HG住谷正樹、チン先真性RG出渕誠、タナー棚橋弘至、吉野正人、男色ディーノらを生んだ学生プロレス誕生秘話
【抜粋】
1978年1月23日、大雪のMSGからの新日本『ワールドプロレスリング』中継では、藤波辰巳がカルロス・ホセ・エストラーダにドラゴン・スープレックス炸裂させ、WWWFジュニア級王者に認定されている。
この中継は、初めてジュニア戦士が主役になった放送として記憶されているが、ファンの覚醒という重要な意味を持っていた。それまでの「観るだけ」から「語る」、さらには「演る」という一歩も二歩も踏み込んだ意識がこの試合によって芽生えたといえよう。
MSGで婚約発表をした藤波
いかにドラゴン藤波の”飛龍革命”があらゆるレベルで画期的だったことか。その象徴はファンクラブ同人誌の氾濫である。例えばWrestling Digest=WDは、当初は手書きコピーだったが、1980年発行の第6号はオフセットを採用、梅田紀伊国屋書店などで販売された。WDに感銘を受け、大阪に弟子入り志願に来たのは、自身の同人誌『プロレス通信』がスポーツ・ライターとしての出発点だった二宮清純だ。ほかにも流智美(宮本厚二)ら研究家諸氏から当時中学生だった浅草キッドの水道橋博士まで、今となれば多彩な会員リストである。ただし、ファンタジーとしてプロレスを楽しみたい信者系FCからは目の敵にされた。
WDの切り口を認めたターザン山本から筆者に電話がある。ほどなく新大阪新聞社発行『週刊ファイト』紙のカラフルな活字動物園の末席に座ることとなった。唯一無比の眼力と筆力を兼ね備えたI編集長(井上義啓)以下、フランク井上譲二、メヒコ坂井・・・(中略)
1979年12月4日、猪木が徳島でWWFヘビー級王座を奪取した四日後、藤波はグレッグ・バレンタインと対戦。ボブ・バックランンド対タイガー・ジェット・シンがメインだったこの大会はテレビ放送がなかった。大阪だけでしか見られない異色カードを生観戦すべく、遠方のマニアが集結したのが当時の府立体育会館である。
新大阪新聞社週刊ファイト編集部は『タイガー・ジェット・シン』特集号のため取材開始。この特集号こそが、のちに東京の出版社でシリーズ化されるレスラー本の原典、あるいはムック企画の元祖と言って過言ではない。
70年代は週刊ファイトの黄金期だった。1980年に『私、プロレスの味方です』で文壇デビューした村松友視を筆頭に、ファンの意識革命こそが、同人誌ブーム、学生プロレスの誕生、ひいてはインディー団体の起源だったからだ。
それまでの常識からは一生スターとなり得ない小さな藤波の大活躍は、多くの予備軍に希望とやる気を与えた。ある意味、1978年のニューヨークMSG中継放送日こそが日本マット界のもっとも重要な日かもしれない。ファイター藤本率いる全国初の「社会人プロレス」JWAが、地元の自衛隊員などを軸に、兵庫県伊丹市で週末の定期開催が可能になったのがこの78年からだ。ブルーマット(のちに同団体の機関紙名となる)を敷いただけの入場無料の体育館の片隅で、「アマチュアプロレス」を細々と開催し始めた。
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