7・25『REBELS.28』Tマコウスキー負傷欠場につき町田光×チホミール・ミテフが決定+板倉直人のインタビュー公開!

 7月25日、後楽園ホールで行います「ジェイアクア presents RISE cooperation REBELS.28」で町田光と対戦相手の“Tomek”トーマス・マコウスキーが負傷欠場となることが確定したと発表された。

 マコウスキーは、先月(6月28日)、ポーランドのヴロツワフで行われたビッグイベント「Fight Exclusive Night 3」のメインイベントに出場し、ベルギーのアントニー・ハバス(Antoine Habash)と対戦し足の負傷により2RTKO負けを喫し、相当の大怪我であったにも関わらず本人が強く出場を希望し様子を見ていたところ、やはり如何ともし難く無念のキャンセルとなった。

 代わって、RISEを通じてWKN(World KICKBOXING Network)から送られてきたのが、ブルガリアより来る19歳の新生“TM KING”チホミール・ミテフ。よって町田の試合は以下の通りに変更となる。

<第7試合 60kg級 3分3回戦 REBELSルール>
町田 光(橋本道場/Japan Kickboxing Innovation/REBELS 60kg級王者)
vs.
チホミール・ミテフ(ブルガリア/YORK GYM/WKNムエタイ世界60kg級王者、WKN世界60kg級王者、WKN欧州60kg級王者、アマチュアムエタイ欧州王者、WAKOバルカンK-1王者)

世界9冠王のマコウスキーに劣らずミテフも世界2冠王を含む5冠王の強豪。
36戦35勝(11KO)1敗という驚異的な好戦績を誇り、
オランダのロビン・ヴァン・ロスマーレンやギリシャのマイク・ザンビディスを彷彿とさせる好戦的なブルファイター。

参照:Ali El Saleh戦(2013年6月1日)

 初来日のマコウスキー欠場は残念ながら、新たに現れた若き世界王者に“居合パンチャー”町田がどう闘うか注目だ。

■ ジェイアクア presents RISE cooperation REBELS.28
日時:7月25日 6:45開場 17:00オープニングファイト開始 18:00本戦開始予定
会場:東京・後楽園ホール

対戦カード・大会概要
7・25『REBELS.28』UMAのインタビュー公開!&山口元気、クロスポイント&スクランブル代表を辞任しREBELSに専念
7・25「RISE cooperation REBELS.28」立嶋篤史のカード決定+高橋幸光のスペシャルインタビュー
6・15 REBELS.27 全カード決定 メインはマサル×高橋幸光

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板倉直人のインタビュー公開!
取材日:2014年7月上旬
聞き手:株式会社Def Fellow

――昨年10月20日、待望のREBELS-MUAYTHAIウェルター級王座を初戴冠し、REBELSエースの一角としてこれからの躍進が楽しみなところで突然の引退宣言。次の田中秀弥戦が最後との発表には驚く他ありませんでした。

2自分の力を100パーセント出せる確信があるのがあと1試合と悟りましたので、恐縮ながらそうさせていただきました。

――何か大きな怪我や体調不良が?

いえ、何もありません。いや、逆にあると言えばこの数年、常に満身創痍です。ですが、今現在が僕の全盛期ですし、明日は更に強くなっています。その成長しきった力をリングですべて出せるのがあとひとつだと感じ取ってしまったんです。

――練習の成果をすべて出し尽くせる選手など稀でしょうし、逆にそれ以上の力が発揮できる場合もあるように思います。田中戦の後、100パーセントが90パーセントに落ちたとしても十分戦えるし、事によってはより強くだってなれる可能性はありませんか?

もちろんあります。やれば、次の次の試合、99パーセントで当たれる自信もあります。ですが、その1パーセントがあってはならない。100パーセントで試合できなければ僕は引退します。

――昨年7月21日、強敵、引藤伸哉選手に完勝した後のインタビューで「今まで一試合とて満足いったことなどありません。満足いってしまえば、そこから成長がありません。それができれば引退する時だと思っています」と語られていましたが、どこか満足してしまったということではありませんか?

満足はしていません。もし、前回、前々回の試合で満足していたら、その時点で引退です。

――それでも次を引退試合と発表した理由は? 田中戦が終わって、その次も満点の力が発揮できる確信が新たに沸いているかもしれないなら、内心、田中戦後に引退すると決めていても発表などせずに様子を見ていいのではないかとも思います。

引退を宣言させていただいたのは礼儀。今まで応援していただいた多くの方々にたとえお越しになられなくても「次が最後」とお知らせせねば失礼だからです。そして、僕が一度、「次で100パーセントは最後だ」と心の底から確信してしまったなら、その次が99.99パーセントであっても決して100パーセントになることはありません。いや、もしかしたらなるかもしれませんが、その確信が10割でなければやってはならない。他の選手がどうあれ、それが僕の流儀です。

――なるほど……同僚の盟友、小宮由紀博、板橋寛選手や師である増田博正スクランブル渋谷代表も「彼が自分で決めたのなら」と惜別の想いはあっても留意する素振りはありませんでした。それだけの信頼と確信があったのだと思います。それでは現役最後のREBELS公式インタビューになるであろうこの機会、改めてこれまでの経歴を振り返っていただきます。新宿生まれの新宿育ちという、これ以上ない都会っ子だそうですね。

1大久保病院で生まれて新宿伊勢丹で遊んでいました。今でも住まいは新宿の生家です。

――新宿イコール歌舞伎町のイメージで危険な雰囲気がありますが。

便利なところですし、思われているほど物騒でもないですよ。本当に危ない一角に下手に踏み込まなければなんてことはありません(笑)。

――ちなみに学校は?

