[週刊ファイト10月6日号]収録 [ファイトクラブ]公開中
▼ライバルを独走させた全日本プロレス~マット界をダメにした奴ら
by 安威川敏樹
・18年ぶりの日本武道館に21年ぶりの全日本プロレス中継
・かなり恵まれた船出となった全日本プロレス
・人気で新日本プロレスに逆転され、窮地に立った全日本プロレス
・松竹芸能vs.吉本興業にそっくり?
・長州力らジャパン・プロレスと提携、一時的に新日本プロレスを逆転
・鶴龍対決からSWS事件を経て、四天王プロレスの時代へ
・黄金時代とは別物となってしまった全日本プロレス
『マット界をダメにした奴ら』というのは逆説的な意味で、実際には『マット界に貢献した奴ら』ばかりである。つまり、マット界にとって『どーでもいい奴ら』は、このコラムには登場しない。
そんなマット界の功労者に、敢えて負の面から見ていこうというのが、この企画の趣旨である。マット界にとってかけがえのない人達のマイナス面を見ることで、反省も生まれるだろうし、思わぬプラス面も見つかって、今後のマット界の繁栄に繋がるだろう。記事の内容に対し、読者の皆様からは異論も出ると思われるが、そこはご容赦いただきたい。(文中敬称略)
今年の10月21日、創立50周年を迎える全日本プロレス。“王道”と呼ばれる老舗プロレス団体は、まさしく激動の歴史を歩んできた。それ故、プロレス界に多大な影響を与えたのである。
▼1974年・新春 進撃の東洋の巨人ジャイアント馬場!
18年ぶりの日本武道館に21年ぶりの全日本プロレス中継
9月18日、全日本プロレスにとって聖地とも言える東京・日本武道館で、50周年記念大会を行った。全日が武道館で興行を打つのは、実に18年ぶりである。
しかもこの日は、BS日テレで午後7時から生中継した。『全日本プロレス中継』と言えば、日本テレビの代名詞的な番組だったのだ。地上波ではないとはいえ、ゴールデン・タイムでの無料放送である。日テレのグループが全日本プロレスを放送するのは21年ぶりだ。
解説は川田利明と小橋建太で、いきなりテレビ画面に登場したのは渕正信&大仁田厚&越中詩郎vs. グレート小鹿&谷津嘉章&井上雅央という、オールド・ファンが泣いて喜ぶような顔ぶれ。
谷津が義足で登場し、大仁田がまともなレスリングを見せ、80歳の小鹿が躍動し、セコンドのザ・グレート・カブキが毒霧殺法をお見舞いするという、見所タップリの6人タッグとなった。
CM前には過去の全日本プロレス名場面を紹介し、その後は世界タッグ、世界ジュニア、三冠時期挑戦者決定戦、三冠ヘビー級という王道パターンで現在の全日本プロレスを見せ付ける。
セミ・リタイアしたレジェンド・レスラーたちのファイトの後に、全日の十八番であるタッグ戦、スピーディーで空中殺法満載のジュニア戦、次期挑戦者決定戦ではかつての全日には見られなかった秒殺を披露し、最後は三冠戦で締める、という対比を重視した流れだった。
さらには、生中継だったために正規の放送時間には収まらなかったものの、サブチャンネルで続きを見せてくれたのだ。以前のBS朝日『ワールドプロレスリング・リターンズ』での新日本プロレスの生中継では尻切れトンボになったのとは対照的だった。
しかも、延長分では期待の新人である安齊勇馬のデビュー戦を録画で紹介したのは、ファンにとってはたまらなかっただろう。
また、タイガーマスク(四代目)や永田裕志といった新日本プロレス勢を『全日本プロレス中継』で見られたのも嬉しかった。全日本プロレスと新日本プロレスと言えば、旗揚げ当初から不俱戴天の仇同士だったからだ。
当時は新日と契約していたスタン・ハンセンが全日の会場に乱入した時、川田利明が『ワールドプロレスリング』に登場した時の興奮は、若いプロレス・ファンには理解できないだろう。
とはいえ、問題がなかったわけではない。武道館に集まったのは主催者発表で4780人と、全盛期の約3分の1。1990年代の全日本プロレスと言えば、武道館満員伝説が有名だった。年に7回ぐらいあった武道館大会を、ことごとくソールドアウトしてきたのである。
しかしこの日は、照明が当たっていなかったとはいえ、3階席がガラガラだったのは明らかだった。黄金時代を知るファンには寂しい光景だったと言わざるを得ない。
さらに、この日に出場した外国人レスラーはサイラスとクリストファー・ダニエルズの2人だけで、いずれもテレビには登場せず。つまり、テレビでの試合は外国人が絡まなかった。
全日本プロレスと言えば豪華な外国人レスラーが売り物だったのだ。時代が違うと言えばそれまでだが、物足りなさを感じたオールド・ファンも少なくなかっただろう。
▼新人の安齊勇馬が新日本プロレスの永田裕志を相手にデビュー戦を行った
かなり恵まれた船出となった全日本プロレス
1972年10月21日、全日本プロレスは東京・町田市体育館で旗揚げ前夜祭を行い、翌22日に東京・日本大学講堂で本格的な旗揚げ戦となった。町田大会を日本テレビの『全日本プロレス中継』で生中継し、旗揚げ戦を日大講堂(旧・両国国技館)という大会場で行ったのも、全日本プロレスはかなり条件のいいスタートだったことが窺える。
全日本プロレスの創設者は、言わずと知れたジャイアント馬場。全日本プロレスを興す前の馬場は、日本プロレスのエースだった。
安定した地位を確立し、経済的にも恵まれていた馬場が日プロを飛び出した背景には、やはり終生のライバルであるアントニオ猪木の存在があったのだ。
