[ファイトクラブ]プロレス界を動かした仕掛け人、新間寿~マット界をダメにした奴ら

[週刊ファイト8月11日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼プロレス界を動かした仕掛け人、新間寿~マット界をダメにした奴ら
 by 安威川敏樹
・最悪の出会いだった新間寿とアントニオ猪木
・新間寿が仕掛けた企画が大ヒット
・初代タイガーマスクとIWGP構想で新日本プロレスが大ブーム
・クーデター勃発により泣く泣く新日本プロレスを退社
・プロレス人生を賭けたUWF設立も旗揚げシリーズで頓挫
・今後、現れることはない『第二の新間寿』


『マット界をダメにした奴ら』というのは逆説的な意味で、実際には『マット界に貢献した奴ら』ばかりである。つまり、マット界にとって『どーでもいい奴ら』は、このコラムには登場しない。
 そんなマット界の功労者に、敢えて負の面から見ていこうというのが、この企画の趣旨である。マット界にとってかけがえのない人達のマイナス面を見ることで、反省も生まれるだろうし、思わぬプラス面も見つかって、今後のマット界の繁栄に繋がるだろう。記事の内容に対し、読者の皆様からは異論も出ると思われるが、そこはご容赦いただきたい。(文中敬称略)

 今回は“プロレス過激な仕掛け人”新間寿。レスラー以外の人物として初めてのエントリーだ。プロレス黄金時代と言われた1980年代、プロレス界は間違いなくこの男を中心に回っていた。

▼新間寿氏 WWE 殿堂入り! 過激な仕掛け人の微細な気配り

[ファイトクラブ]新間寿氏 WWE 殿堂入り! 過激な仕掛け人の微細な気配り

最悪の出会いだった新間寿とアントニオ猪木

 新間寿は非レスラー系のプロレス人としては、日本で最も有名ではないだろうか。他で言えば、第二次UWF社長だった神新二と、新日本プロレスをV字回復させた木谷高明といったところ。
 日本のプロレス界には「受け身の取れない奴は信用しない」という風潮があるせいか、いわゆる『背広組』が脚光を浴びることは珍しい。その珍しい例を最初に作ったのが新間だったのだ。

 この3人の中で、新間だけが仲間外れ。神と木谷はいずれもプロレス団体の社長やオーナーになったが、新間は社長になっていない。にもかかわらず、新間が黄金時代のプロレス界を動かしていたのである。
 新間が最も光り輝いていた1980年代の新日本プロレス、この頃の新間の肩書は専務取締役営業本部長。プロ野球に例えれば、アントニオ猪木がオーナー兼社長兼エース兼四番打者で、新間はゼネラル・マネージャー(GM)だろう。

 猪木と新間は一蓮托生、夫婦みたいなもの。しかも、しょっちゅう夫婦喧嘩をしながら別居を繰り返し、いつの間にか元の鞘に収まる不思議な夫婦だった。
 たとえてみれば、配偶者からのDVを何度も受けながら「この人は私がいなければ何もできない」と思ってしまい、結局は別れられない夫婦である。DVを受けていたのは、もちろん新間だ。

 新間とプロレス界との関わりは古い。まだ力道山が存命だった頃、プロレス好きだった新間はよく日本プロレスのリキ・スポーツパレスにトレーニングのため通っていた。もちろん、プロレス観戦もしていたが、そこで豊登道春と知り合う。
 力道山の死後の1966年、日プロの二代目社長となった豊登は無類のバクチ好きが災いして会社の金を使い込み、社長の座を追われる。そして豊登は東京プロレスを設立しようとするが、当時は化粧品会社の営業を担当していた新間に協力を頼んだ。新間は快諾し、東プロのフロントに入ることになる。
 豊登は目玉となる選手として、日プロで若手のホープだった猪木を東プロに参加させた。弱冠23歳だった猪木と、31歳の新間との関係の始まりである。

 しかし、テレビ中継のない東プロの資金不足は如何ともし難い。新間は、住職だった父親から借金したりして東プロの資金に充てていたが、豊登がギャンブルで使い込んでしまう。
 新間がいくら金策に走ろうが、東プロの金庫は空っぽ。それどころか、新間父子は猪木から不正経理まで疑われて、告訴合戦に発展する。
 結局、東プロは倒産して猪木は日プロに戻るが、この件で新間は父親から勘当されてしまった。つまり、猪木と新間は結婚前に破局したようなものだが、これはほんの序章に過ぎず、何度も別居と復縁を繰り返す長い長い夫婦生活が数年後から始まる。

