[ファイトクラブ]3月とアントニオ猪木-燃える闘魂が刻んだ、不滅の軌跡

[週刊ファイト3月26日]期間 [ファイトクラブ]公開中

▼3月とアントニオ猪木-燃える闘魂が刻んだ、不滅の軌跡
 編集部編
・追放と決意、そして旗揚げ戦-1972年3月6日、「新日本プロレス」誕生の瞬間
・「昭和の巌流島」の衝撃-1974年3月19日、蔵前国技館、NWF世界ヘビー級選手権
・闘魂は被災地へ向かった-2011年3月11日、東日本大震災後のボランティア活動
・両国に響いた「ありがとう」-2023年3月7日、「アントニオ猪木お別れの会」


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追放と決意、そして旗揚げ戦-1972年3月6日、「新日本プロレス」誕生の瞬間

 1971年末、アントニオ猪木は日本プロレスから突如として追放された。当時のプロレス界の頂点に君臨していた団体から放り出された猪木は、当然ながら無所属という状態に置かれ、次の一手を慎重に考える必要があった。しかし猪木は「迷わず行けよ」という自身の哲学を体現するかのごとく、異例のスピードで動き出す。1972年1月13日、会社の法人登記を完了させると、わずか50日余りという超短期間での旗揚げに向けて準備を加速させていった。
そして同年1月26日、東京・京王プラザホテルにて猪木は正式に「新日本プロレス」の設立を発表した。資本金1000万円、渋谷区猿楽町パシフィックマンション内に本拠を置くという、決して大きくはない出発点だった。設立当初の所属選手はアントニオ猪木、山本小鉄、木戸修、藤波辰巳(現・藤波辰爾)、北沢幹之、柴田勝久のわずか6人。レフェリーのユセフ・トルコを加えても、スタッフまで含めた関係者全員が10人にも満たないという、今日の規模からは想像もできない小所帯の出発だった。

 昼間は多摩川の河原でランニングや練習を重ねながら、夜になれば若い選手たちが電柱にポスターを貼って回り、宣伝カーで街を回るという泥臭い活動が続いた。テレビの中継放映も確保できておらず、有力な外国人選手のブッキングルートも持たない中でのスタートであり、マスコミからも「前途に不安ないか」と冷ややかに見られていた。それでも猪木は旗揚げ記者会見の場で「私たちは、力道山先生の精神を受け継ぎ、真のプロレスをやってゆきたいと思います」と力強く宣言し、新しい時代の幕開けを告げた。

 こうした苦難の中で行われた旗揚げ戦は、1972年3月6日、東京・大田区体育館で開催された。入場した観客は5000人の満員。メインイベントではアントニオ猪木が「プロレスの神様」と呼ばれたカール・ゴッチとの時間無制限1本勝負に臨み、試合はゴッチが勝利を収めた。試合後に猪木はリング上で観客に向かって挨拶を述べ、新団体の決意を改めて示した。当日のリングサイドには、猪木夫人(当時)の倍賞美津子と千恵子姉妹、坂本九と柏木由紀子夫妻らも駆けつけ、華を添えている。藤波辰爾は当時を振り返り「誠心誠意、精一杯のファイトをやっていれば、必ず、ファンは付いてきてくれる、と、いつも猪木さんが言ってましたし、僕も、そう思って、がんばりました」と語っている。

 旗揚げ当初はテレビの放映権も持たず、他団体と比べると興行の規模でも大きく後れを取っていた。しかし翌1973年に坂口征二が新日本プロレスへ合流し、さらにNETテレビ(現・テレビ朝日)のレギュラー中継が始まると、状況は一変する。猪木とタイガー・ジェット・シンの激しい抗争がブラウン管を通じて全国に届けられ、ファンの心をつかむことに成功した。この設立発表から旗揚げ戦へと至る流れ、そして苦難の初期時代を猪木が突き進んでいった精神力と行動力こそが、後の「新日本プロレス」という巨大な組織の礎を形成したといえる。

 この決断の凄みは、後年の新日本プロレスの隆盛を知っているからこそ、なおさら大きく感じられる。後から見れば巨大団体の出発点に見えるが、当時はテレビも盤石ではなく、知名度のある所属選手も限られ、さらに古巣からの妨害や逆風まで抱えた、決して平坦ではないスタートだったとされる。その状況でなお、猪木は退くのではなく前に出たのであり、しかも旗揚げ戦ではカール・ゴッチというこれ以上ない相手と向き合うことで、団体の看板に“闘いの質”を最初から刻み込んだ。この、名前だけの新団体ではなく、ストロングスタイルの核を持った新日本プロレスを世に出したという一点だけでも、アントニオ猪木という男がいかに規格外の創業者であったかは明白である。設立の速度、旗揚げの胆力、そして自らが矢面に立つ覚悟、そのすべてが圧倒的であり、猪木は団体を作ったのではなく、新しい時代の呼吸法を日本マット界に持ち込んだと言っていいのである。

「昭和の巌流島」の衝撃-1974年3月19日、蔵前国技館、NWF世界ヘビー級選手権

 旗揚げから2年が経過した1974年、新日本プロレスは大きな転換期を迎える。その中心となったのが、3月19日に東京・蔵前国技館で行われたアントニオ猪木対ストロング小林のNWF世界ヘビー級選手権試合であり、後世に「昭和の巌流島」と称されることになるこの一戦は、日本プロレス史に永遠に刻まれる名勝負として語り継がれている。

 この試合が実現するまでの経緯には、当時のプロレス界が抱えていた複雑な人間関係と団体間の駆け引きが深く絡み合っていた。ストロング小林(本名・小林省三)は国際プロレスのエースとして長年IWA世界ヘビー級王座を25回連続防衛するという金字塔を打ち立てていた選手だったが、国際プロレス内の人間関係における軋轢から、1974年2月1日付けで辞表を提出し、団体を離脱することになった。その後、馬場率いる全日本プロレスと猪木の新日本プロレスの両団体が小林争奪に動いたが、最終的に小林は新日本プロレスへの参戦を選択し、猪木の保持するNWF世界ヘビー級王座への挑戦が正式に決定した。

 当時、力道山対木村政彦という凄惨な一戦が社会から批判を受けた1954年12月以来、大物日本人同士の直接対決はプロレス界において事実上タブー視されてきた歴史があった。ましてや異なる団体のトップ同士が王座を懸けて激突するという構図は、まさに前代未聞のことであった。この禁断の一戦を実現させた新間寿氏の尽力は特筆すべきものがあり、3週間にわたって小林の自宅に通い詰めての交渉を重ねたことは有名なエピソードとして残っている。また、試合前夜は小林が突然会場入りをドタキャンするのではないかという懸念から、新間氏は念のため小林の自宅に泊まり込み、翌朝一緒に蔵前国技館へ向かったという。

 試合当日の蔵前国技館には、1万6500人を超える超満員札止めの観衆が詰めかけた。これは当時の主催者発表によるもので、入場できなかった観客が3000人にも及んだといわれるほどの熱狂ぶりだった。「地方からわざわざ来たんだ。立見でいいから1、2万円払うから入れてくれよ」と入口で押し問答する観客も現れ、当日券を求める客の対応に困ったスタッフが辺りにあったポスターを破いて「1000円」と書いてチケット代わりに発売するという事態にまで発展した。蔵前駅から蔵前国技館までの行列が絶えることなく続いたほか、収容人数を上回る観客が入場したことで蔵前国技館の水道管が破裂し、蔵前警察署から厳重注意を受けるというハプニングも起きた。

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