[週刊ファイト9月1日号]収録 [ファイトクラブ]公開中
[Fightドキュメンタリー劇場 37] 井上義啓の喫茶店トーク
▼謎の“マクマホン指令”WWWFヘビー級戦 猪木vs.バックランド1978
by Favorite Cafe 管理人
当時の報道によれば、ビンス・マクマホン(シニア)は、ボブ・バックランドに「猪木からピンフォールを奪って、WWWFヘビー級王座を防衛せよ」と指令を出した。そしてその内容はテレックスで新日プロのオフィスにまで送られてきた。この「マクマホン指令」の狙いとは、いったい何だったのか。
■ 闘いのワンダーランド #048(1997.02.10放送)「I編集長の喫茶店トーク」
1978.07.27 日本武道館
アントニオ猪木 vs. ボブ・バックランド(前半)
猪木vs.バックランド(放送画面キャプチャ)
(I編集長) この試合は非常に名勝負なんだけども、ひとつの謎があった試合なんです。その謎というのは何かと申しますと、ビンス・マクマホン、当時のマジソン・スクェア・ガーデンのプロレスを牛耳っておった大ボス、WWWFの親方ですね。このマクマホンがバックランドを日本に派遣するにあたって、「おまえ、日本ではただタイトルを防衛して帰って来るだけじゃダメだぞ、必ず猪木から完璧なフォール勝ちを収めて帰って来い。もし、そうでなかったら、タイトル剥奪か、それに近い措置をとる」と、マクマホンがこう通達したんですよ。
ビンス・マクマホン、ボブ・バックランド
(I編集長) 訳が分からん話でしょ。これはバックランドが日本に行くと言うので、ウチの特派員がマクマホンのところに取材に行った時に、そんな話を聞いたんですね。WWWFがバックランドを日本に送る、そして猪木のチャレンジを受けてWWWFヘビー級選手権試合をやることになっていたんです。その時に「単にタイトルを防衛するだけじゃダメなんだ」という話をバックランドに話したらしいんです。私は特派員からその報告を受けて「この話はいったい何なんだ。訳わからんじゃないか」と思ったんです。
と言いますのは、当時の米マットというのは、チャンピオンが日本に行っても、要するにちゃんとベルトを防衛して帰ったらそれで良かったんですよ。ハッキリ言ったらね。良い試合だとか、そんな事はどうでもいい訳ですよ。ベルトを失ったら大変だけども。もう、反則負けとか何でもいいんであって、とにかくベルトを持って帰ると、こういうことが当時の常識だったんですよ。
MSG、バックランド
(I編集長) そういった時代でしたよ。これが最近であれば、ビデオになってインターネットでアメリカでも流れるとかね、色んな事情があるでしょう。だけども当時は日本での試合が向こうのファンに知られることは無かったですよ。もう、ビデオもなければ、テレビ中継もされない、マスコミの書いたものが向こうに翻訳されることもない時代ですよ。たまにそういうことがあってもね、全部がもう提灯記事ですから。2対1で負けているのにですね、2対1で勝ってると平気でそんなことを勝手に書く時代ですよ。だから、強い勝ち方もへったくれもないんですよね。ましてや「フォール勝ちをしろ」とか言われるとね、「マクマホンは何を言ってるんだ?」ということですよ。もしもこのマクマホンの指令が、週刊ファイトの取材、私と特派員が聞いただけのおかしな話だとすれば、プロレス流のリップサービスだから、それでいいんですよ。ところがマクマホンは新日本プロレスのオフィスにまで、テレックスで「ガーッ」と同じ事を送ったわけですよ。当時テレックスと言っていましたけどね、FAXですね。それを見た新間さんが「これは何だ!」と言い出したことから、おおやけになったんです。「謎のマクマホン指令」となったわけですよ。
謎のマクマホン指令に振り回される猪木、I編集長、新間営業本部長
