[Fightドキュメンタリー劇場⑥]「ワールドリーグ戦」はたいしたメンバーじゃないのに大ヒット!!

[週刊ファイト8月26日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼[Fightドキュメンタリー劇場⑥]井上義啓の喫茶店トーク
「ワールドリーグ戦」はたいしたメンバーじゃないのに大ヒット!!
 by Favorite Cafe 管理人

 「ワールド大リーグ戦」は1959年から1972年まで合計14回開催された日本プロレスのシングルマッチのリーグ戦。1973年は日本プロレスが活動停止したことから、開催されていない。そして翌年、このシリーズは前年のアントニオ猪木のNWFヘビー級選手権奪取から、ストロング小林との日本人対決で勢いに乗る新日本プロレスが仕掛けた一大イベントだった。
 全日本プロレスは前年にNWAに加盟し、NWAチャンピオン、ジャック・ブリスコや前王者レイス、元王者ドリーなどを招聘して外人ルートの強力さを誇示していた。一方、新日本プロレスは「ワールドリーグ戦」と銘打ったものの、看板外人選手はキラー・カール・クラップ。I編集長曰く「たいしたメンバーじゃないですよ」。
 それでもこのシリーズは大ヒット。そのワケとは?

■ 闘いのワンダーランド #007 (1996.12.10放送)
 1974.05.08 東京体育館
  第1回ワールドリーグ戦三つ巴優勝決勝戦
  坂口征二 vs. キラー・カール・クラップ
  アントニオ猪木 vs. 坂口征二
  アントニオ猪木 vs. キラー・カール・クラップ

第11回ワールド大リーグ戦パンフレット(1969年 日本プロレス)

(I編集長) これはやっぱり「ワールド大リーグ戦」というのがそもそもね、「大」が付いておったんですよ。この時は「大」を抜いたんでしょうけどね。猪木は、力道山・馬場に対抗する意味もあったんだろうけれども、やっぱり力道山先生がね、自分のステータスみたいな形で拡げたこれを引き継ぐんだというようなことは、いつも言ってましたよ。猪木も日本プロレス時代に第11回のワールドリーグ戦に優勝してますからね。そういった資格はあるんだけれども、この案は新間さんあたりから出た案じゃないですか? 僕はそう思いますよ。猪木はやっぱり力道山の名前をしょっちゅう口にしてましたからね。自分達もそういった良い試合をやるんだというようなことを言っとったけれども。

(I編集長) これは力道山がね、ちょっとプロレス人気が落ちてきた時に、昭和34年ですか、岩田さんの発案もあったんですけども。(岩田さんっていうのは)日本プロレスの営業のボスみたいな人ですね。総括責任者ですよね。おたく(FIGHTING TV SAMURAI)の力道山特集ですか、今週流れている、それでもちょっとお会いしましたしね。それで懐かしい顔が見られると思いますよ、ファンにとってもね。ファンも知っておられるでしょう、岩田さんを、有名な人だから。その方なんかの発案ですね、やったという話ですよ。
 私が言いたいのは小さなことだけどね、ワールドリーグ戦、ワールドリーグ戦と言ってるけども、ホントは「大」の字が入っておったんですよ。ワールド「大」リーグ戦というようにね。だから本当は「大リーグ戦」と言ってほしいと、当時一所懸命取材した古手(古株)の私達にすればね、やっぱり「大リーグ戦」と言ってもらわんことにはね、いかんと。(しかし)今回は猪木の方は「大」の字が入ってませんよ、これ。

(I編集長) だからその「ワールド大リーグ戦」の盛況を踏まえて、新日本プロレスでもやろうと。これは馬場さんに対する一つの「挑戦」的なところもあったでしょうね。やっぱり力道山の宝というかね遺産というのは、馬場さんだけじゃない、こっちだって弟子だというね。
 さらにその翌年の力道山13回忌の追悼試合で、昭和50年12月17日ね、その時に例の猪木vs.ロビンソン戦というのがあったんですよ。それが決まっておったから武道館の追善興行の方には参加できなかったんですね。それで(力道山の)恵子夫人あたりが怒ってですね、「猪木は義理をわきまえていない」ということで、もう弟子とは認めないと言ったんですよね。だから(後には)そういった事もあったんですが、なおさら意地になるところが既にこの頃からあったんじゃないですか? 当時から力道山の直系は馬場だというようなね、すでにそういった雰囲気がありましたからね。だからそこらへんがあって、新日だって力道山を受け継いでいるんだという事でこの大会を開催したんですよね。

 
猪木vs.ロビンソン(1975年)
力道山の直系は馬場?

(I編集長) だからハッキリ言って、力道山の遺産を受け継いでうまいこと持っていったというね。ワールドリーグ戦というとね、やはり日プロ時代にも猪木がマルコフを破って優勝してますしね。ファンにそういったイメージがあるんですよ。やっぱりワールドリーグ戦と猪木は無縁じゃないというね、つながりがそこに出てきてますからね。それをそのまま引き継いで、ここに流れ込んだという感じがありますな。

ゴリラ・モンスーン戦(1969年)
猪木優勝(1969年)

▼秘蔵写真で綴る浪速のアントニオ猪木#6
 

[ファイトクラブ]秘蔵写真で綴る浪速のアントニオ猪木#6【1969年4・16大阪Gモンスーン戦】

1969年4・16大阪Gモンスーン戦

(I編集長) ハッキリ言って第1回大会としてはね、クラップとかそういった色んなのがでてきましたけどね、スタージャックとかね、コシロ・バジリとか。いろいろ名前を今思い出しているところなんだけどね、そういった連中が出てきましたけどね。たいしたメンバーじゃないですよ。なぜ大したメンバーじゃないのに、興行的に受けたかなんですね、これ。ものすごく儲かったシリーズなんですよ。だから猪木はすごく機嫌よかったですよ。
 最後は猪木がクラップに勝って優勝したんですけどもね。クラップというのは「青銅の爪」とか言うて、そんなにね僕自身、買っていたレスラーでも無かったし、印象にも残ってないですよ、ハッキリ言って。

坂口vs.クラップ(右1976年、左1977年)

 クラップなんていうのはハッキリ言って「なんだ?」ということになるんだよね。大柄な男でね、やっぱり「青銅の爪」だったからね、(クロー攻撃を)やりましたけどもね。フリッツ・フォン・エリックとかそういったものの二番煎じだし、やっぱり僕らにしてみたら二流だなという感じしかしなかったですよ。それをね、あれだけの盛況に持ってきた猪木のプロモーターとしての手腕、これをやっぱり買うべきでしょ。

1980~1981年には、国際プロレスにも参戦したキラー・カール・クラップ
 
(I編集長) リングに登場して絵になり銭になったという数少ないレスラーがフリッツ・フォン・エリックだったし、デストロイヤーもね、初めはそうだったんですよ。あの男が出てきてね、腕組みしてね、リング中央に白マスクで「バーン」と立った時にね、そおーりゃぁ凄かったですよ、迫力が。
 
フリッツ・フォン・エリック ザ・デストロイヤー

 だからああいった迫力をね、そのあとのお笑い番組で削ってしまったというのがね、僕らにしてみたら非常に残念なんですよ。だからレスラーというのはやっぱり最後まで強面でいてほしいというね。その点フリッツ・フォン・エリックっていうのはもう、最後まで「鉄の爪」ということで押し通しましたからね。そういった意味では凄いですよ、あのエリックは。

▼ファイト大入試を経て再開! 『ファイト流クロスワードパズル11』

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▼追悼:ザ・デストロイヤー

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