37年前の6月2日に起きた『猪木失神事件』と『列伝』の関係!?

「俺にロックのギターを捨てさせた男よ、いずれアンタもこうなる運命だぜ!」

 1979年12月17日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデン(MSG)に突如出現した大型新人のハルク・ホーガンはデビュー戦で、次期NWA世界ヘビー級チャンピオン候補のテッド・デビアスを11分12秒、ベアハッグにより豪快に勝利を収めた。
 気絶したデビアスをマットに放り投げ、ホーガンは冒頭のセリフを吐いたのである。

 それから3年半後の1983年6月2日、東京・蔵前国技館での第1回IWGP決勝戦で、ハルク・ホーガンは『俺にロックのギターを捨てさせた男』を、必殺のアックス・ボンバーで病院送りにした……。

▼ハーリー・レイスとザ・ファンクス、NWAベルトを巡る攻防の舞台裏

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ハルク・ホーガンは猪木vs.アリを見てプロレス入りを決意した!?

 今から37年前の1983年6月2日、ハルク・ホーガンは上記のように第1回IWGPで優勝、初代チャンピオンとなった。当時のIWGPは、単なる一タイトルとなった現在と違って、世界中からレスラーを集めてリーグ戦を行い、優勝者を真の世界王者と認め、全世界のチャンピオン・ベルトを統一するという壮大な計画だったのである。
 ホーガンと優勝を争ったのはアントニオ猪木。猪木が優勝して世界を統一すると思われていたが、ホーガンのアックス・ボンバーにより猪木がまさかの失神KO負け、病院送りになってプロレス界のみならず世間は大騒ぎ。普段はプロレスなど無視している一般紙でも報道された。
 実は、失神したのは猪木の自作自演で、夜中に病院からコッソリ抜け出し、それを知った坂口征二が『人間不信』と書いた紙を会社に残して失踪した、などというエピソードは散々語り尽くされている感があるが、その真相については後に述べることにする。

 冒頭のセリフ、『俺にロックのギターを捨てさせた男』とは猪木のこと。つまり、プロレス入り前はロックバンドで活動していたホーガンが、猪木を見てレスラーになろうと決意した訳である。
 と言っても、これは漫画『プロレススーパースター列伝』(原作:梶原一騎、作画:原田久仁信)の『超人一番!ハルク・ホーガン』編での話。ノンフィクションと銘打ちながら脚色が多い、というよりほとんどが脚色とも言われる『列伝』、その内容はどこまで本当なのだろうか?

▼ハルク・ホーガンがプロレス入りしたのはアントニオ猪木がキッカケだった!?

『列伝』によると、ホーガンの父親はプロレス・ファンで、よく父親にプロレス観戦へ連れて行かれたが、少年時代のホーガンは「プロレスはウソっぽい」と興味を示さなかった。
 ホーガンが崇拝していたのは『ウソっぽくない』ボクシングの王者であるモハメド・アリで、ヘビー級のボクサーを目指してボクシング・ジムを訪ねるも「ボクシングでは体が大き過ぎると成功しない、プロレスの方が向いてるよ」と言われて「冗談じゃないッ、あんなもの!」とホーガンは激昂し、結局プロボクサーへの道は断念した。

 ボクサーを諦めたホーガンは、元々好きだったロック・ミュージシャンへの道へ歩み始める。仲間とバンドを組み、リード・ギタリストとして活躍した。
 ところが1976年6月26日、ライブ後にビア・ガーデンでバンド仲間とテレビを見ていると、ホーガンにとって神にも等しかったモハメド・アリが、なんと『ウソっぽいプロレス屋ふぜい』である日本のアントニオ猪木と異種格闘技戦を行っているではないか!
 しかも、猪木はアリのパンチを絶対にもらわずに済むという、寝ながら闘う作戦で、さらにローキックでアリを追い込んだ。バンド仲間は「ウ~ン! 考えたものだな、イノキって男。これがレフェリーなし、場外なしのストリート・ファイトなら、今つかまった時点でアリの完敗だったぜ」と呟く。この意見を、ホーガンも認めざるを得なかった(これらの件に関しては後述)。

