[ファイトクラブ]1974年・新春 進撃の東洋の巨人ジャイアント馬場!

[週刊ファイト6月18日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

本誌6月11日号が「6月2日のIWGP決勝リーグ猪木失神事件」ということで、表紙からもMSGバックステージでのアントニオ猪木にした手前、今週号はジャイアント馬場を振り返る。

▼1974年・新春 進撃の東洋の巨人ジャイアント馬場!
 by 藤井敏之
・年末は豪華、新春は少しガイジンの質を落としていた時代
・アントニオ猪木が“死神”ジョニー・パワーズ下しNWF世界王座戴冠
・1974年新日はマイク・ラーベルから“大怪物コンビ”マクガイヤー兄弟
・ジャイアント馬場の政治力:NWA3王者揃い踏みブリスコ、レイス、ドリー
・馬場レイス、ドリーJブリスコ1月27日東淀川体育館NWA王者シリーズ
・小額な人件費で対応した新日本プロレスが視聴率では・・・
・世界戦連発によるNWA権威とタイトルマッチの重厚さが無くなる発端
・ジャンボ鶴田Hレイス戦集客とNWA幻想


 1960年から1970年にかけてのプロレス界においては、年末に豪華外人を呼びタイトルマッチを連日のように大会場で行い、他団体との競争に優位に立とうとするのが常であった時代。1973年末においても全日本プロレスはアントン・ヘーシングをプロレス界にデビューさせた勢いから、“鉄の爪”フリッツ・フォン・エリックを呼び大阪と東京でPWF世界ヘビー級王座を賭けて2連戦を行った。

 一方の雄、新日本プロレスはアントニオ猪木を待望のNWF世界王者に挑戦させるため、王者“死神”ジョニー・パワーズを来日させ東京都体育館にて世界王座挑戦試合を敢行! 見事猪木は卍固めでパワーズを破り悲願の世界王者となる! にわかに低迷していたプロレス界も慌ただしくなり、翌年への飛躍が期待されていた。ただ、例年、年末大興行が終え、次の新年のシリーズは少し外人の質を落し、春の本場所に向け徐々にと盛り上げてゆくのがこれまでの通常の流れであった。


 明けて1974年、この年は例外であった。新日本プロレスはロサンゼルスのマイク・ラーベルからのブッキングなどによりトロス兄弟、トニー・チャールス、マイテイ・カランバ、そして“大怪物コンビ”マクガイヤー・ブラザーズと、はっきり言って二流扱いの選手を呼びお茶を濁すシリーズ予定にも見えた。当時の新日本プロレスにおいてはそれが目一杯だったかもしれない。まあ、全日本プロレスも同じような感じだとの対抗戦略だったかもなのだが・・・。

 ところが全日本プロレスの総帥であるジャイアント馬場はNWA内の信用と実績でもって、3代のNWA世界王者(現王者 ジャック・ブリスコ、前王者 ハーリー・レイス、元王者 ドリー・ファンク・ジュニア)を同時に呼ぶという快挙を放ち、一気に新日本プロレスに攻めてきたのである。さらには前払い的に3王者の来日前にもテリー・ファンク(ドリー・ファンク・ジュニアの弟、未だ、ブレイクする前のこと)、ジェリー・ブリスコ(NWA王者 ジャック・ブリスコの弟)、ルーク・グラハム、ザ・パトリオット、プロフェッサー・タナカという強力外人勢を集結させた。新日本プロレスにとっては、全日本プロレスから一人でも引き抜きアントニオ猪木の王座に挑戦させたいぐらいの超豪華メンバーである。当時としては考えられないシリーズであったのだ!
 まさに当時の猪木にとってレスリング・センスの合うレスラー達が、馬場の政治力でライバル団体である全日本プロレスに集結したのである。

 1960年代はジャイアント馬場の豪快無比なレスリングが好まれたが、1970年代に入りドリー・ファンク・ジュニアがNWA世界王者になってからはレスリング主体のサイエンスなレスラーの時代に変わりつつあった。そうアントニオ猪木もその範疇であったので、彼らとの闘いに自信がみなぎっていた頃と思われる。何故、彼らと闘えないのだと・・・ファンもジレンマを感じたものだ。

 ここで大阪の2大会を実際生で見た経験から、当時の会場の雰囲気を振り返りたい。

 先陣の新日本プロレスは1月25日の夜ほぼ満員の会場で、テレビでも生中継された。一般大衆にまで話題が届いた世界最重量のデブ、マクガイヤー兄弟の人気は集客力にも寄与し館内はほぼ満員(約7000人)、新日本プロレスとしてはいつもの殺伐とした雰囲気ではなく。館内は何か温かい感じが充満していた。マクガイヤー兄弟はホンダのスクーターで登場、リングインも笑いが起こる。

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