(I編集長) 猪木からフォール勝ちをしない限り、タイトル剥奪に近い処置をとるって、これはどういう意味なんだ?と。こうなってくると週刊ファイトとしても放っておく訳にはいきませんよね。それでニューヨークの特派員にマクマホンのところに行って、もう一度「これ、何ですか?」と聞いて来いと言ったんです。
▼井上譲二の『週刊ファイト』メモリアル第37回 故ビンス・マクマホン・シニア氏
余裕を感じさせた太っ腹プロモーター
[ファイトクラブ]井上譲二の『週刊ファイト』メモリアル第37回 故ビンス・マクマホン・シニア氏 余裕を感じさせた太っ腹プロモーター
(I編集長) かつてのWWWFは、ニューヨークを中心にした組織だったんです。他にもテリトリーはピッツバーグとかいろいろありましたけどね。それが当時はだんだん力を付けてきて、アメリカでもテリトリーが広がってきていたんです。日本もそのテリトリーの一つになってきていたんですよね。マクマホンは、そういったWWWFテリトリーで行われる試合では、チャンピオンは常に強い勝ち方をしなければならないと考えていたんです。ボブ・バックランドをサンマルチノ以上の人気のチャンピオンにしたかったんですね。だから「エエ加減な勝ち方ではダメだ。勝てば良いわけではない。強い勝ち方で、どこへ行ってもバックランドは凄いな、と思われなければならない」と言っていたんですね。再度そこで興行を打つときには、ワーッとファンが集まる、バックランドをそんなビッグ・チャンピオンにしたかったんです。マクマホンは、ファイト特派員の取材に、そういう意味でバックランドにも新日にも通達を送ったのだと、答えてくれたんです。
ボブ・バックランド、ブルーノ・サンマルチノ
(I編集長) マクマホンにそう言われれば、そうかなとも思うんです。しかし、もう一つ納得がいかない。新間さんに聞いても「マクマホンの言う通りじゃないの? まあ、釈然としないけどね。他に理由があるのかな?」てな感じだったんです。
ニューヨークにドン・デヌッツイ(=ドン・デヌーチ)という大型のレスラーがおったんですよ。たまたま、ウチの特派員が話をしたところが、デヌッツイは「それは違う」と言うんですね。ボス、すなわちビンス・マクマホンがバックランドに「必ずフォール勝ちをしてこい」と言ったのは、本当はマクマホンがバックランドの首を切りたいんだと。というのは、あの男(バックランド)は人気が無かったんですよ。マジソン・スクェア・ガーデンはなんとか満員にできるんです。しかしそれは息子のビンス・マクマホン・ジュニアが駆けずり回って切符を売って満員にしているのであって、ハッキリ言えば、ピッツバーグとかそういう所へ行くと、とたんに閑古鳥が鳴くわけですよ。ピッツバーグはサンマルチノの本拠地だから、サンマルチノが出ていたときは観客が沸いたんですけどね。サンマルチノが出ないで、バックランドだけがタイトルマッチをやるようになると閑古鳥が鳴いたんです。観客が5割か6割ぐらいしか埋まらない、そんな状態が続いたらしいですよ。だから、ボスは観客動員力を持たない不人気のバックランドの首を切りたがっている、と言うんです。
サンマルチノ、I編集長、デヌッツイ
▼ブルーノ・サンマルチノ
格下の対戦相手に「ありがとう」と言える人格者だった
(I編集長) バックランドはヤッパリ地味だから人気が無かったんですね。あの男は強いんだけども、優等生的で、パフォーマンス力が無いんです。だから人気が出てこない。マジソン・スクェア・ガーデンでやるときには、アンドレとかも出場するんですよ。バックランドの人気じゃ無くて、アンドレとかグラハムとか、ローデス、サンマルチノとかの人気もあってワーッと満員になるんですね。当時サンマルチノは解説とかをやっていましたけど、MSGの試合はクローズドサーキットなんかで見ることができますしね。
ボブ・バックランドの地味なプロレス?
