[ファイトクラブ]1964年の日本マット界 ヒン死の日プロに2人の救世主が現る

トップ画像~1964年の日本プロレス、エースだった“怪力”豊登道春
[週刊ファイト8月23日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼1964年の日本マット界 ヒン死の日プロに2人の救世主が現る
 by 井上 譲二
・プロレス史上最強の団体は日本プロレス
・我が世の春を謳歌し続けた日プロにも1度だけ大ピンチがあった
・プロレスの神様は日プロを見捨てなかった
・現役引退後の吉村道明氏は『週刊ファイト』とのインタビューでこう語っている


 プロレス史上最強の団体-それは猪木・新日本プロレスでも馬場・全日本プロレスでもなく、時代に恵まれた日本プロレスである。ただ、我が世の春を謳歌し続けた日プロにも1度だけ大ピンチがあった。大黒柱の力道山が急逝した翌1964年(昭和39年)、プロレスそのものが存亡の危機に直面したのだ。日本プロはこのピンチをどのようにしのいだのか? 同年に起きた主な出来事を振り返ってみよう。


力道山(宣伝用写真)

 ほとんど力道山ひとりの人気によって支えられていた日本プロレスの興行とテレビ中継。生前の力道山もそんな現状を懸念し、馬場正平、マンモス鈴木、芳の里、大木金太郎の4人を米国武者修行に送り出したものの、力道山に代わるスーパースターを輩出する前に力道山自身がヤクザに刺されて急死してしまった。

 この危機的な状況を80年代初めの新日プロに置き換えると、アントニオ猪木、坂口征ニ、藤波辰爾、タイガーマスク、長州力の5人が同時に消え去ったようなもの。いや、日プロにとってはそれ以上の大打撃だった。

 もうプロレスは終わった-各方面からそんな絶望的な声が上がった。事実、日本テレビのプロレス中継を打ち切られ、観客動員数も激減した日プロが崩壊するという最悪のシナリオは十分考えられた。

 しかし、プロレスの神様は日プロを見捨てなかった。2人の救世主が現れたのだ。

 1人は三菱電機社長・大久保謙氏。財界の実力者でもある大久保氏が「力さんが亡くなっても弊社はプロレス中継のスポンサーから降りない」と宣言すると日テレは継続せざる得なかったという。


1964年12月4日に日本で行われたWWA世界ヘビー級王座戦で王者ザ・デストロイヤーから挑戦者、豊登が王座を奪った。しかし、WWAは王座移動を認めず、ザ・デストロイヤーはその後もWWA世界ヘビー級王者として活動。


王座を奪われて抗議するザ・デストロイヤー

 もう1人はジャイアント馬場である。64年2月頃、2度目の米国武者修行を行っていた馬場は、新生・日プロから絶縁状を叩きつけられたグレート東郷に高額の契約金と年俸を提示されながら米マット定着を拒否。しかも、わずか3週間に3大世界タイトル(NWA、WWWF、WWA)に挑戦するなど64年3月の凱旋前に米マットで大ブレークしていた。

 
1965年11月、リキパレス大会でジ・アサシンズの攻撃を受けるジャイアント馬場

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