新宿区立牛込原町小学校から新宿区立東戸山中学校で東京工業大学工学部付属工業高等学校、そして、日本大学理工学部です。

――普段のピシッとした誠実な受け答えからして、破天荒が当たり前のキックボクサーの中で特に光る常識をお持ちだとは心得ておりましたが、はやり確かな素性です。

いえいえ、小中は野球漬けでしたし勉強も程度が低い学校ながらそこそこ成績は良かったんですけど、高校から油断してドロップアウトしてしまった時期はありました。

――いわゆる不良時代?

つるんで悪いことするとかそういうのじゃなくて、ただチャラチャラしていたくらいです。当時は、キムタクとか江口洋介の影響でロン毛ブームだったんで、僕もご多分にもれず肩まで髪を伸ばしてましたよ(笑)。

――話は戻って、少年野球をやり込んでおられた?

小学校はかなり頑張りましたね。週5回みっちり練習で週末は試合の連続。メダルやトロフィーが20個以上ゴロゴロしていました。

――すると将来の夢はプロ野球選手?

少年時代は多少ありましたけど、中学くらいになると薄れて忘れてしまいました。野球部だけでなく陸上部も兼部して高跳びや1500Mの中距離走とかやっていましたし。

――スポーツの青春?

12そうですねー、1日中練習しているということでは一番動いていた時代で、それでいながらちゃんと勉強もしていましたし、優等生の部類だったかもしれません。

――それが高校でブレてしまう?

ハジけちゃったというか、バイトと遊びの毎日で。

――とはいえ、しっかりと日本大学に進学された?

それが一年浪人してしまいました。それらの負担を母親やおじいちゃんにかけてしまったので恐縮な限りです。

――以前のインタビュー(※1)でお話しいただいた通り、大学の船橋校舎に通っていたところ、電車から見える南行徳のゴールドジムで格闘技クラスがあることを知って体験入門し、空手維新の山口竜代表に教わり、週1回程度の練習で3ヶ月後にアマチュア大会に出場し、倒して勝ちまくったと。

アマチュアSBのトーナメントで1日のうちに4戦4勝4KOしたこともあります。

――本腰を入れずしてそこまでの結果が得られるとは天才肌だった?

ほとんどセンスで勝負して運良く上手くいっただけですね。倒すコツは自然と身についていたかもしれませんけど。

――大学と練習以外には何をされていたのですか?

13バイトです。地元でパーキングスタッフしていました。特に自給が良いわけではなかったですけど、車が好きで、そこで働いていたら1000万円以上するような超高級車を(車庫入れで)運転できるので、それが目当てだったところもあります。

――歌舞伎町で高級車を扱うとなると色々ありそうです。

そっち系のお客様がほとんどですからね(笑)。助手席に●●が落ちていたり、もっといけないものが置いてあったり、「絶対トランク空けるんじゃねえぞ!」と言われたり……駐車料金が2,000円でも2万円置いていかれたり良い思いもできました。ベンツのSクラスとロールスロイスを1cmくらいの間隔で隣接して並べるのだから緊張はしましたけど(笑)。

――1cmですか!?

けど、完全無事故で3年以上働くことができました。良い経験です(笑)。

――そして、大学3年生で船橋校舎から水道橋に移って、こんどはスリーエスアカデミー(※2)に通い、その後、スクランブル渋谷に所属することになります。大学卒業後は新卒で就職を?

はい、やはり車が好きだったので東京スバル自動車株式会社に入社しました。本来は製造に興味があったので富士重工業株式会社(スバル車の製造会社)も受けたのですが、結果営業で。

――そこで1年ほど勤めたところで「人生このまま終わらせたくない」と強烈な思いにかられたれ、「仕事はいつだってできる」とキックボクシングにかけることを決意してのスクランブル渋谷入門だったとお聞きしています。

自分勝手なこだわりで会社にはご迷惑をおかけしましたが、お陰さまでその頃の仲間や上司の方々とは今も親交深く、毎試合見に来ていただいています。

――10年以上も前に1年で退社した会社の仲間からも応援し続けられているところに板倉選手の人柄がうかがえます。

感謝の一言です!

――大学から一流企業に就職し、それを途中で蹴ってまでキックにかける心持ちを改めて教えてください。

11歳をとって30半ばで「俺だってキックを続けてればチャンピオンぐらいなれたのに」とか思うのが嫌だったんです。才能に自信はあった。それなのに自分でやめておいて「やっていたら日本一くらい」とか管を巻くのは想像したくないなと。仕事はいくつになってもどうにかなります。キックは20代のその時でないと突き詰められません。なら「本当の強さとその証を手に入れよう」と。

――アマ時代から倒し屋で鳴らし、そこまでの決意をもってプロに臨まれていただけに板倉選手が頭角を現すのは非常には早かったように思います。プロデビュー戦は?