新間寿が仕掛けた企画が大ヒット

 プロレス界からも、父親からも見放された新間寿は、日光の銅山で肉体労働をする羽目になった。華やかなリングの世界から、冬には氷点下10℃以下にもなるという極寒の地で働く毎日。この生活が4年間も続いた。
 父親からの勘当が解けた新間は東京へ戻り、パン屋を始める。これも、決して儲かる商売ではない。そんな時、アントニオ猪木から声が掛かった。

 1971年の暮れ、会社の乗っ取りを企てたとされた猪木は日本プロレスを永久追放、翌1972年に新日本プロレスを旗揚げする。その時、新間は猪木に新団体を手伝ってくれ、と頼まれたのだ。
 猪木からの申し出に、新間は一も二もなくOKする。東京プロレス時代の、告訴合戦の恨みはどこへ行ったのかと思えるが、新間はプロレスの世界に戻りたかったのだ。

 東プロの時と同じく、テレビ放映のない新日は苦難の道を歩む。同年、日プロを退団したジャイアント馬場が設立した全日本プロレスに、いきなり定期テレビ放送が付いていたのとは対照的だった。
 テレビもなく細々と続けていた新日は、旗揚げから1年後に坂口征二が加入、テレビ中継も始まって何とか存続の目途が付く。これにより日プロは崩壊したが、NWAの外国人ルートは全日に握られ、新日は無名の外国人レスラーで勝負するしかなかった。

 新日が逆転ホームランを放つのは、1974年のストロング小林の参戦だろう。国際プロレスのエースだった小林を、新間が引き抜いたのだ。
 そして、日プロ時代はタブーとなっていた日本人対決を、アントニオ猪木vs.ストロング小林で実現してみせる。その前に国プロで、小林はラッシャー木村と闘い、既に日本人対決は行われていたのだが、新日では他団体のエース同士がぶつかるということでインパクトが段違いだった。

▼左から、アントニオ猪木、新間寿、ストロング小林

 さらに新間は、ボクシング世界ヘビー級王者のモハメド・アリを招聘し、アントニオ猪木との異種格闘技戦を実現させたのだ。当時は、アリと猪木が闘うなど寝言だと思われていたのだが、猪木と新間の情熱が夢の対決を夢ではなくしてしまったのである。そして、いつしか新間は“プロレス過激な仕掛け人”と呼ばれるようになった。

 しかし、アリ戦の代償はあまりにも大きく、9億円もの借金を背負ってしまう。さらに、寝たまま闘った猪木は、ファンやマスコミから『世紀の大凡戦』と叩かれ、新日の興行も閑古鳥が鳴くことになる。
 この借金が原因で、新間は取締役から平社員に降格されてしまった。

▼モハメド・アリ(左)と新間寿(右)

初代タイガーマスクとIWGP構想で新日本プロレスが大ブーム

 モハメド・アリの招聘で莫大な負債を抱えた新日本プロレスも、その後は異種格闘技を連発して借金を返していく。と同時に『過激な新日本プロレス』がファンの間で大人気を博し、ライバルの全日本プロレスや国際プロレスに対して大きくリードするようになった。
 新間寿も専務営業本部長に返り咲き、ますます“過激な仕掛け人”ぶりを発揮する。

 1981年4月23日、東京・蔵前国技館にとんでもないプロレスラーが現れた。タイガーマスク(初代)である。人気アニメのレスラーそのまま、いやそれ以上の動きをするタイガーマスクの出現にファンは騒然となった。そしてそれは、プロレス界のみならず一般社会にも大ブームを巻き起こしたのだ。
 ちょうどその頃、新日本プロレスを定期放送しているテレビ朝日で、アニメ『タイガーマスク二世』の放送が始まっていた。そこで、原作者の梶原一騎が新間に「現実にタイガーマスクを新日マットでデビューさせたら、アニメと現実の相乗効果で大人気になるだろう。そんなレスラーを作れないか?」と相談する。アントニオ猪木も賛成し、タイガーマスクを体現できるのは佐山聡しかいないと遠征先のイギリスからムリヤリ帰国させた。

 梶原や新日の思惑通り、タイガーマスク効果でテレビ視聴率はウナギ登り、会場は全国どこへ行っても満員となったのである。ただ、梶原にとって計算違いだったのは、現実のタイガーマスクがアニメを超えてしまい、アニメの方の人気はさほど上がらなかったことだったが。
 1983年には、梶原一騎による『アントニオ猪木監禁事件』(新間によると『新間寿監禁事件』)が起き、梶原と新日本プロレスとの蜜月関係は長くは続かなかった。

記事の全文を表示するにはファイトクラブ会員登録が必要です。
会費は月払999円、年払だと2ヶ月分お得な10,000円です。
すでに会員の方はログインして続きをご覧ください。

ログイン