[ファイトクラブ]永遠の№2だった荒鷲、坂口征二~マット界をダメにした奴ら

[週刊ファイト7月28日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼永遠の№2だった荒鷲、坂口征二~マット界をダメにした奴ら
 by 安威川敏樹
・『坂口を出せ!』明治大学柔道部がプロレス会場に殴り込み
・日本のプロレス史を変えた、坂口征二の新日本プロレス移籍
・№2の立場から、徐々に主流を外れていく
・新日本プロレスの歴史の中で、最も安定していた坂口社長時代
・「坂口征二のことを悪く言う人間はいない」は本当か?


『マット界をダメにした奴ら』というのは逆説的な意味で、実際には『マット界に貢献した奴ら』ばかりである。つまり、マット界にとって『どーでもいい奴ら』は、このコラムには登場しない。
 そんなマット界の功労者に、敢えて負の面から見ていこうというのが、この企画の趣旨である。マット界にとってかけがえのない人達のマイナス面を見ることで、反省も生まれるだろうし、思わぬプラス面も見つかって、今後のマット界の繁栄に繋がるだろう。記事の内容に対し、読者の皆様からは異論も出ると思われるが、そこはご容赦いただきたい。(文中敬称略)

 今回は“世界の荒鷲”坂口征二。柔道日本一の看板を引っ提げて、鳴り物入りでプロレス界に入る。だが、その実績と巨大な体とは裏腹に、プロレス界のトップに立つことは遂になかった。

▼記者座談会:恵まれていないレスラーの引退後 悠々自適は坂口征二ひとり!

[ファイトクラブ]記者座談会:恵まれていないレスラーの引退後 悠々自適は坂口征二ひとり!

『坂口を出せ!』明治大学柔道部がプロレス会場に殴り込み

 坂口征二のイメージと言えば、アントニオ猪木とゴールデン・コンビを組んでいた頃の姿を思い出す人も多いだろう。もう少し時代が下れば、新日本プロレスの社長としてドーム大会を連発していた経営者の姿かも知れない。あるいは、俳優・坂口憲二の父親としての姿か……。

 坂口は元々、柔道で名を馳せた。柔道の名門・明治大学では神永昭夫の指導を受け、稽古相手となる。その頃の、日本柔道界の大きな目標は、1964年に開催される東京オリンピックで金メダルを独占することだった。
 日本にとって最大の敵は、無差別級のアントン・ヘーシンク。ヘーシンクを相手にする神永は体重が102kgに過ぎず、196㎝、120kgというヘーシンクの巨体は脅威だった。そのため、体格的にヘーシンクとほとんど変わらない坂口は、神永の練習台としてうってつけだったのである。

 だが、本番の東京五輪では、神永はヘーシンクのパワーに圧倒され一本負け。無差別級以外の階級では日本勢は金メダルを総ナメにしたにもかかわらず、最も重要な無差別級で銀メダルに終わったため『日本柔道、屈辱の敗北!』とマスコミに叩かれた。お家芸の柔道でも、日本人が外国人に負けることが珍しくなくなった現在では考えられないことだ。
『打倒、ヘーシンク』は、日本柔道界にとって悲願となった。その中で、最も期待を寄せられたのが坂口征二である。

 東京五輪の翌年、宮崎県延岡市の旭化成に入社した坂口は、全日本柔道選手権で優勝。だが、世界選手権ではヘーシンクに優勢負けする。さらに、1968年に開催予定のメキシコシティー・オリンピックでは柔道の不採用が正式決定。坂口は最大の目標を失ってしまう。
 翌1966年の全日本選手権では、坂口は準優勝に終わった。しかも、腰を痛めてしまったこともあり柔道熱が冷め、日本プロレスからのスカウトもあってプロレス入りへ心が傾く。

 1967年1月、坂口のプロレス入りの動きを察知した明大柔道部関係者は、日本プロレスが試合を行っていた東京・後楽園ホールに殴り込みをかける。この日、坂口が後楽園ホールに来るという情報を得たからだ。