2004年12月26日、今はなくなってしまった竹ノ塚のバトルスフィア東京のM-1(※3)でピットジムの福嶋大志戦です。これは3ラウンドでKOしました。その次の2戦目が忘れられない試合となります。

――と言われますと?

2005年5月15日、全日本キックボクシング連盟の後楽園ホール興行、新空手で実績のある勇心館の森卓選手との試合で、1ラウンド、右ハイキックでダウンを奪って、2ラウンド、パンチ連打でダウンを追加して、最終回の3ラウンド、あとは倒すばかりと攻めに行ったらすぐにアッパーでダウンを取られて、そこからラッシュをかけられて次のダウンでレフェリーストップとなり0分38秒でKO負けです。

――1、2ラウンドでそこまで圧倒しながらラストラウンド30秒の大逆転KO負け……想像するだに超激戦ではないですか!

マッチメイカーの宮田充さんなどは喜ばれていましたね……。

――しかし、敗戦は良い思い出ではない?

9それもですが、この試合、開始早々に右の拳を粉砕骨折してしまいまして……。

――オーソドックス(右構え)で右強打者の拳がファーストラウンドで砕けてしまう……主武器を失いながら最終回まで戦い続けた?

試合中に拳の骨がズレまくってえらいことになっているのは分かったんですけどね。

――第1ラウンド終了時のインターバルでセコンドに申告しなかったのですか?

言ったら終わっちゃうじゃないですか。ダウンを取って勝利目前でもあったし。

――つまりは粉々の拳のままパンチを連打して2度目のダウンを奪い、そこから逆転KO負けしてしまった……激闘男にも程があります。一体、どれだけの怪我具合でしたか?

病院直行で示指中手骨(人差し指の手の甲の骨)が粉砕しての再生手術で、拳も潰れてたので手首の腱を移植して再建しました。それをボルトで留めて二度目の手術で取り出し。そこまでに半年、回復に半年、約1年のブランクです。

――3戦目は2006年5月28日、RISEの大森ゴールドジムで、元テコンドー日本王者、y-parkの飛本裁選手に3ラウンドKO勝ちの見事な復活劇をされています。

復帰戦で勝てたのはいいんですけど、この試合、2ラウンドでまた拳をやっちゃいまして……。

――1年越しの連続骨折?

今度は中指中手骨(中指の手の甲の骨)、最初に折った個所の隣りを折ってしまいました。

――この試合も第2ラウンドに拳を砕きながら次のラウンドまで続行し、しかもKO勝ちしています。

折れた自覚はあったので、それならばと首相撲からのヒザ蹴りに切り替えて倒しました。

――その機転は素晴らしいですが拳は?

10この時は手術しないでギブスで固定して治しました。

――1年間空けての2戦でそこまで拳を潰してしまったら、その後、試合をすることが恐くなりませんか?

不安にはなりますけど辞めようとは微塵も思いませんでした。ですけど、3戦目後にギブスが取れたら、練習で2回、同じところを折ってしまって症状は酷くなる一方になってしまい、短期間に繰り返し骨折することで骨芽細胞(骨を再生する細胞)がなくなって骨折部分が偽関節(骨と骨が離れたまま固まってしまう状態)になって完治不可になってしまいます。

――その状態で約1年3ヶ月後の2007年8月19日、PHOENIXの小沼“CANDY”壮城とJ-NETWORKのゴールドジムサウス東京アネックス(大森ゴールドジム)興行で4戦目となる復帰戦を闘い、判定3-0で勝利しています。

完全に右を封印して、主武器の右パンチを一発も出さず徹底して首相撲中心にポイントアウトして勝ちました。

――スラッガーからテクニシャンへの転身ですね。

けど、その次(2007年10月6日)の亜紀斗(はまっこムエタイジム)戦がドローでつまらない消化不良な試合をしてしまって、「武器がないとこのままじゃ上にいけない」と悟り、サウスポーにチェンジすることを決意します。

――板倉選手のコンバーテッドサウスポー(右利きの左構え)への転身は業界内で有名ですが、このタイミングでのことでしたか。これはトレーナーのアイデア?

4いえ、自分で決めました。師匠である増田博正さん(※4)、当時のジム代表、内田康弘さん(※5)が二人ともサウスポーだったので、これも「サウスポーで頂点を獲れ!」ってなるべくしてなったことなのかなって。

――構えを変えるということは個人差あれど大変な改革だと思うのですが、試合をするまでの期間はどのくらいで?

10か月です。4カ月目で試合のオファーをいただきましたが、まだそのレベルに達していないと断りました。自分的にこれならと思えるまで10カ月かかってしまったという感じです。

――その“新生”試合が2008年2月9日、後にWPMF日本スーパーウェルター級王者となる藤原ジムの清水武を相手にユナニマスデシジョン(判定3-0)の快勝ですね。

左ストレートでダウンを取って首相撲でバランス良く攻めて勝ちましたが……。

――左で倒せたことは大きな収穫で良き復帰戦のように思えますが何か?

