[週刊ファイト8月25日号]収録 [ファイトクラブ]公開中
▼日本を捨てた超人、ハルク・ホーガン~マット界をダメにした奴ら
by 安威川敏樹
・『日本帰りは出世する』を体現したスーパースター
・日米で順調に出世街道を歩むハルク・ホーガン
・ハルク・ホーガンが『世界一強い男』の称号を得る
・常に自分を高く売ることのみ考えていたハルク・ホーガン
・日本を踏み台にして、アメリカでスーパースターになった男
『マット界をダメにした奴ら』というのは逆説的な意味で、実際には『マット界に貢献した奴ら』ばかりである。つまり、マット界にとって『どーでもいい奴ら』は、このコラムには登場しない。
そんなマット界の功労者に、敢えて負の面から見ていこうというのが、この企画の趣旨である。マット界にとってかけがえのない人達のマイナス面を見ることで、反省も生まれるだろうし、思わぬプラス面も見つかって、今後のマット界の繁栄に繋がるだろう。記事の内容に対し、読者の皆様からは異論も出ると思われるが、そこはご容赦いただきたい。(文中敬称略)
日米を股にかけて大活躍した“超人”ハルク・ホーガン。ホーガンはプロレス界のみならず、銀幕の世界でも暴れまわった。そして『初代世界一』の称号を得たレスラーだったのである。
▼1983年のアントニオ猪木~We Remember人間不信
『日本帰りは出世する』を体現したスーパースター
プロレス史において、世界一のスーパースターと言えば誰か? という問いに、必ず名前が挙がるのがハルク・ホーガンである。全米の大スターのみならず、日本でも有名だった。こんなプロレスラーは、稀有な例ではないだろうか。
アメリカでは、プロレス・ファンだけではなく一般人でもハルク・ホーガンの名前は知っていた。スター性という点では『20世紀最強の鉄人』ルー・テーズでもホーガンには遥かに及ばない。
そんなホーガンでも、有名になったのは母国のアメリカではなく、日本の方が先だった。つまり、日本育ちの全米スターだったのである。
こんな選手、他のスポーツでもなかなか見当たらない。プロ野球で言えば、メジャー・リーグに定着できなかったランディ・バースが日本で大活躍、その後アメリカに戻ってメジャーでもスーパースターになるようなものだが、バースは帰国と同時に野球は引退した。
アメリカのプロレス界では『日本帰りは出世する』と言われていたが、ホーガンほどのレスラーはいないだろう。
野球の話が出たが、子供の頃のホーガンはメジャー・リーガーになるのが夢だった。体格を活かしたパワー抜群のホームラン打者だったものの、当時のホーガンは肥満体で、足が極端に遅い。しかも高校の時に腕を故障したため野球は断念した。
元々は音楽も好きだったため、ロック・ミュージシャンへの道を歩み始める。さらに、シェイプアップのためボディービルを始めた。痩せたかった理由はただ一つ、女の子にモテたいためである。ホーガンにとって、恋人ができないことが最大の悩みだった。
結局、このボディービル通いがホーガンの運命を決定づけることになる。プロレスも好きだったこの頃のホーガンにとって憧れの対象は『アメリカン・ドリーム』ダスティ・ローデス。プロレスラーになる夢を持ち始めたホーガンに、ヒロ・マツダ道場に通わないか? という誘いがあった。ビルドアップされたホーガンの肉体は、まさしくプロレスラー向きだったのだ。
当時、大学でバンド活動していたホーガンはベース・ギターに別れを告げて、ヒロ・マツダ道場に通いプロレスラーを目指すようになる。
1977年、ホーガンは覆面レスラーのスーパー・デストロイヤー(正体がドン・ジャーディンのスーパー・デストロイヤーとはもちろん全くの別物)としてデビューした。しかし、全く売れなかったためマスクを脱いで素顔でファイトするようになる。
その後はテリー・ボールダー、スターリング・ゴールデンなどと改名するがブレイクには至らず、一時期はプロレスを諦めて肉体労働に従事していた。
そんな時、ホーガンはテリー・ファンクからビンス・マクマホンSr.を紹介され、WWF(現:WWE)入りすることになる。そして、テレビ・ドラマの『超人ハルク』にあやかりハルク・ホーガンと名乗るようになった。1979年のことである。
ホーガンのWWF入りは、日本行きの導火線となった。当時のWWFは、新日本プロレスと業務提携していたからだ。
▼アントニオ猪木とビンス・マクマホンSr.
