1977年6月ピーター・メイビアとマクマホン・シニア@MSG
[週刊ファイト4月5日号]収録 [ファイトクラブ]公開中
▼井上譲二の『週刊ファイト』メモリアル第37回
故ビンス・マクマホンSr.氏 余裕を感じさせた太っ腹プロモーター
・NWA-AWA-WWWF 先頭を切って融和政策を推し進める
・新日本プロレスとの提携にも余裕
・どうぞ、MSGのリングを自由に使って下さい
・スタッフを解雇しないプロモーター
自らの野望を達成すべく無差別的に全米のプロモーターを潰しにかかったビンス・マクマホンJr.氏。対照的に父親のマクマホンSr.氏は融和政策を貫き、対日本マットにしても極めてリーズナブルな契約金で新日本プロレスに傘下レスラーを派遣した。かつて私が取材した中にマクマホンSr.氏ほど余裕を感じさせたプロモーターはいない。
ビンス・マクマホンSr.氏と井上譲二週刊ファイト特派員(当時)、アントニオ猪木と(右)
1980年8・9シェイ・スタジアム:試合を見つめるビンス・マクマホンSR(中央)、トニー・アトラス、右上にはペドロ・モラレス。後列左からドン・デヌッチー、グレッグ・ガニア、アントニオ猪木
photo by タダシ☆タナカ
米マットの3大勢力と言われるNWA、WWWF、AWAは互いに敵対関係にある―。
新米記者時代の私はそのように認識していたが、NY特派員に就任した1977年にはもめ事がなくなり交流が始まりかけていた。
先頭きって融和政策を推し進めたのはビンス・マクマホンSr.氏(WWWF代表)だ。
NWAの有力メンバーであるエディ・グラハム氏(フロリダ地区)、ジム・クロケットJr.氏(ミッドアトランティック地区)、フランク・タニー氏(カナダ・トロント)の3人に加え、AWAのバーン・ガニア氏とも結び付いたマクマホンSr.氏。70年代終盤にフロリダ州マイアミビーチでWWWF王者vs.NWA王者、トロントでのWWWF王者vs.AWA王者のダブル世界タイトル戦が実現したのはその賜物であった。
しかしマクマホンSr.氏は貸しを作った相手にニューヨーク・MSGでのダブル世界戦開催を要求しなかった。ワールドの文字が付くNWAやAWAのタイトル戦をWWWFのファンに見せたくなかったためではない。単に観客動員にもマッチメークにも困っていなかっただけである。
ストロング小林と談笑するビンス・マクマホンSr.夫妻