試合が始まってすぐに右ジャブで折れちゃいました。

――1ラウンドで骨折して、またそのままセコンドに隠したままフルラウンド闘い続けたと。

ですね。

――それにしてもよくそんなことが……。

「拳やっちゃったみたいですけど絶対やります!」と言えば、増田さんは理解してくれて、その状態で最善の策を立ててくれるかもしれませんけど、それを口に出してしまったら自分が弱気になってしまう。ならば、自分自身も騙す! とりあえずなかったことにして忘れる!

――言葉にすれば簡単そうですが、そうできることではないと思います。

5だから、この清水戦は「また右を壊してしまった」絶望と「左で倒せた」希望の悲喜こもごもで思い出深い一戦です。

――それでも辞めようと思ったことはない。

一度もないです!

――ここまで何度折ってしまったかも分からないほど骨折話が出ましたが、今までどれだけ故障したのでしょう?

キックだけであちこち20から25本くらいの骨折ですかね。多すぎて途中で数えるのを止めました(笑)。

――まさにボーンクラッシャーです。

セルフですけどね(笑)。それからのプロ4戦目の試合から今に至るまで右手の中指中手骨が折れたままの状態で闘っています。今でも骨は繋がっていません。

――その克服にキックボクサーとしては異例の空手の部首鍛錬を取り入れたそうですね?

先輩だった孫煌進さん(ソン・ファンジン)(※6)が倉本成春先生(※7)の倉本塾で拳強化の部首鍛錬をしていて薦められたのがきっかけです。

――倉本氏と言えば、日本武術界で有名な巨人。とてつもなく恐ろしいイメージがあります。

豪快な方ですが、誠実で丁寧。一見、無茶な鍛錬も理論的にひとつひとつ根拠を説明してくれるので納得してかかることができます。

――近代的なジムワーク、しかもスクランブル渋谷は国内有数の先端トレーニングをされています。その対極に思える修業内容を教えてください。

6まずは砂袋。「砂」とは言っても粉末状ではなく、もっと大粒な「砂利」が詰まった麻袋を手の甲で打ちつけて全体を刺激します。これが4、500回。次の本番「巻き藁突き」の為のウォームアップです。

――500回でウォームアップですか?

達人の中にはいきなり巻き藁をいける方もいますけど、僕はまだ未熟なので準備運動がなければ無理です。

――砂袋と巻き藁はどう違うのでしょう?

砂袋は「面」で巻き藁は「点」で叩きます。それに硬質な物を藁で巻いたやつがカッチコチでとにかく痛いんです。これが1000回。時間にするとあわせて1時間から1時間半。

――90分も!

僕はこれに脛も加えて1時間プラスだから2時間から2時間半ですね。

――痛めた拳だけでなく脛もですか。どおりで前試合(2014年4月20日)、強豪タイ人、シティサック・ソー・ソムポンを相手にローキックをカットされて骨が見えるほど割れてしまっても蹴り続けられたわけです。

14脛は「砂袋」ならぬ「鉄袋」を蹴り上げます。工業用の鉄のビーズが詰まったもので、お米なら30kgくらいの袋が100kg以上になるんですよ。これをぶら下げたものは下部が更にガチンガチンになってヤバいです。そこをゴツゴツ蹴り込むと。

――非常にマゾヒズムに満ちた修練ですが、効果や実感のほどは?

27、8歳から今までだから5年以上続けていますけど、あれほど壊れていた拳をその後一度も折っていません。

――てきめんですね。

この修練をやり込むとかならず血尿が出ます。

――文字通り血が滲む特訓です。

正確に言うと、その小便の色は血ではなくて細胞を磨り潰してたんぱく質が壊れ、肝臓が処理しきれなくなった老廃物だそうです。フィルターが壊れて尿をろ過しきれないみたいな。

――内臓をはじめ身体に著しく悪そうです。

健康になる為のトレーニングじゃなく「修練」ですから苦痛やリスクはつきものです。しかし、気をつけないと本格的に身体を壊してしまうので、十分にケアしながら行います。

――そこまでされて頑健な現在があるかと思うと感慨深いものがあります。

15夢を追い続けることを可能にしてくれた倉本先生は、まさに恩人です。最近は巣鴨道場に行かず、ジムに鍛錬器具を作って自前で続けていますけど、この出会いあってこその今です。

――そうやって鍛え上げた拳を持ち、国内有数のテクニシャンでサウスポー、それでいてスラッガーでもあり、磨きあげたアントニオ猪木パフォーマンスと大応援団がついているプロフェッショナルとして満点の板倉選手がベルトを巻くのに10年もかかってしまったことが不思議でなりません。

謙遜でもなんでもなく本当にこの10年はあるべくしてあったし、それまでチャンピオンになれなかったのは、そこまで自分が至らなかったからです。必要不可欠なこの10年に何の不満もありません。

――意外なことですが、タイトルマッチ自体、昨年10月20日の堤大輔戦が初めてでした。

WPMF日本王座決定トーナメント(※8)はありましたけど、準決勝戦で負けてしまいましたからね。

――その2010年9月23日から開始されたWPMF日本王座決定トーナメントは、8名で開始され準々決勝戦と決勝戦がREBELSで行われましたが、密度濃くレベルが高い面子が集結した中、優勝候補として参加し準決勝戦、その後、優勝して王者となる渡部太基選手に5ラウンドTKO負けでベルトを逃してしまいました。