「我々は明大柔道部の関係者です! 坂口を出してください!! 芳の里社長はどこですか!?」

 柔道家らしく敬語は使っているが、凄い剣幕だ。何しろ坂口は、明大柔道部にとって東京五輪で恥をかかされた(と本人たちは思っていた)屈辱を晴らす、最大の切り札だったのである。しかも、坂口に旭化成を僅か1年で一方的に退社されると、明大柔道部としてのメンツが立たず、今後は卒業生を採用してもらえない。

 しかし日プロ関係者は「坂口くんはいません。芳の里はこれからテレビ解説です」と取り合わなかった。坂口は、明大柔道部の連中が来ていると聞き、逃げ出したのだ。試合後にようやく、明大柔道部関係者は芳の里社長らと会談し、坂口に会ってから本人の意思を聞いて今後の進退を決めたいと申し出て日プロ側も了承。一応は明大側も納得して帰ったものの、既に坂口の心は決まっていた。
 後日、坂口は川島正次郎コミッショナーに会い、正式に日本プロレス入りが決定。「我々に坂口を会わせると約束したのに、話が違うじゃないか!」と明大柔道部関係者は激怒したが、この世界はやったもん勝ちである。柔道界にとって、プロレス界の理不尽さが身に染みたことだろう。
 すったもんだの末、坂口征二のプロレスラー人生がスタートした。

▼プロレス転向後、ジャイアント馬場とタッグを組むアントン・ヘーシンク(左)

日本のプロレス史を変えた、坂口征二の新日本プロレス移籍

 期待の大型新人として日本プロレスに入団した坂口征二は、いきなり海外遠征を経験する。下積みを経ずにトップレスラーへ駆け上がったプロレスラーと言えばジャンボ鶴田を連想するが、坂口はそれよりも早い時代の超エリートだった。
 帰国後の坂口は、先輩の大木金太郎を追い越してジャイアント馬場、アントニオ猪木に続くスター・レスラーとなる。馬場とは東京タワーズを結成、猪木とはNWAタッグ・リーグ戦でコンビを組んで優勝した。

 普通、他の格闘技で実績がある者がエリート扱いされてプロレス入りしても、どこかプロレスをナメていて大成しないことがままある。特に柔道家ではその傾向が顕著で、古くは木村政彦や前述のアントン・ヘーシンク、ウィリエム・ルスカに最近では小川直也もプロレスラーとして成功したとは言い難い。

 しかし坂口は、プロレスラーとしても成功した。プロレスを決して侮らず、真面目に取り組んだからだろう。
 ただ、柔道時代の癖が抜けず、プロレスラーとしては真面目すぎたのかも知れない。196㎝、125kgという日本人離れの申し分のない体だった割りには、大ブレイクするほどではなかった。

 1971年12月、アントニオ猪木が日プロの乗っ取りを企てたとして永久追放される。翌年に猪木は新日本プロレスを設立するが、その時に猪木が「馬場なんて3分で倒す。坂口なら片手で3分」と発言。馬場は相手にしなかったが、坂口は激昂した。プロレス界では猪木が先輩とはいえ、坂口の方が猪木よりも1つ年上なのだ。しかも坂口には、柔道日本一のプライドもある。
 坂口は、猪木がいなくなって空位となったUNヘビー級王座を奪取。タッグ戦線でも、馬場とのコンビで売り出すようになる。

 だが、ジャイアント馬場も日本プロレスを離れ、1972年10月に全日本プロレスを創設。坂口は自動的に日本プロレスのエースとなった。
 しかし、馬場や猪木に比べてスター性のない坂口がエースでは、日プロのテレビ中継の視聴率は低下、興行成績も落ちてしまう。国際プロレスをも下回るという、馬場&猪木時代には考えられない現象となった。結局、1972年の日プロは、男子プロレス4団体で最下位という非常事態だ。

