。
 そして、関取は無理でも序ノ口の相撲取りなら勝てるのではと思い、大阪場所に来ていたザンバラ髪の若手力士を後ろから襲ってやろうとすると、その傍にいたのは当時の大横綱だった輪島。
「坊主、体がデカイな!」
「ぼ、僕、輪島さんの大ファンなんです」
 ビビった前田が咄嗟に答え、その場から逃げ出した。その輪島を、後に天龍源一郎が蹴り上げ、衝撃を受けた前田が長州力の顔面を蹴撃して第二次UWFを設立したのだから、人の縁は面白い。

 高校卒業後、大学受験に失敗した前田はアルバイトしながら空手も続けていたが、たまたま道場に来たタイガーマスクになる前の佐山聡の目に留まり、新日本プロレスにスカウトされる。
 佐山から連絡を受けた営業本部長の新間寿は大阪へ飛び、プロレスラーになれば豪勢なメシがタダで食べ放題、練習環境も整っているのでいくらでも強くなれる、提携関係にあるモハメド・アリのジムに通ってもいい、と説得した。新間に、生まれて初めて食べるステーキをご馳走され、前田はプロレス入りを決める。

 前田はすぐに上京し、アントニオ猪木邸に連れて行かれると、緊張した相手は猪木ではなく、当時の妻だった倍賞美津子。「本物の倍賞美津子や!」と、プロレス大好き少年では絶対に有り得ない反応を示した。普通は猪木にばかり目が行って、たとえ大女優でもそっちのけになるのだが。

 猪木は前田に「裸になれ(上半身のみ)」と命じる。これは猪木の少年時代、初めて会った力道山に言われたのと全く同じ行為だった。
 猪木は前田の体を見て「コイツはルー・テーズになる」と一目惚れ、入門を許される。許されるも何も、前田はプロレスラーになりたかったわけではなく、単にアメリカへ行ってアリのジムに通い、強くなりたかっただけなのだが。しかし、新間の言ったアリのジム行きは口から出まかせの空手形に過ぎなかったのである。

 しかし、前田が入門した新日本プロレスの道場は、想像を絶する世界だった。まさしく血のションベンが出る猛練習が延々と行われる。大阪の空手道場とは比べ物にならなかった。
 さらに、練習よりも苦しかったのは食事だ。貧しい家庭に育った前田の主食はインスタントラーメンやレトルトカレーだったが、それがステーキやチャンコ鍋に変わる。新間の言った通り、豪勢なメシがタダで食べ放題というのは天国でもあったが、それ以上に食事とは単なる食事ではなく、プロレスラーにとって仕事でもあった。
 入門当時の前田は身長こそ高かったものの体はヒョロヒョロで、バーベルもベンチプレスで45kgも上げられない。コーチ役の山本小鉄からは、吐きそうになりながらも無理やり食わされ、喉を通った食い物が戻ってきそうなところを水で流し込む。空腹を我慢するのも辛いが、もう食えないのにそれ以上食わされるのはもっと苦しかった。

 厳しい練習にも耐え、過酷な食事で何とか体もプロレスラーらしくなった前田は1978年、デビューを果たす。本来なら、ようやくプロレスラーになれたと喜ぶものだが、前田は違う。「いつアリのジムに行かせてくれるんですか」と問い、「まだそんなことを言ってるのか」と呆れられた。

▼前田日明を鍛えた山本小鉄(右)。左は星野勘太郎

問題が山積み、第一次UWFはあえなく失敗

 デビューを果たした前田は新日本プロレスのホープとしてヨーロッパ遠征へ出向き、1983年には世界統一を目指したIWGPの決勝リーグにヨーロッパ代表として参戦する。
 ここで前田は当然のことながら猪木に敗れたものの、藤波辰巳や長州力らを差し置いてIWGP決勝リーグに参戦したのは、前田が次期エースとして期待されていたことの証しだった。

 しかし1984年、前田は新日クーデターに巻き込まれる。人気絶頂だった初代タイガーマスク(佐山聡)の引退に端を発し、猪木が興した事業のアントン・ハイセルの膨大な赤字が新日の経営を圧迫しているとされ、猪木と坂口征二がそれぞれ社長と副社長を辞任、新間寿営業本部長は退社を余儀なくされた。
 だが、新日をクビになった新間は新団体UWF(ユニバーサル・レスリング・フェデレーション)設立を画策、猪木をはじめ主力選手をUWFに移籍させて、反乱分子を新日に置き去りにしようとした。WWF(現:WWE)と提携し、フジテレビで定期放送するという計画である。
 その第一陣として、前田が抜擢された。

