[ファイトクラブ]プロレス界を混迷に導いた大仁田厚~マット界をダメにした奴ら

[週刊ファイト3月24日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼プロレス界を混迷に導いた大仁田厚~マット界をダメにした奴ら
 by 安威川敏樹
・全日本プロレス時代は、初代タイガーマスクのライバル
・『チケットは持ってますか?』 門前払いされたUWFに勝利
・大仁田厚が遂に禁断の新日本プロレスに登場
・力道山、ジャイアント馬場、アントニオ猪木に次ぐ知名度の大仁田厚
・プロレス界の無秩序状態は、大仁田厚そのもの


『マット界をダメにした奴ら』というのは逆説的な意味で、実際には『マット界に貢献した奴ら』ばかりである。つまり、マット界にとって『どーでもいい奴ら』は、このコラムには登場しない。
 そんなマット界の功労者に、敢えて負の面から見ていこうというのが、この企画の趣旨である。マット界にとってかけがえのない人達のマイナス面を見ることで、反省も生まれるだろうし、思わぬプラス面も見つかって、今後のマット界の繁栄に繋がるだろう。記事の内容に対し、読者の皆様からは異論も出ると思われるが、そこはご容赦いただきたい。(文中敬称略)

 今回は“真打ち”大仁田厚。これまで登場した人物と違い、大仁田厚と聞くと「ウン、間違いなく『マット界をダメにした奴』だ」という意見が多いに違いない。
 だが、逆に言えば、それだけ大仁田厚のプロレス界における影響力が大きいとも言える。

▼大仁田厚シバター相似論~恐怖!シバター中毒~猪木と石原慎太郎

[ファイトクラブ]大仁田厚シバター相似論~恐怖!シバター中毒~猪木と石原慎太郎

全日本プロレス時代は、初代タイガーマスクのライバル

 大仁田厚がプロレスラーになったのは1973年。ジャイアント馬場が創設した翌年の全日本プロレスに入門した。全日本プロレスにとって新弟子第1号が大仁田厚である。長崎県出身の大仁田は、翌年に入門した渕正信(福岡県出身)や薗田一治(宮崎県出身)と共に『九州の若手三羽ガラス』と呼ばれた。
 新弟子第1号として、当然のようにジャイアント馬場の付き人を務める大仁田。だが、大仁田はさほど期待されてなかった。

 何しろ馬場は、エリート主義で大型主義。レスリングでオリンピックに出場した身長196cmのジャンボ鶴田は入団と共に№2の地位に就き、大仁田が入門した3年後に全日入りした大相撲出身の天龍源一郎(最高位は前頭筆頭、身長189cm)にもアッサリ抜かれた。
 大仁田の身長は181cm、プロレス入り前には格闘技経験もない。唯一、新聞に載った出来事と言えば徒歩で日本一周に挑戦したことぐらいだ(だが、日本一周は事情により断念)。

 しかし、そんな大仁田にもチャンスが訪れた。チャンスをくれたのは、皮肉にもライバル団体の新日本プロレスである。
 と言っても、新日が大仁田に救いの手を差し伸べたわけではない。1981年、初代タイガーマスク(佐山聡)がデビューして大人気を博し、新日のジュニア戦線は大いに盛り上がった。
 それまではジュニア・ヘビー級に興味を示さなかった馬場も、新日でのジュニア人気を見て、タイガーマスクに対抗するジュニア戦士を全日でも売り出そうと考えた。そこで、若手の中で最もキャリアの長い大仁田に白羽の矢が立ったのである。

