[Fightドキュメンタリー劇場⑯]ハッキリ言えば取材拒否をくらった第一号は私(井上義啓)ですよ!

[週刊ファイト11月4日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼[Fightドキュメンタリー劇場⑯] 井上義啓の喫茶店トーク
 ハッキリ言えば取材拒否をくらった第一号は私(井上義啓)ですよ!
 by Favorite Cafe 管理人

 I編集長が新大阪新聞の運動部デスクだった時代、「東京プロレス」旗揚げを大々的に書き立てて、老舗「日本プロレス」の逆鱗に触れてしまった。事実を書いてなんで取材拒否なんだと、強気で放ったらかしにしていた井上デスク。なんと新大阪新聞社ビルの前にヤバい車が。井上デスク(I編集長)は変装して裏口から逃走した。取材拒否でプロレス会場の取材が出来ないため、初来日のモラレスの写真が撮れず、井上デスク(I編集長)は苦肉の策で東スポから拝借・・・・。

■ 闘いのワンダーランド #022(1997.01.03放送)「I編集長の喫茶店トーク」
 1976.05.11 東京体育館
 坂口征二 vs. ペドロ・モラレス / アントニオ猪木 vs. ビクター・リベラ

第3回ワールドリーグ戦、坂口がモラレスを破り初優勝

(I編集長) 皆さん、あけましておめでとうございます。この番組のトークを担当しております、井上義啓でございます。去年ちょっと申し上げましたけども、今年もまあ、自由奔放に話したいことを話すということでつないでいきたいと思っておりますのでよろしくお願いいたします。
(この放送が、1997年新年第一回目の放送)
 今年もこの番組のホスト役と言いますか、そういったものを担当させていただこうと思っていますけども、まぁ、放送されるビデオの試合に関係なく、私が考えております話、本当の意味での「喫茶店トーク」をこの場でさせていただこうと思います。ですから試合に関係のない話になることがございます。たとえば、猪木vs.ルスカ戦、猪木vs.アリ戦は、この番組では流れません。放送の契約の事情がございまして。ですけど、やはりそういった話はしなきゃならないし、私もさせていただきたい。ですから放送される試合に関係なく、そういった話を本当の意味での「喫茶店トーク」として、させていただこうと思っております。

(I編集長) 今日の試合は、第3回ワールドリーグ戦。これは新日本プロレスが行っておりました「ワールドリーグ戦」ですね。これの優勝決定戦です。坂口vs.ペドロ・モラレス、これが優勝決定戦で当たりまして坂口選手が優勝するんですね。

▼[Fightドキュメンタリー劇場⑥] 新日プロ・第1回ワールドリーグ戦
 たいしたメンバーじゃないのに大ヒット!!

[Fightドキュメンタリー劇場⑥]「ワールドリーグ戦」はたいしたメンバーじゃないのに大ヒット!!

坂口征二vs.ペドロ・モラレス

(I編集長) ペドロ・モラレスといえば、私にとっては時代を遡って昭和41年にモラレスが初めて日本に来た時のことにタイムスリップしていくわけです、これ。私にとってのモラレスというのは、今日放送の「第3回ワールドリーグ戦」じゃあございませんで、日プロ時代の「第8回ワールド大リーグ戦」となる訳です。そのお話をさせていただきます。

(I編集長) この年は昭和41年です。昭和41年と言ったら皆さんご存知のように、豊登による「太平洋上の猪木略奪事件」が起こった年ですね。これでもう、プロレス界に激震が走ったわけです。

猪木と豊登

(I編集長) そしてその事件のすぐ後で「第8回ワールド大リーグ戦」の開催になった訳です。この大会で初めてペドロ・モラレスがシュナイダーあたりと日本にやって来ました。この時私はもう「新大阪新聞社」で運動部のデスクをしておりましたから、取材にあたっておったんです。しかし、モラレスの試合は一つも取材しておりません。うちのカメラマンも一枚の写真も撮ってないんです。これはなぜか、これが最初のクエスチョンになりますわな。

