[ファイトクラブ]お人好し過ぎた金網の鬼、ラッシャー木村~マット界をダメにした奴ら

[週刊ファイト5月26日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼お人好し過ぎた金網の鬼、ラッシャー木村~マット界をダメにした奴ら
 by 安威川敏樹
・弱小団体の国際プロレスで、金網デスマッチにより才能が開花
・アントニオ猪木に挑戦するも相手にされず、国際プロレスは崩壊
・国際プロレスのエースとしての立場を踏みにじられた1対3マッチ
・マイク・パフォーマンスでラッシャー木村の人気が爆発
・今までにないヒールを演じたラッシャー木村


『マット界をダメにした奴ら』というのは逆説的な意味で、実際には『マット界に貢献した奴ら』ばかりである。つまり、マット界にとって『どーでもいい奴ら』は、このコラムには登場しない。
 そんなマット界の功労者に、敢えて負の面から見ていこうというのが、この企画の趣旨である。マット界にとってかけがえのない人達のマイナス面を見ることで、反省も生まれるだろうし、思わぬプラス面も見つかって、今後のマット界の繁栄に繋がるだろう。記事の内容に対し、読者の皆様からは異論も出ると思われるが、そこはご容赦いただきたい。(文中敬称略)

 今回取り上げるラッシャー木村ほど、様々な貌を持つプロレスラーも珍しいだろう。エース時代よりも、前座レスラーに逆戻りしてからの方が、人気が急上昇したという稀有な存在だ。

▼追悼“怒涛の怪力”ストロング小林~マット界をダメにした奴ら

[ファイトクラブ]追悼“怒涛の怪力”ストロング小林~マット界をダメにした奴ら

弱小団体の国際プロレスで、金網デスマッチにより才能が開花

 本名、木村政雄。奇しくも、力道山と『昭和の巌流島』を闘った木村政彦と一字違いである。
 さらに、木村政雄は後にラッシャー木村と名乗り国際プロレスのエースとなるが、木村政彦は国際プロレス団のエースだった。もっとも、国際プロレスと国際プロレス団は全くの無関係だが。
 しかし、ラッシャー木村が力道山を彷彿させる黒のロングタイツを穿いていたのは、力道山に敗れた木村政彦にとっては皮肉だった。

 子供の頃からプロレスラーになるのが夢だったラッシャー木村は、レスラーになるための体作りとして大相撲の宮城野部屋に入門する。元力士のプロレスラーというのも力道山と同じだ。
 木村の四股名は木ノ村。何の工夫もない四股名のように思えるが、佐ノ藤(『さのとう』。後に『さのふじ』)という四股名の力士もいて、本名はもちろん佐藤だった。

 木村は幕下まで昇進したが、念願のプロレスラーになるべく大相撲は廃業、1964年10月に日本プロレスの門を叩く。23歳の時だった。
 しかし、力道山は既にこの世の人ではなく、日プロ二代目社長の豊登道春がギャンブル癖のため社長の座を追われ、アントニオ猪木と共に東京プロレスを設立する。豊登の付き人だった木村も、東プロに参加した。1966年10月、東プロが旗揚げ。木村がプロレスラーとなってちょうど2年後だ。

 東プロは、豊登が会長で猪木が弱冠23歳にしてエース社長。猪木よりも1歳年上の木村は前座に過ぎなかった。
 テレビ中継のない東プロは日プロに全く歯が立たず、同じく日プロから分裂した国際プロレスと合同興行を行うも旗揚げから僅か3ヵ月であっけなく崩壊。猪木は日プロにUターンしたが、木村は国プロ所属となった。

 国プロでの木村もパッとしない。国プロ自体は日プロのように絶対的エースが育たず、ヒロ・マツダ→グレート草津→ストロング小林→マイティ井上と猫の目のようにエースが変わった。ラッシャー木村は、後輩であり後の全日本プロレスではジュニア・ヘビー級となるマイティ井上にすら先を越されている。また、ビル・ロビンソンが外国人ながらエース扱いされることもあった。
 絶対的エースとして期待されていたストロング小林も新日本プロレスに引き抜かれ、TBSの定期放送が打ち切り、国プロは窮地に追い込まれる(その後、東京12チャンネル=現:テレビ東京が国プロの定期放送を開始)。