 ところが、猪木をはじめ主力選手はUWFに来ない。それどころか猪木と坂口は、新日の社長および副社長に復帰。当然のことながら「約束が違う」とフジテレビの定期放送は頓挫、UWFはテレビ放送のないまま、完全な見切り発車となった。当時は、テレビ放送がなければプロレス団体の経営は成り立たない、と言われた時代である。
 UWF設立当初のメンバーは、前田の他にラッシャー木村、剛竜馬、グラン浜田のたった4人。前田以外、後の『U系』とは無縁のレスラーばかりだ。ただ、新日からの貸し出し選手として高田伸彦(現:延彦)が含まれていた。とはいえ、この頃のUWFは、後のUスタイルとは程遠く、普通のプロレスを行っていたのだ(後に木村、剛、浜田らはUWFを退団)。

 すぐに潰れると思われたUWFだったが、1984年7月23日の東京・後楽園ホールでの『UWF無限大記念日』には引退していた初代タイガーマスクがザ・タイガーとして登場、UWFは独り歩きを始めた。まだ従来のプロレス部分を多く残していたとはいえ、高田と藤原喜明が正式に入団し、この日にU系スタイルの原型が出来上がる。この後、木戸修も加わった。

▼『UWF無限大記念日』ではまだ、佐山聡はダイビング・ヘッドバットを使っていた

 第一次UWFは『ロープワークなし、空中殺法なし、場外乱闘なし』の、従来のプロレスとは一線を画するファイト・スタイルを掲げ、一部の熱狂的ファンを産むものの、資金力のなさは如何ともし難い。スポンサーとなるはずだった海外タイムスが、実は豊田商事の子会社だった。
 豊田商事というのは、身寄りのない老人から金を巻き上げる詐欺会社。「海外タイムスがスポンサーになることでギャラが3倍にアップ」と喜んでいた矢先、豊田商事の永野一男会長が殺害されるというニュースが大々的に報道され、UWFは窮地に陥った。

 さらに、佐山と前田ら他のメンバーが対立。UWFをシューティング化し、3週間で5試合に限定してA・Bリーグに分けようと主張する佐山に対し、前田らは「それでは経営がもたない」と反対、前田が佐山にシュートを仕掛けるという不穏試合を行い、佐山はUWFを去る。
『ロープワークなし、空中殺法なし、場外乱闘なし』から『テレビ放送なし、スポンサーなし、タイガーなし』の三重苦に喘いだ第一次UWFは1985年9月に活動停止、新日本プロレスと提携する以外に生き延びる術はなかった。
 しかし、UWF信者は確実に生き残ったのである。

▼後に対立する佐山聡と前田日明も、『UWF無限大記念日』では好ファイトを展開した

新日本プロレスを解雇された前田日明が第二次UWFを設立

 新日に舞い戻った前田らUWF勢だったが、前田の苦悩は尽きなかった。とりあえずギャラの心配はなくなったものの、新日内にUWFを排除しようとする動きが散見されたからである。
 ジャパン・プロレスを設立して全日本プロレスに参戦していた長州力が新日本プロレスにUターン、世代抗争をブチあげ、敵対していた藤波や前田と共闘し、アントニオ猪木や坂口征二ら現在のリーダーを潰そうとした。いわゆる『ニューリーダーvs.ナウリーダー』抗争の勃発である。
 しかし『ニューリーダー』は判るが、『ナウリーダー』って何だ? ネットで検索しても、そんな言葉は当時のプロレス界ぐらいしか出て来ない。

 長州の呼び掛けに前田はシラケきっていて「誰が一番強いのか決まるまでやればいいんだよ」と全く相手にしなかった。

 そんな頃、ライバル団体の全日本プロレスで天龍源一郎が『天龍革命』を起こし、前述のように天龍は輪島の顔面を容赦なく蹴り上げ、そのシーンをテレビで見た前田は焦る。

「俺たちUWFが相手を蹴るのは、スポンジが入ったレガースの部分。それに対し、天龍さんは輪島さんの顔面を硬いレスリング・シューズでボコボコに蹴り上げる。そんな蹴りをする天龍さんも凄いが、耐えている輪島さんも凄い。新日本プロレスは『過激なプロレス』を標榜しているが、全日本プロレスの天龍さんの方が、よほど『過激なプロレス』をしているじゃないか」

 そして前田は、行動に出た。6人タッグ・マッチで、長州力の顔面を思い切り蹴ったのである。長州に重傷を負わせ、猪木からは「プロレス道にもとる行為」と酷評され、前田は新日本プロレスを追われた。

 しかし1988年5月、前田は第二次UWFを設立。旗揚げ当初のメンバーは前田の他に高田延彦、山崎一夫、中野龍雄、安生洋二、宮戸成夫(現:優光)のたった6人。第一次の頃と大差がないが、明らかに違う点が2つあった。
 1つめは、第二次では最初からU系スタイルだったこと。2つめは、旗揚げした時点でファンからの熱狂的な支持があったことである。

 同年5月12日の東京・後楽園ホールでの旗揚げ戦は、週刊プロレス(ベースボール・マガジン社)では15分で完売と喧伝された。会場には第一次の頃からのUWF信者や、多くの著名人が詰めかけ、たった3試合(うち1試合はスパーリング)に熱狂する。
 いよいよ本物のプロレスが始まる、UWF信者たちはそう信じて疑わなかった。

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