日米で順調に出世街道を歩むハルク・ホーガン
1980年5月、新日本プロレスに初来日したハルク・ホーガンは、ストロング小林や『若手のパリパリ(by『プロレススーパースター列伝』)』長州力らを血祭りにあげて衝撃的デビューを果たす。アントニオ猪木とのシングル対決も初来日で実現させたぐらいだから、大型新人ホーガンの売り出しに新日も力を入れていた。
同年の暮れにはスタン・ハンセンとタッグを組み、第1回MSGタッグ・リーグ戦に出場して準優勝。ホーガン人気は急上昇した。
ちなみに、リーグ戦ではアンドレ・ザ・ジャイアント&ザ・ハングマンと対戦したが、ハングマンもかつては覆面を被ってスーパー・デストロイヤーと名乗っていたことがある。つまり、ホーガンとの対決はスーパー・デストロイヤー対決でもあったわけだ。
本場のアメリカでも、ニューヨークではアンドレのライバルのヒールとして人気者となった。このとき、ホーガンはアンドレをボディースラムで投げ飛ばし、一躍ヒーローとなっている。
1981年の暮れ、ハンセンが全日本プロレスに引き抜かれたため、ホーガンはトップ外国人に躍り出た。この際、ホーガンはハンセンのウエスタン・ラリアットのパクリ技であるアックス・ボンバーをフィニッシュ・ホールドとして使用し始めるが、もちろんハンセンの許可は取っている。
1982年暮れの第3回MSGタッグ・リーグ戦では、敵対していたアントニオ猪木とタッグを組み、圧倒的な強さで優勝を果たした。当時、ヒールの外国人がアントニオ猪木やジャイアント馬場とタッグを組むなんて、異例中の異例だったのだ。
そしてホーガンは、猪木とタッグを組むことによって、猪木からプロレスのエキスをタップリ吸収することになる。
この年、ホーガンはシルベスター・スタローン主演の人気映画『ロッキー3』に、プロレスラーのサンダー・リップス役で銀幕デビュー。全米でも一般人に対する知名度を上げた。
さらに、WWFからAWAに移籍したホーガンはベビー・フェイスに転向し、ブレイクする。ホーガンはスーパースターになりつつあった。
▼映画『ロッキー3』でハルク・ホーガンにネック・ハンギングされるシルベスター・スタローン
ハルク・ホーガンが『世界一強い男』の称号を得る
1983年6月2日、東京・蔵前国技館では世界一強い男を決める闘いが行われていた。第1回IWGP決勝戦、アントニオ猪木vs.ハルク・ホーガンである。
世界中に乱立するチャンピオン・ベルトを統一すべく始められたIWGPは、猪木が世界一の称号を手に入れることが期待されていた。猪木にとって最大の難敵と思われていたアンドレ・ザ・ジャイアントはリーグ戦で躓き、決勝の相手は格下のホーガンとなったのである。
誰もが猪木が世界一になると確信していた中、勝ち名乗りをあげたのはハルク・ホーガン。アックス・ボンバーにより、猪木がまさかのKO負け&病院送りとなってしまったのだ。
思わぬKO劇に、『世界一強い男』になったホーガンの方が戸惑ってしまい、「ニュー・ジャパンはギャラを支払ってくれるのだろうか」と心配したほどだった。
この猪木による大スカシは、普段はプロレスなど無視している一般紙でも取り上げ、全国紙では読売新聞、日本経済新聞、サンケイ新聞に掲載された。
よく言われるのは『朝日新聞の社会面に載った』ということだが、実際には『ワールドプロレスリング』で新日本プロレス中継しているテレビ朝日と同系列の朝日新聞、そして五大紙の一つである毎日新聞では記事になっていない。
しかも、他の全国紙でもスポーツ面ではなく社会面で、IWGPだの世界統一だのは全くの無視。プロレスのチャンピオンなんて、一般紙にとってはどうでもいいことだったのだ。
猪木のホーガンに対する評価は『小心者のデクの坊』と決して高くはなく、全日本プロレスへ行ったスタン・ハンセンの方を買っていた。それでも、ホーガンには『モハメド・アリと闘った猪木にKO勝ちした男』という事実だけが残り、商品価値が上がったのである。
そして、アメリカではAWAからWWFへUターン。WWFのボスは、かつてホーガンと仲違いしたビンス・マクマホンSr.から、息子のビンス・マクマホンJr.に引き継がれていた。
マクマホンJr.は、WWF全米侵攻の切り札としてホーガンに白羽の矢を立てたのだ。ホーガンはWWF世界ヘビー級王者となって大人気を博す。
一方、ホーガンを引き抜かれたAWAは落ち目となり、WWF全米侵攻によるテリトリー制崩壊のため凋落の一途を辿ったNWAと手を組んでWWFに対抗しようとしたが、もはやWWFとホーガンの勢いは止められない。
その頃、新日本プロレスではアントン・ハイセルによる多額の負債によってクーデターが勃発し、黄金時代を謳歌していた表の貌とは裏腹に、資金難に喘いでいた。そして、ギャラの高い外国人を呼ぶよりも、元手がかからずファン受けする日本人対決へシフトしていたのである。
猪木KO事件の翌年、ホーガンはIWGP初代チャンピオンとして来日、第2回リーグ戦で優勝した猪木の挑戦を受けた。