(I編集長) これはなぜかと言いますと、新大阪新聞が日本プロレスから取材拒否をくらっておったんですね。ですからハッキリ言えばプロレス記者で取材拒否をくらった第一号は私みたいなもんなんですよ。それが、なぜ取材拒否を食らったかという話になってきます。それは日本プロレスを追放されました豊登がですね、ハワイでトレーニングをしておった猪木のところに行きまして「お前が帰ったところで、馬場がおるんだったらどうしたってナンバーワンにはなれないよ」と。「お前は一生涯ナンバー2なんだから、日本プロレスを離脱して新しい団体を作ろうじゃないか。俺が副将格でサイドに下がるから、寛ちゃん、お前がナンバーワン、それで行こうじゃないか」ということになった訳ですね。それはまあ、みなさんご存知だと思いますよ。そして東京プロレスを旗揚げするんですけども、それをマスコミが嗅ぎつけて、無論私もその話を知って「ジャカスカ、ジャカスカ」書き飛ばしましたわ。

121104WR661104Tsu.jpg 猪木、豊登、斎藤 vs.シモノビッチ、マイヤース、バレンタイン(1966.11.4)

(I編集長) だから「新大阪新聞」だけじゃなくて「東スポ」さんも書いた、「毎夕」も書いた、「新夕刊」も書いたんですけども、それが日本プロレスにしてみたら気に入らない訳ですよね。そういうことを書かれたことによって、観客数が減ったり、色んなことがございまして金銭的なダメージを被ったというのが取材拒否の理由だったんです。

▼妖鬼ジョニー・バレンタインと闘う1966年のアントニオ猪木
 1966年のアントニオ猪木 君は東プロ時代の猪木を見たか!! We Rememberシリーズ第一弾

We Remember 1966年のアントニオ猪木 君は東プロ時代の猪木を見たか!!

(I編集長) だから私が上司から「井上くん、なんか日プロから内容証明付きの書類が来たで」と言われて、何だろうなと開けてみたらそういうことが書いてあるわけですよ。しかしこれ、けしからん話ですよ。私の記事が嘘八百であればですね、これはもう日本プロレスからそう言われるまでもなく、コチラから東京に行って謝ってますよ。

2003年には井上譲二編集長にも通告が

(I編集長) ところが「東京プロレス」が旗揚げしたことは事実なんですからね。そういった事実を書いて、なんで取材拒否をくらわなきゃいけないんだという訳で、私は放ったらかしにしておったんですよね。今申し上げましたように、取材拒否を食らったのは私どもだけじゃございませんで、3社か4社いろいろありました。そこが全部、その新聞社のお偉方とか編集局長とか運動部長とかそういった人たちが日プロに出向きまして、「この度は、申し訳ございませんでした」という詫びを入れて、取材拒否を「チャラ」にしてもらった訳ですよね。新大阪新聞の運動部でも編集局長が私のところに来まして、「皆、こうやって謝ってる。お前は、どうするんだ?」と言うんですね。だから今言ったような事情でね、「オレは謝る気は全然ない」と言いましたね。「あ、そうか。じゃあ好きなようにせいや」ということで、好き勝手に書き続けておったわけですよ。ハッキリ言えば、プロレス、旧プロレスは八百長だと言わんばかりにですね、色んなことを「チクチク、チクチク」と書いたんですよ。

記事はシュート活字でも、取材活動は楽しそう!