その渡部戦がこれまでのキャリアで一番印象深い試合です。それまで負けたことはあっても(※9)完敗と素直に思えるものはなかったところ、ボッコボコにされて……そこからスランプに陥って、笹谷淳戦(2011年4月24日)、高修満(2011年9月11日)と3連敗してしまいました。それまで連敗したことなかっただけにドン底といった感じです。

――その次戦、2011年12月22日のトースナー・ノンタチャイ戦は2ラウンドKOで復活しています。

これがかなり転機となる試合でした。相手の問題ではなく「連敗の原因は何か?」と突き詰めて考えて、心の在り様が駄目だったと心底反省しました。覚悟が足りない。自分を信じ切れていない。なればこそ自信を持って臨めない。すると、たまたまなんかじゃない「負けるべくして負けた」のだと受け止められまして。そして、「原点に戻ろう」と。

――原点とは?

応援していただいている皆から「最近の試合はつまらない」「デビュー戦の頃はメチャメチャだったけど面白かった」と言われて、あの「相手を倒すことしか考えない」初心に還ろうって、トランクスも負けたけど思い切り弾けることのできた2戦目の森戦のトランクスを履いて臨みました。

――その決意をセコンドに伝えつつ?

いえ、何も言いません。話せば反対されるかもしれません。チーフセコンドの内田代表がこの試合で何を言おうと申し訳ないですが無視していこうと決めていました。後で怒られるのも覚悟でファーストラウンドからフルスロットルでいくと。

――果たしてどんな試合内容だったのでしょう?

それが気持ち急いても身体は動かないものなんですね。ハチャメチャをやろうと決めているのに落ち着いているし、セコンドの声も良く聞こえる。

――それまでセコンド指示はあまり聞こえなかった?

7極度の緊張しいなのでセコンドの声が頭に入らないことがよくありましたが、それがこの日はスッと沁みてきました。けど、試合は前に出て倒しに行ったし、結果的に燃える心と冷静な身体のブレンドが絶妙に合わさって、これまでにない境地で理想に近い試合ができたんです。試合後、怒られる予定が褒められましたし(笑)。怪我の功名と言うべきか、開き直ることで足りなかった要素が埋められました。

―――そこから目が覚めたように3連勝(ノーコンテストを挿む)して、惜敗した2012年10月21日のK・ルークプラバーツ戦も白熱した技術戦のスプリットデシジョン(判定1-2)で調子をドンドン上げているように見えます。

トースナー戦のあとの数戦は、気を使っていただいたようなマッチメイクで、正直、勝負として物足りない部分はあったのですが、それまで3連敗した選手に発言権はありませんし、それよりも相手のことなど関係なく大切なことに気づきました。

――大切なこと?

100パーセントの練習と準備を持って臨めばどんな相手だろうが成長することができます。しかし、「この相手だからいいや」と50パーセントの練習しかしなかったら強くなることなど望めないってことです。

――それからタイトル一直線、REBELS-MUAYTHAIウェルター級王座決定トーナメント準決勝戦、2013年7月21日の引藤伸哉戦は「事実上の決勝戦」と言われ、強豪ホープ相手に心技体揃った素晴らしい試合内容。左ストレートでダウンを奪っての快勝。一分の隙もなく冷静でいながら熱い闘い振りは、ある種の完成系を見る思いでした。

確かに感触のある試合でした。完璧にセコンドの指示も遂行できましたし。あの試合は、内田さんがスクランブル代表を辞められて、生涯の師である増田さんがそれを継いでチーフセコンドになった試合だったので、尚更、感慨深いものがありました。

――その次は、ベテランの持ち味をいかんなく発揮したチームドラゴンの堤大輔選手とのタイトルマッチ。この日のベストバウト賞を受賞する激戦となりました。

堤選手の勝負にかける気持ちが熱いほど伝わってきました。

――また、試合後のマイクが感動的でキック史に残る名スピーチ(※10)だったと思います。

ありがとうございます。言っていることは、事前にインタビュー(※11)でも話していることなんですけどね。「ベルトを巻いたら何を話すか」特に決めていたわけではなかったです。あの場で素直に心底感じたことを述べたまでで。

――そして、チャンピオンとなって最初の試合、今年4月20日のシティサック戦は、ローキックでダウンを奪って完勝しておきながら試合後恒例の猪木リスペクパフォーマンス「ダーッ!」唱和を封印した形となりました。

勝ったことは良かったですが、あの「ヤスユキ×町田光」がメインの日、セミファイナルの大任をいただいて、その前にT-98があれだけの試合(※12)をして激勝しているところ、あの内容でREBELS王者として胸を張ることはできませんでした。