 そんな国プロのピンチを救ったのがラッシャー木村だった。以前の国プロではアメリカ三大団体の一つ、AWAと業務提携していたが、高額のギャラを支払えず提携を断念。代わって、ギャラが安くて流血が得意の外国人レスラーが来襲する。それが木村の水に合った。
 木村は流血が得意な外国人レスラーと日本で初めて金網デスマッチを行い、メイン・エベンターとなる。ストロング小林の離脱後は一時的にマイティ井上がエースを張ったものの、その後は木村が完全にエースとなった。
 また、TBSは金網デスマッチに難色を示したため数試合で放送が封印されたが、東京12チャンネルでは復活。TBSと違い、全国ネット網が貧弱だった12チャンネルが、金網デスマッチを歓迎してくれた。TBSの放送打ち切りというピンチが、木村にとってはチャンスとなったわけだ。

 金網デスマッチで連戦連勝を重ねたラッシャー木村は『金網の鬼』と呼ばれるようになり、当時は日本に男子プロレスが3団体しかなかったため、全日本プロレスのジャイアント馬場、新日本プロレスのアントニオ猪木と並び、日本で3人しかいない団体エースとなる。
 しかし、木村の人気および知名度は、馬場や猪木よりも遥かに劣っていた。そして、ラッシャー木村は国際プロレスにとって最後のエースとなったのである。

アントニオ猪木に挑戦するも相手にされず、国際プロレスは崩壊

 国際プロレスの後期となる1975年、即ちラッシャー木村がエースだった頃に、木村は新日本プロレスのアントニオ猪木に挑戦状を出す。あなた(猪木)は実力日本一を自称しているが、私(木村)も実力日本一と自負している。だから、日本一を賭けて闘おうではないか、という趣旨だ。
 しかし、猪木の反応はケンもホロロだった。何しろ1歳年上とはいえ、東京プロレス時代は前座に過ぎなかった男からの挑戦である。
「木村よ、己を知れ。俺は実力日本一を自称したことなどない。それはファンが決めることだ。お前が実力日本一を自負するなど、自惚れが過ぎる。ただし、胸を貸してやるという意味なら闘ってもいい。お前が挑戦してきたのだから、興行権やテレビ放映などは全て俺に任せろ」

 つまり、木村ごときが俺に挑戦など10年早い、と猪木は言ったわけだ。気乗りのしない闘いをしてやるのだから、興行権などのメリットは俺によこせ、と。
 国際プロレスを見下した態度に、木村はもちろん国プロの吉原功代表も激怒。両団体のエース同士が対決するのだから、対等の条件で闘うのが筋だというのが国プロの言い分だ。だいたい、日本選手権を標榜し、誰の挑戦でも受けると言っていたのは猪木じゃないか。

 しかし猪木は、こう反論した。
「なんで国プロと対等の条件で興行をやらなきゃいけないんだ。ウチ(新日本プロレス)は蔵前国技館を満員にする力があるのに、国プロは後楽園ホールが精一杯。視聴率だって20%を超えてるんだ。木村なんてウチの(中堅レスラーに過ぎない)山本小鉄や星野勘太郎より下。そんな奴に勝っても何のメリットもない。ケガ負けでもしたら、大きなイメージダウンになる。そんなリスクを負ってるんだから、せめて興行権ぐらいこっちによこせと言ってるんだ。そっちが挑戦してきたんだから、興行権を1回ぐらい相手にやったとしても、勝てばいいだけの話じゃないか。そうすれば、興行権以上の儲けがある。その度胸もないくせに、売名行為の挑戦なんてやめろ!」