(I編集長) 例えば芳の里さん、これが当時は田吾作スタイルで、こんな高い高ゲタを履いて出てましたね。それを試合中はコーナーのところに置いとる訳ですよね。なんかあるとそれを場外乱闘とかで使うんですよ。相手を痛めつけようと思ったら、鼻緒をもって歯の方で「ガツン」と殴るのが当たり前なんですよね、これ。ところがあの人はそうじゃなくて、「クルッ」とひっくり返して、歯の方を持ってですね、太い鼻緒がある方ですよ、これを「ガーン」と相手に叩きつけるんですよね。しかも、こうやって(ぶつけて)「サッ」と引くような形なんですね。だからそこらへんをね、私がチクチク書いたわけですよ。なんで鼻緒を持って「バーン」と殴らないんだと、こんなことをやってね、しかも相手の頭に押し付けて、こう引いてるじゃないかとかね、そういうことを嫌味のようにチクチク書いた訳ですよ。

現役時代の芳の里 日プロの経営を引き継いだ芳の里(左から2人め

(I編集長) ですからその当時、「お前、そんな事書いとったら、「ブスッ」といかれるぞ」と記者仲間から言われてたんですよね。事実、力道山が無くなって、2年ちょっとでしょ、昭和41年といえば。ですからまだまだねぇ、ヤバイ雰囲気があった時代ですよ。そういったことを毎日書くわけですからね、そーりゃたまりませんよ。ある日、社の前に車が停まっていて「おい、なんかヤバイのが二人ほど乗ってるぜ」とか言われてね、「お前をブスッといくんと違うか」とか、そういったこともありましたよ。変装して裏口の方から逃げ出したりですね、もう色んなことをやってましたよ。

出典https://bb-building.net/tatemono/osaka/956.html

(I編集長) だからモラレス初来日には、そんな思い出があるわけですね。ですから先程も申し上げましたように、私は一試合も取材できていないんですよ。それで、写真も一枚も撮ってない。ところがね、やっぱりモラレスは初来日ですので試合の写真が無いとですね、記事が書けない訳なんですよ。

(I編集長) 当時、「東スポ」さんとかね、「レスリングレビュー」とかには、注目選手と言うことで色んな写真が載っておりました。困ってしまった私は、それを引っ張ってきまして、正月早々こんな事を言ったらどうかと思いますけど、無断で借用しておった訳ですよね。そういうことをやってましたよ。まぁ、今だから話せることなんですけども。ですから私はモラレスと聞いたら、非常に苦労をしたこと、まずそれが頭に浮かぶんですよね。

写真を拝借たことも・・・(モラレスの写真は拝借写真では無く自前画像です)

▼TV放送されなかった幻のNWFヘビー級猪木防衛戦

 1978.7.24広島県立体育館 ラテンの魔豹 ペドロ・モラレス戦

[ファイトクラブ]TV放送されなかった幻のNWFヘビー級猪木防衛戦:7・24広島県立体育館

(I編集長) それから30年、この前というか、去年(1996年)の夏に横浜で「力道山メモリアル」という大会が、力道山後援会の主催でありましたわな。

OB会主催 力道山メモリアル(1996年6月30日)

 その時に、「バターッ」と芳の里さんと一緒になったんですよ。そこで逃げるわけにもいかず、まあ、逃げる気持ちは無かったんだけども、偶然会ったんで「ヤア、ヤア」ということになりましたよ。立ち話でしたけど、力道山時代の話とかにもなりまして、その時に日プロ時代には取材拒否をくらったり、色々ありましたねと。しかし、それはもう昔のことだから、もう水に流してくださいよ、とか色んな話をしまして、まあ、芳の里さんも「ウンウンウン」と言って聞いておりましたけどね。そういうことがあったんですよ。

セレモニー (1996年6月30日) 芳の里さん (右・1996年2月)

▼1964年の日本マット界 ヒン死の日プロに2人の救世主が現る

[ファイトクラブ]1964年の日本マット界 ヒン死の日プロに2人の救世主が現る


記事の全文を表示するにはファイトクラブ会員登録が必要です。
会費は月払999円、年払だと2ヶ月分お得な10,000円です。
すでに会員の方はログインして続きをご覧ください。

ログイン