――しかし、「骨が剥き出しになりながら蹴り倒した」事実が知られていればもっと評価が変わったかもしれない試合です。

8巧いタイ人が勝ちに来た際特有の「待ちパータン」だということは分かっていながら、そこを強引に攻め込んで崩せなかったのは失敗でした。消極的な試合に見えたかもしれませんが、地元のチャンピオンがあれをされたら前に出ざるを得ないわけで、そこを狙って渾身のカウンターを打ってくる本当にやっかいな相手でした。蹴りのカットも絶妙で、打っているこちらの足が壊れるようないい角度で受けるんですよ。一度、脛と脛が直撃した時、蹴った自分が「やられた!」と思って相手の顔を見たら、試合中、普段は表情を出さないタイプのタイ人が明らかに痛がっていたんですよ。それなら「よしガードごと倒せる!」と蹴り続けることができました。

――それにしてもこの2年半、ずっと上り調子でどこまでいくか楽しみな最中、満を持して決まった宿敵、田中秀弥との一戦。しかし、これが引退試合となるとは……つくづく残念です。

すみません。僕も同様ですが、最後が田中選手で良かったです。

――日本最激戦区と化している超密度のウェルター級戦線でお互いにトップランカーとして5年以上もその地位をキープをしながら何故か交わることのなかった「残されしライバル」との宿命の闘いはドラマに満ちています。

そうなんですよ。彼もデビュー時期から相当の実力者で数戦目には日本ランカークラスと言っていいレベルを維持しながら何故かタイトルを獲ることができずに、やっと昨年末、同僚のT-98から3度目の対戦で初勝利して戴冠(※13)した苦労人。プロキャリアも似通っていて(※14)で背の高いリーチのある技巧派同士。恐らくお互いに何年も意識しあってきたはずです。それだけに申し分なしです!

――水を挿むような質問で恐縮ですが、例えば田中選手の指導者である小野寺力(※15)会長は、当時、世界最強が絶対視されていた怪物、アヌワット・ゲオサムリットに引退試合で挑み砕け散りました。小野寺会長の所属した目黒ジム(※16)では「ジムの看板王者は世界最強のファイターと闘って引退する(※17)」が半ば慣習化しており、それと同じようなこだわりを持つことがあるとすれば、板倉選手ほどのREBELS貢献度なら「セーンチャイ(※18)とやって終わりたい」と強く願えば山口元気代表はそれを叶えたはずです。そういった考えはありませんでしたか?

ないです。田中選手こそが最高の相手! ここで僕が求めるのは「最強の相手」ではありません。もし、今回の試合がはじめから二択で「セーンチャイ選手か田中選手か?」と訊かれたのなら、即断で田中戦を選びます!

――田中選手こそが最高?

言いかえれば「最も燃える相手」です。

――なるほど。

たとえセーンチャイ選手とやって勝つことができたとしても“ムエタイの神”がこの10年間で築き上げた最強伝説をたかが1試合でいただくことができるわけではありません。この先もずっと現役を続けていけるのなら、最強の称号を得る為に勝ち目が薄くたって挑みたかったかもしれませんが、次が最後なのですから求めるのは「僕にとっての最高」です。

――よく解りました。そんな田中戦、想像するだけでドキドキしますが、どんな試合になるでしょう?

いつもと変わりません。

――REBELS最初の後楽園ホール興行で「全試合メインイベント」と言ってもいい豪華マッチメイクの大トリとなる引退試合。でも「いつもと変わらず」ですか?

すみません。ちょっと意地悪な言い方になってしまいました。けど、それが僕の「最高の臨み方」なんです。

――そこを詳しく説明願います。

310年かけてチャンピオンになりましたが、急にチャンスが回ってきたのではなく、なるべくしてなった過程でコツコツと薄紙を重ねて行くように努力を続け、それが実ってベルトを巻くことができたと思っています。本当に少しずつですが「昨日の自分よりも今の方が強い」「今よりも明日の自分が最強」のつもりで精進してきました。REBELS念願の後楽園ホールであれだけのカードの中でのメイン。これ以上望みようもない舞台。山口代表には「感謝」の二文字しかありません。だからこそ、そこに臨む最高の板倉直人は「これまで通り積み重ねてきた7月25日の自分」なんです。特別な試合だからといってジャンプアップして何かが発揮できるということは自分に限ってはありません。

――……。

ずっと続けてきた積み重ねが次の試合以降はできなくなる。たとえ1日だって欠けてはならない努力。だからこその引退です。

――まさに板倉選手得らしい引退試合となりそうです。

模倣しているわけではありませんが、魔裟斗選手だってそうだった(※19)じゃないですか。今でも一日一日成長して強くなっているのが実感できてるし、最後の最後まで強さを求めて成長します。最後まで挑戦です。7月25日、ジムの仲間と共に強くなり、師である増田会長と共に最強の板倉直人が後楽園ホールで最高の相手と最高の試合をします!

――今回のインタビューは、今までのキャッチーな猪木キャラが先行してしまった板倉選手のパロディー部分を省いて、心の芯の声が聞けた気がします。

けど、猪木さんは僕の人生の手本です。ですから、そこも忘れてもらっては困ります!

――すると、恒例の必殺技「ありがとうパンチ」「ありがとうキック」「元気ですか!?パンチ」「元気ですか!?キック」(※20)も飛び出ますか?

当然です! 最強最後の「ありがとう!」と「元気ですか!?」を出します!

――楽しみです!

そして、試合直後に引退式をさせていただけるのであれば、田中選手に勝利して、10カウントゴングの後、皆さんと一緒に最高の「ダーッ!」を叫びましょう!