 猪木の意見は正論のように思えるが「挑戦してきたんだから、勝てばいいだけの話」というのは、プロレス界ではそうはいかないのは当たり前。興行権の全てを新日が握れば、木村が猪木の軍門に下るのは火を見るよりも明らかだ。ただ、そんなケーフェイの部分を明かせるわけがない。
 もっとも、国プロだって新日に対抗戦を呼び掛けなければならないほど、切羽詰まっていたのは事実だ。もはや国プロ単体の興行では、首が回らなくなっていたのである。
 ただ、猪木は木村が弱いように言っていたが、大相撲の幕下まで行った木村が弱いわけがない。横綱や大関の相撲を見慣れていると幕下なんて弱いように思えるが、実際には給金すら出ない幕下だって充分に化物クラスの強さだという。だったら、横綱はゼットンかフリーザ級か。

 しかし、木村が猪木に挑戦状を叩きつけた頃の国際プロレスは全日本プロレスと交流していたが、金銭トラブルもあり1979年頃から新日本プロレスとの提携にシフトする。
 だが、ここでも『新日の中堅』に過ぎない山本小鉄&星野勘太郎のヤマハ・ブラザースに、国プロではメイン級だったグレート草津&アニマル浜口が敗れるなど、格下感は拭えなかった。

 結局、東京12チャンネルの定期放送も打ち切られ、1981年8月9日の北海道・羅臼大会を最後に国際プロレスは刀折れ矢尽きて崩壊。エースのラッシャー木村をはじめ、国際プロレスのレスラーたちは路頭に迷うことになった。

国際プロレスのエースとしての立場を踏みにじられた1対3マッチ

 国際プロレス崩壊後、ラッシャー木村はアニマル浜口、寺西勇と共に新日本プロレスのリングに上がることになる。その他の国プロのメンバーは、ほとんどが全日本プロレスに移籍した。

 1981年9月23日、東京・田園コロシアムのセミ・ファイナルで伝説となったスタン・ハンセンvs.アンドレ・ザ・ジャイアントの一戦が終わり、その興奮も冷めやらぬ中、メイン・エベントの前にラッシャー木村とアニマル浜口がリングに登場。目の前に立っているのは、東京プロレス時代の社長で、6年前は挑戦状を出しながら相手にもされなかったアントニオ猪木である。
 そして、今度は猪木との一騎打ちが決まっていた。ここで木村がやるべきことはただ一つ、猪木に啖呵を切ることだ。

 しかし、マイクを握った木村が放った言葉は「こんばんは」。ファンからは場違いな笑いが漏れ、猪木は仏頂面を隠せない。そこは俺に対して吠えろよ、猪木はそう思っただろう。
 人が好すぎる木村は、他所のリングに上がるのだから礼儀正しく挨拶するのは当然だ、と考えていた。何しろ国プロではエースだったのだから、日本でのヒール経験がないのだ。

 10月8日の東京・蔵前国技館で、遂に猪木とのシングル・マッチ。木村は反則勝ちを拾ったが、この反則の原因となった猪木の腕ひしぎ逆十字固めが今後の技のポイントとなる。
 11月5日の蔵前国技館で二度目の一騎打ちを行うが、今度は腕ひしぎを何度も極められ、セコンドからのタオル投入で木村のTKO負けとなった。今のMMAを見慣れたファンなら、腕ひしぎを完璧に極められると、我慢強さなど関係なくタップするしかないことは判る。つまり、猪木の腕ひしぎは極まっていなかったのだが、当時のファンにはそんな知識はない。猪木の腕ひしぎに耐え抜く木村を、ファンは見直しただろう。
 木村は「俺は腕が折れてもギブアップしない」と、タオルを投入した国際軍団のセコンドに、痛めていない方の腕で涙ながらの逆水平チョップを見舞う。
 そんな木村の姿に感銘を受けた(ように見せた)猪木は右手を差し伸べ、両者は握手した。だが、木村が猪木のライバルとして扱われたのはここまでだ。

 その後は髪切りマッチで、木村が敗れながら逃走するという、ヒールらしさも板に付いてきた。全日本女子プロレスで、アイドル・レスラーの長与千種が坊主頭になったのとは対照的だ。
 さらに、国際軍団はことあるごとに乱入を繰り返す。新日信者、猪木信者からの憎悪が深まり、遂には猪木が「お前ら、3人(木村、浜口、寺西)束になってかかってこい!」と吠えた。こうして、ラッシャー木村は新たなヒール像を確立することになるが、それは後に述べることにしよう。

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