(I編集長) そういう風にデヌッツイが言ったんですよ。ボスはバックランドを首にしたいんだと。確かに説得力がありますね。しかしバックランドが日本に来て猪木にフォール勝ちできるはずが無いですよ、猪木の方が強いんだから。マクマホンとしては、無理な指令を出しておけば、フォール勝ちできずに帰って来ることになるだろう思ったんですね。だからバックランドが帰ってきたときに、「お前は情けない試合しかできなかった。俺が言ったフォール勝ちとか、強い勝ち方ができなかった。だからチャンピオンを交代して貰う」と言うつもりだったんですよ。これがデヌッツイが言うマクマホン指令の真相ですよ。
(I編集長) しかし、この話も僕自身は納得がいかなかったんですよ。いったい本当はどうなっているんだといろいろ考えている状況で、分からないままに、7月27日の日本武道館でこの試合を迎えたんです。1本目はオクトパスホールド・卍固めで猪木がとる、2本目はバックランドがとりかえす、それで時間切れで引き分けて、バックランドとしても「ヤレ、ヤレ」と言うことになるんですよ。これがバックランドの強い勝ち方、力強い防衛だったと言えるかどうか、それは人それぞれの見方ですけどね。とにかく1本はフォールしているんですよね。それで、バックランドも事なきを得たとなるんだけども、ヤッパリ私の気持ちの中では謎が残るんですよ。
猪木vs.バックランドを報じた週刊ファイト(1978年8月8日号)
(I編集長) ウチの記者は、デヌッツイが言ったことが正解だと言ってましたよ。バックランドの試合を追っかけて、現地の会場を全部回っていますからね。マジソン・スクエア・ガーデン以外は客の入りがダメなんだ。こんな不人気のチャンピオンを交代させたいというマクマホンの意向は、その通りだろうと。じゃあ、誰をチャンピオンにするのかですよね。本当はサンマルチノをチャンピオンにしたかったんですよ。しかし、サンマルチノは人気があっても、当時は引退していてカムバックする気が無かったんですよね。説得してもどうしてもウンと言わない。
(I編集長) それで、次に白羽の矢が当たったのが、ダスティ・ローデスですよ。ところがこの人は、言うまでも無くNWAの大御所ですよ。だからこんな人がチャンピオンとして常時出てくれるわけが無い。向こう(NWA)のチャンピオンになるかも知れない人ですからね。それじゃあ、次はビリー・グラハムだとなったんですね。後にその通りにチャンピオンになるんですけどね。グラハムもどちらかというと助っ人というかね、WWWFのリングに定着したがらなかった人なんですよね。どこに行っても人気があって一定のギャラが取れましたからね。そういうことがあったんだけれども、とにかくこの不人気のチャンピオン、ボブ・バックランドではマクマホンが興行的に困ってしまうと言うことは確かだったんです。
週刊ファイトより(1977年11月7日号)
▼マット界舞台裏3月20日号
“アメリカン・ドリーム”ローデスと言えば銀髪を鮮血に染める流血戦
報道とは判断力 朱里REINA木村響子41P 秘蔵イワン・ゴメス発掘 Glory14 新日キックWKBA復活 英国Yokkao8 ダスティ・ローデス プエルトリコWWL~マット界舞台裏3月20日号
(I編集長) 一方、当時猪木がどういった状況だったかというと、体調がドン底だったんですよ。実はサマーファイトシリーズで、試合の採点制というのをやったんですよ。今日はプラス1点とか、マイナス1点とか。そういうことをやられて、このシリーズの来日外人選手だったペドロ・モラレスが怒ったんですよ。そんな点数を付けるようなことをするなら、とことんやるぞ、と猪木を痛めつけたんです。ワンハンドバックブリーカーなんかをガンガンやってね。それで猪木は脊椎を痛めてしまって、最悪の状態だったんですよ。猪木は早々と8月のスケジュールを全部キャンセルしてしまったほどですよ。
猪木vs.モラレスを報じた週刊ファイト(1978年8月1日号)
▼TV放送されなかった幻のNWFヘビー級猪木防衛戦:7・24広島県立体育館
▼[Fightドキュメンタリー劇場⑯] 井上義啓の喫茶店トーク
ハッキリ言えば取材拒否をくらった第一号は私(井上義啓)ですよ。
(I編集長) 猪木が7月のシリーズ中に、8月の仕事は全部キャンセルだ、なんて言うのは珍しいことですよ。天にも地にも一回きりのことだったと思いますよ。そういった体調のまま、27日の猪木はバックランド戦に突入してしまったんですよね。それで試合は1対1で引き分けましたわね。シリーズが終わったときに、モラレスとバックランドにインタビューしたんですが、二人とも猪木の体調が最悪なのを気付かなかったと言うんですね。猪木の体調の話をしたら「ええっ?そうだったの?」といった感じですよ。闘ってみて分からなかったのかと聞いたら、全く分からなかったとビックリしていましたよ。つくづく猪木というのは凄い男だと思いますね。
1980年8月9日シェイ・スタジアム、バックランドとモラレス