1971年末、日プロは会社乗っ取りを企てたとして猪木を永久追放する。当時、日本テレビとNETテレビ(現:テレビ朝日)が日プロを定期放送していたが、馬場の試合は日テレが独占という契約だったため、NETテレビは猪木をエースとして扱っていた。その猪木がいなくなったので、NETテレビは困ってしまったのである。
そこでNETテレビは日プロに馬場の試合を放送させてくれと打診、日プロも猪木が興した新日本プロレスの定期放送をNETテレビが始めてはかなわんと、日テレとの契約を無視して馬場の試合をNETテレビに売ってしまった。
もちろん、日テレは激怒。日テレは日プロの定期放送を打ち切り、馬場に独立を勧める。馬場も日プロのやり方に疑問を持ち、もう日プロにはいられないと思って独立した。
そして、全日本プロレスを立ち上げたのである。
当時はテレビの定期放送がないとプロレス団体は存続できないと言われた時代。プロレス団体を興した場合はテレビ局の確保に苦労するが、全日の場合は最初から日テレが土曜夜8時というゴールデン・タイムで定期放送してくれると約束していたのだから、圧倒的に有利なスタートとなった。ライバルの新日本プロレスは1年間も定期放送がなかったのである。
また、当時のプロレス団体は、外国人レスラーの質が浮沈のカギを握っていたが、この点でも全日は強力だった。馬場は若手修業時代にアメリカでトップを張っていたため、全米のプロモーターに顔が利く。ザ・ファンクスやブルーノ・サンマルチノらが馬場に協力してくれたので、全日は外国人レスラーには全く困らなかったのである。この点でも、外国人ルートを持たなかった猪木の新日とは対照的だ。
唯一、全日の弱点は日本人レスラーだった。全日の旗揚げメンバーは大熊元司、マシオ駒、サムソン・クツワダ、佐藤昭夫(現:昭雄)に馬場という僅か5人。旗揚げ戦には藤井誠之と、力道山の息子である百田光雄も加わるが、これではいかにも層が薄い。
そこで馬場は、日プロのライバル団体だった国際プロレスに協力を要請。国プロの吉原功社長は、人気レスラーのサンダー杉山をトレードしてくれた。
団体を興していきなり、商売敵と手を組むのだから、馬場は自分で思っているよりもかなりの世渡り上手だ。もっとも、国プロも新団体と提携しなければならないほど、日プロに押されていたということだろう。
とはいえ、国プロは同じ新団体でも新日とは協力しなかった(後に国プロは新日と提携)。猪木に比べて馬場は信用されていた、というところか。
さらに、旗揚げ間もなくして、レスリングのオリンピック選手だった鶴田友美、後のジャンボ鶴田を獲得。いきなり次期エースとなる新人を得たのだから、全日本プロレスの前途は洋々、雲一つない快晴の船出となった。
▼左から柔道王のアントン・ヘーシンク、ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田
人気で新日本プロレスに逆転され、窮地に立った全日本プロレス
全日本プロレスとは逆に厳しい出航となった新日本プロレスは、翌1973年に巻き返しを図る。ジャイアント馬場とアントニオ猪木が日本プロレスから抜けて、同団体のエースとなった坂口征二が新日に移籍したのだ。このため、NETテレビは日プロの定期放送を打ち切り、新日の定期放送を始める。これが現在まで続くテレビ朝日の『ワールドプロレスリング』だ。
スターとテレビを失った日プロは間もなく崩壊、日本の男子プロレスは3団体時代となった。しかし、国際プロレスは弱小だったため、実質的には全日本プロレスと新日本プロレスの対立時代である。事実、この8年後の1981年には国プロは崩壊した。
テレビ局を得たとはいえ、全日に比べて外国人レスラーが貧弱だった新日は、これまでのプロレスにはなかった路線を打ち出した。まずは、国プロのエースだったストロング小林を引き抜き、日プロ時代はタブーだった日本人対決に着手する。
さらには、柔道王のウィリエム・ルスカや、ボクシング史上最強と謳われたモハメド・アリらと異種格闘技戦を行った。異種格闘技路線は大ヒット商品となり、熱狂的な猪木信者を産む。
全日に後れを取っていた外国人レスラーも、アメリカでは無名ながらタイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセンなど日本向きのレスラーを発掘、猪木のライバルに育て上げた。
一方の全日は、豪華な外国人を活かし、ベビーフェイスのザ・ファンクスとヒールのアブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シークの外国人対決が人気を呼んだ。そして夏になるとミル・マスカラスが来日、屋外の東京・田園コロシアムの風物詩となる。
暮れには、有名外国人が多過ぎるので、それなら4人同時に見られるタッグ・リーグ戦にしてしまえ! とばかりに世界最強タッグ決定リーグ戦を始めた。最強タッグも冬の季語になりそうなほどの人気を博す。
だが、ファンが観たいのはやはり日本人レスラーが活躍する試合。また、全日には新日のような仕掛けがなく、昔ながらのプロレスを見せているだけなので、マンネリになっていった。
1980年前後には『私、プロレスの味方です』という本の中で、著者の村松友視が猪木と新日本プロレスを『過激なプロレス』と絶賛し、馬場および全日本プロレスを『プロレス内プロレス(ヌルいプロレス)』とコキ下ろした。その影響もあり、「プロレス・ブームではなく新日本プロレス・ブーム」と呼ばれるようになる。旗揚げ当初の人気は完全に逆転した。