 タイガーマスクがデビューして約1年後の1982年3月7日、大仁田はアメリカ合衆国ノース・カロライナ州シャーロットでチャボ・ゲレロを破り、NWAインターナショナルJr.ヘビー級チャンピオンに輝いた。いわゆる『シャーロットの奇跡』である。
 チャボ・ゲレロと言えば、タイガーマスクが台頭する前の新日でジュニア戦士として人気者だった藤波辰巳(現:辰爾)のライバルであり、同王座は藤波がベルトを巻いていたタイトルだ。それだけに、大仁田の戴冠は意義の大きいものだったと言える。
 また、当時としては新日と全日の間で1本のベルトが行き来した例は珍しい。そして、同王座は全日本プロレスに現存する世界Jr.ヘビー級タイトルの前身でもある。

 ただ、大仁田がジュニア王者となっても、タイガーマスクとの差は歴然だった。プロレス・ファン以外にも人気抜群だったタイガーマスクに比べ、大仁田はファンが知っている程度。
 当時、中学生だった筆者は国語の試験で「『伊豆の踊子』の作者は?」という問題が出され、答えが判らなかったので『大仁田厚』と書いたことがある。国語は女の先生だったので、大仁田厚なんて知らないだろうと思ったわけだ。現在だったら、たとえ女性でもチョンバレだろうが。

 この頃、後に二代目タイガーマスクとなる、まだ全日の前座だった三沢光晴は、記者から「(初代)タイガーマスクと大仁田厚が闘ったら、どっちが勝つと思う?」と訊かれ「タイガーマスク」と答えた。正直者(?)の三沢は、先輩に対しても忖度なしだ。
 もちろん、激怒した大仁田はその後、三沢とは口を利かなくなったという。後輩から見ても、大仁田厚よりタイガーマスクの方が上ということである。
 ついでに言えば、この時代に大仁田がフィニッシュ・ホールドとしていたブロックバスター・ホールド、あれは相手レスラーが左右どちらかの肩を上げれば3カウントは簡単に防げるだろ、と筆者は思っていたものだ。

 順調にジュニア戦士としてスター街道を歩むかと思われた大仁田だったが、チャンピオンになって1年後の1983年4月20日、突如としてリングから離れることになる。
 東京体育館でチャボ・ゲレロの弟であるヘクター・ゲレロに勝利した大仁田は、リングから降りる際に足を滑らせて、膝を骨折してしまったのだ。プロレスラーとしては致命的である。その数ヵ月後、初代タイガーマスクも会社との確執から引退した。

 その後、大仁田厚は一時的に復帰するも、1年半後の1984年12月2日に“最初の”引退をした。同年、初代タイガーマスクはザ・タイガーとして第一次UWFでプロレスに復帰している。

▼大仁田厚は初代タイガーマスク(佐山聡)とは何かと比較された

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『チケットは持ってますか?』 門前払いされたUWFに勝利

 引退後の大仁田厚は、タレント業をやったり、事業を興したりするが上手くいかず、道路工事などのアルバイトを転々として食い繋いだ。
 プロレスを忘れられない大仁田はジャパン女子プロレスのコーチとなり、1988年12月にはグラン浜田との一戦でプロレスラーに復帰。大仁田は、ジャパン女子の顧問だった元:新日本プロレス営業本部長の新間寿に「前田日明に挑戦状を渡してこい」と命じられた。新間は『世界格闘技連合』という団体を立ち上げようとしていたのだ。

 同年5月に前田日明が中心となって旗揚げした第二次UWFはプロレス・ファン以外にも大人気を博しており、社会現象となっていた。特に前田は、格闘王の称号を得て人気絶頂だったのだ。
 そんなUWFの会場に大仁田は単身で乗り込み、「友人の前田日明くんを激励しに来た」とスタッフに説明するも、ケンもホロロの扱い。さらには、UWFの神新二社長から「チケットは持ってますか?」と屈辱的な言葉を浴びせられた。大仁田厚ごときはファンと一緒、天下の前田日明と会おうなんておこがましい、というわけだ。

 大仁田と前田が友人同士だったかどうかはともかく、ファイト・スタイルが水と油のように正反対だったこの2人は、前座時代にリング上で対戦したことがある。

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