 そんな中、坂口と同じ明治大学出身であるマサ斎藤の仲介で、坂口と猪木の会談が実現。プロレスはストロング・スタイルであるべき、と意見が一致して、日本プロレスと新日本プロレスを合併させる構想が浮上した。新・日本プロレスの設立である。
 少し前までは『片手で3分』論争で罵り合っていた二人による、歴史的合体だ。新日本プロレスを発展的解消し、力道山ゆかりの日本プロレスを新しく生まれ変わらせる、という計画である。

 だが、この猪木&坂口路線に、日プロの選手会長である大木金太郎が異議を唱えた。これでは、以前に起きた猪木による日プロ乗っ取り事件の再来である、と。結局、新・日本プロレス構想は頓挫し、両団体の合併には至らなかった。
 しかし、猪木&坂口の協調路線は変わらず、1973年4月に坂口は新日本プロレスに移籍。スター選手が大木金太郎だけになった日本プロレスは客を呼べず、NETテレビ(現:テレビ朝日)は日本プロレスの中継を終了して、新日本プロレスの定期放送を始めた。これにより、力道山が設立した日本プロレスは間もなく崩壊。20年間続いた老舗団体の歴史はあっけなく幕を閉じた。

 新日本プロレスは旗揚げ以来、ノーテレビで何とか存続していたが、テレビ放映があと3ヵ月遅れていたら倒産していただろうと言われる。NETテレビを連れてきた坂口は新日本プロレスにとって、まさしく救世主だった。
 新日本プロレスは、創設して50年経った今でも存続し、プロレス界最大手の座を守り抜いている。もし、坂口が新日本プロレスに移籍していなかったら、今のプロレス界は全く違った形になっていただろう。

 1973年4月に起きた、坂口征二の新日本プロレス移籍は、プロレス界にとって『その時、歴史が動いた』瞬間だった。ただし、坂口征二の長いプロレス人生の中で、団体のエースだった時期は日本プロレス末期の、たった半年間だけである。

▼坂口征二が新日本プロレスに移籍し、アントニオ猪木とガッチリ握手

№2の立場から、徐々に主流を外れていく

 晴れて新日本プロレスの一員となった坂口征二は、アントニオ猪木とのゴールデン・コンビを復活させた。新日は、猪木&坂口の二枚看板で売ろうとしたのである。これは、ジャイアント馬場の一枚看板となっていた全日本プロレスへの対抗策でもあった。
 だが、猪木と同格に近い扱いをされたのは最初だけ。間もなく坂口は、アントニオ猪木の噛ませ犬的立場となってしまう。強豪外国人レスラーが来日すると、坂口が相手して敗れる。巨漢の坂口すら倒す外国人レスラーの商品価値がアップするのだ。その点でも、その実力がファンに知られている坂口はうってつけの役目だった。
 そのうえで、その外国人レスラーを猪木が破ると、猪木の強さがクローズアップされる。

 これは、営業本部長だった“プロレス過激な仕掛け人”新間寿の意向もあったのだろう。猪木に心酔していた新間は、猪木をより光らせることに熱中していた。
 また、坂口も新間の思いを受け入れ、№2の位置に徹する。自分は表には決して立たず、常に猪木を立てていたのだ。『俺が、俺が』という性格ばかりのプロレスラーの中で稀有な存在である。

 先に『坂口の新日移籍が歴史を動かした』と書いたが、もし坂口が全日本プロレスに入団していたら、どうなっていただろう。馬場が日プロから独立するとき、日プロに残ったレスラーたちに「日プロが潰れたら俺の所(全日本プロレス)に来い」と声をかけた。その日プロ残党の中に坂口もいて、坂口は全日に来るものと馬場は思っていたに違いない。
 仮に坂口が全日に移籍していたら、新人のジャンボ鶴田と合わせて馬場&坂口&鶴田という、身長195㎝超えのトンでもない巨漢トリオが結成されていただろう。あるいは、全日マットに上がっていたアントン・ヘーシンクとの雪辱戦が、プロレスのリング上で行われたかも知れない。

記事の全文を表示するにはファイトクラブ会員登録が必要です。
会費は月払999円、年払だと2ヶ月分お得な10,000円です。
すでに会員の方はログインして続きをご覧ください。

ログイン