※1 以前のインタビュー 参照:http://blog.livedoor.jp/rebels_muaythai/archives/51902183.html

※2 スリーエスアカデミー 水道橋駅からほど近いビルに3FがMMA&柔術、4Fがキックボクシング、5Fが更衣室という一般会員向けの格闘技スクールがあり、キッククラスは、山口元気、新田明臣、ソムデート・M16など豪華講師陣が揃っていた。約10年前に閉鎖し、新田のバンゲリングベイが後を継ぎ、更に変遷して現在はアカデミアアーザとなっている。

※3  M-1 在日ムエタイジムの大手「ウィラサクレック・フェアテックスジム(昔はウィラサクレック・ムエタイジム)が主催するムエタイプロモーション。NJKF加盟時に2002年より始めた自主興行は、後に閉鎖されるバトルスフィア東京で行われ、その後、パートナーを得て新宿FACE興行を皮切りにディファ有明をレギュラーに拡大し活動したが、2012年、新たなブランド「M-fight」に移行している。

※4 増田博正 確かな実力と端麗な顔立ちから“Jの貴公子”と呼ばれたJ-NETWORK時代、全日本キックボクシング連盟時代、スクランブル渋谷時代の3つの全盛期でJ-NETフェザー級王者、全日本フェザー&ライト級王者、WPMF世界ライト級王者となった“キックの鉄人”は、現在、スクランブル渋谷の代表を務め、後進の育成に寄与している。

※5 内田康弘 美しいムエタイを体現し元全日本ライト&ウェルター級王者。特に1995年1月7日、小林聡をヒザ蹴りでKOした試合が有名。創設から長らくスクランブル渋谷の代表を務めたが、2013年春、退職。

※6 孫煌進(ソン・ファンジン) スクランブル渋谷所属のMMAファイター。選手時代は長くなかったがリング乱闘事件やブログ炎上などで色々と濃くインパクト大な存在だった。

※7 倉本成春 くらもと・なりはる。兵庫県伊丹市出身の空手家。巣鴨で倉本塾を主宰。中村日出夫などに師事し、競技的なカラテとは対極の武術としての空手道を追及し、その部首鍛錬を主とした修練と過激な演武は凄まじく、表に出せない武勇伝を含めエピソード数多のリビングレジェンド。

※8  WPMF日本王座決定トーナメント 2010年9月23日から開始された初代WPMF日本王座決定トーナメントは、板倉直人、田中秀弥、渡部太基、T-98、藤倉悠作、島一生、関ナオト、影日“ポパイ”和徳の8名で行われ、熱戦と名勝負の連続で初期REBELS最高傑作の企画となった。

※9 それまで負けたことはあっても 渡部戦まで板倉は2敗しかしておらず、そのうちひとつはタイ人選手のウィラチャート・ウィラサクレックと判定1-2でもうひとつは前述の森戦だったのだから確かに完敗経験がなかったと言える。

※10 キック史に残る名スピーチ 2013年10月20日、メインイベントで堤大輔を破り初戴冠した板倉はマイクで「正直、キック始めた時は2年とかでベルト獲れるんだろうって感じでしたけど、蓋を開けてみたら、結果10年かかってしまったという……けど、できることをやって一日一日全力でやって、それが結果的に僕にとって必要な10年で、遠回りでもない、近道だったなと。結果論ですけど10年かかって良かったんじゃないかなって」と語った。ちなみに100名を超す大応援団は皆号泣。その後、リング上で記念撮影に収まった。

※11 事前にインタビュー 参照:http://blog.livedoor.jp/rebels_muaythai/archives/51915995.html

※12  T-98があれだけの試合 2014年4月20日、T-98は石井宏樹をヒジ打ちでKOしたことのある強豪タイ人、パーカーオ・クランセーンマーハーサーラカームの恐ろしいまでの殺気を得意のボディーストレートとヒザ蹴りで完全粉砕し見事な3RKO勝ち。この日、REBELS史上のベストバウト級であるヤスユキ×町田光があった為に最高試合賞は逃したが、普段なら間違いなく受賞している名勝負だった。

※13 3度目の対戦で初勝利して戴冠 2013年12月1日、3度目の対決を得意のヒジ打ちによるカットでドクターストップ4RTKO勝ちを収めT-98からWPMF日本ウェルター級のベルトを奪取した田中。それまでは2戦1勝1敗という拮抗したライバル関係からひとつ頭抜けてみせた。ちなみにT-98はクロスポイント吉祥寺所属だが選手練習は板倉と同じスクランブル渋谷で行う盟友である。

※14 プロキャリアも似通っていて 板倉のプロデビューは2004年12月26日、田中は2003年11月16日と約1年、田中が早いが、田中は2戦目が2006年1月9日と間を空けており、そこを加味してほとんど同量のプロキャリアを積んできたと言える。

※15 小野寺力 おのでら・りき。目黒ジム(現・藤本ジム)所属の元日本フェザー級王者。強く美しい正統派かつ容姿端麗“赤い薔薇“と呼ばれ90年代の業界をリードしたスーパースター。現在、RIKIX会長として後進を育成しつつ、今年2月11日、大田区総合体育館で石井宏樹×ゲーオ・フェアテックスをメインに「NO KICK,NO LIFE 2014」をプロモートした。

※16 目黒ジム キックボクシング発祥の地。ボクシングのプロモーターだった野口修が創設し、ここより沢村忠が生まれ、1966年、キックが誕生した。現在は目黒藤本ジムに名を改め、石井宏樹や松本哉朗、緑川創といった名王者を輩出し続け、帝王学を受け継いでいる。

※17 世界最強のファイターと闘って引退する 90年代前後に活躍した目黒ジムの元日本ライト級王者“広角殺法”飛鳥信也は、当時、ラモン・デッカーと並んで世界最強と目されていたギルバート・バレンティーニと自らプロモートした引退興行で対戦し1RKO負けを喫しながら10カウントゴングを聞いた。それ以来、元WKBA世界スーパーライト級王者、元日本ライト級王者“肉体言語”新妻聡がノッパデーソーン・チュワタナと闘いダウンを奪われて判定負けと伝統的系譜となり、前述の小野寺×アヌワットにつながっていくロマンに満ちた無謀な美学。

※18 セーンチャイ 歴々と“ムエタイの神”と呼ばれる選手がいる中、現在の神であるスーパートップのムエタイ王者。2000年代初頭から約10年もその位置を堅固する怪物。セーンチャイ・ソー・キングスターからセーンチャイ・PKセンチャイムエタイジムといった具合にリングネームは変遷している。最早、仙人の境地に達した究極のフィームー(テクニシャン)タイプ。

※19 魔裟斗選手だってそうだった ご存知、K-1 WORLD MAXをけん引したスーパースター“反逆のカリスマ”魔裟斗は、2009年12月31日の引退試合で“世界トーナメント2タイムス王者”アンディ・サワーと闘い、しかも勝利して世界最強クラスのままグローブを壁に吊るした。

※20 必殺技「ありがとうパンチ」「ありがとうキック」「元気ですかパンチ?「元気ですか?キック」 板倉の必殺技は、その威力や形容を超えてスピリチュアルメッセージが込められた特殊なものである。その内容は以下のインタビューに詳しく解説されている。参照:http://blog.livedoor.jp/rebels_muaythai/archives/51915995.html

リングネーム/読み仮名:板倉 直人/Naoto Itakura
所属:スクランブル渋谷
生年月日:1979年10月18日
出身地:東京都新宿区
身長:181cm
戦型:サウスポー
得意技:闘魂
血液型:B
戦績:27戦18勝(8KO)6敗2分1NC
ステータス:REBELS-MUAYTHAIウェルター級王者
キャッチコピー:燃える闘魂

公式ブログ:http://ameblo.jp/itaita123/
facebookアカウント:naoto.itakura
Twitterアカウント:@genkidesuka6668

最近の試合:

2014年04月20日 シティサック・ソー・ソムポン(タイ) ○判定勝ち
2013年10月20日 堤 大輔(チームドラゴン) ○判定勝ち
2013年07月21日 引藤伸哉(ONE’S GOAL) ○判定勝ち
2012年05月19日 CAZ JANJIRA(ジャンジラ・ムエタイジム) ○判定勝ち
2012年04月21日 渡辺健司(伊原道場稲城支部) △判定ドロー
2012年01月14日 森本一陽(レグルス池袋) ○判定勝ち
2011年11月21日 K・ルークプラバーツ(タイ) ×判定負け
2011年07月29日 基流・ザ・ビャー(サムライ修斗クラブ) ◎1RKO勝ち
2011年06月24日 基流・ザ・ビャー(サムライ修斗クラブ) ▲ノーコンテスト
2011年04月15日 左 禅丸(アカデミアアーザ) ◎2RKO勝ち
2011年12月22日 トースナー・ノンタチャイ(タイ) ◎2RTKO勝ち
2011年09月11日 高 修満(エイワスポーツジム) ×判定負け
2011年04月24日 笹谷 淳(TANG TANG FIGHT CLUB) ×2RTKO負け
2010年11月14日 渡部太基(藤原ジム) ×5RKO負け
2010年09月23日 関 ナオト(u.f.c) ◯5R判定勝ち
2010年03月21日 ペッダムロン・トゥーガーハン(タイ) ◎2RKO勝ち
2010年01月23日 高橋誠治(町田金子) ◯3R判定勝ち
2009年09月13日 ウィラチャート・ウィラサクレック(WRSフェアテックスジム) ×4R判定負け
2009年04月18日 吉川英明(チームドラゴン) ◎1RKO勝ち
2009年02月01日 亜紀斗(はまっこムエタイ) ○判定勝ち
2008年10月17日 三上洋一郎(S.V.G.) ◎1RKO勝ち
2008年02月09日 清水 武(藤原ジム) ○判定勝ち
2007年10月06日 亜紀斗(はまっこムエタイ) △判定ドロー
2007年08月19日 小沼“CANDY”壮城(PHOENIX) ○判定勝ち
2006年05月28日 飛本 裁(y-park) ◎3RTKO勝ち
2005年05月15日 森 卓(勇心館) ×3RKO負け
2004年12月26日 福嶋大志(PITジム) ○3RTKO勝ち

【2014年4月20日現在】

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