「俺が最強と信じたアリを、ただメンツを守るのに必死で逃げ回るデクノボーに変えてしまった、ジャパニーズのアントニオ・イノキ!!」。試合は引き分けだったが、その後のアリは病院送りになったと聞き、ホーガンは打倒アントニオ猪木を目指して、プロレスラーになったという。
『列伝』の中の『アントニオ猪木(談)』というコーナーでは「いささか出来過ぎの話でテレくさいが、ホーガン自身が告白した実話!!」と猪木は語っている。

▼モハメド・アリvs.アントニオ猪木が、ハルク・ホーガンというプロレスラーを生んだ!?

ハルク・ホーガン急成長の陰にスタン・ハンセンあり?

 実際のところ、ハルク・ホーガンがプロレスを『ウソっぽい』と嫌っていたというのはウソ。何しろ子供の頃はダスティ・ローデスに憧れていたというのだから、バリバリのプロレス・ファンである。まあローデスだって、ボクサーばりのジャブが得意技だったが……。
 モハメド・アリのことが好きだったのは事実とはいえ、それでもボクサーを目指したわけではない。むしろ子供の頃は野球に熱中していた。あの体だからパワー抜群だが、サードからファーストへの送球の際に腕を痛めてしまい、メジャー・リーガーへの道は諦めたという。

 バンド仲間と猪木vs.アリを見ていて、プロレス入りを決意したというのももちろんウソだ。ロックバンドのギタリストだったというのは、半分ホント。ただ、実際にはベーシストとして活動していた。

▼ハルク・ホーガンが憧れていたダスティ・ローデス(右はタリー・ブランチャード)(c)Mike Lano

 さて『列伝』に話を戻すと、打倒・猪木を誓ったホーガンに、超大物のフレッド・ブラッシーがマネージャーに付き、ニューヨークでプロレス・デビュー。前述のようにテッド・デビアスを血祭りに上げたのを皮切りに、なんと26連勝を記録した(後述)。
 ところが、ホーガンがリングから控室に戻ろうとすると、部屋の中から先輩レスラーたちの陰口が聞こえてくる。ホーガンなんて所詮ラッキー野郎、万一あの男がいればイチコロさ、と。
 その陰口を立ち聞きしていたホーガンは「“あの男”とはいったい誰なんだ!?」と激昂する。

 先輩レスラー連中に代わって答えたのは、1人の小柄な東洋人だった。「あの男とはスタン・ハンセンだよ」と小柄な男は言う。ハンセンのことならホーガンも知っており、ブルーノ・サンマルチノに重傷を負わせたことでプロモーターに嫌われ、ニューヨークを追放されている(後述)。
「ハンセンがニューヨークにいたら、キミの26連勝はあったかな?」と問う小柄な男に、ホーガンは「あったかも知れんが、なかったかも知れん……。ハンセンの馬力は凄いッ! 必殺ウエスタン・ラリアートの威力も!」と反論できなかった。

「キミは正直だ、ホーガンくん。単なる強がり屋じゃない。さすが猪木の首を狙うだけの男だ!」
「な、なぜそれを!? あ、あなたは何者だッ?」
「初めまして、アントニオ猪木のマネージャー、新間寿です」
 なんと、小柄な男は『プロレス過激な仕掛人』新間寿氏だった。さらにホーガンは、新間氏にハンセンの日本での近況を聞き出す。新間氏によると、いつも猪木といい勝負をしながら、ハンセンの直線的なファイトでは技もケンカも超一流の猪木には通用せず、逆転負けが多いという。

 こうしてはおれぬと、ホーガンは焦った。ホーガンも直線的なファイトで、あのハンセンですら猪木に通用しないとなると、今のままではとても猪木には勝てないと悟ったのである。
 そこで、ホーガンはニューヨークでのスターの座を捨て、フロリダに飛んで猪木のことをよく知る日本人のヒロ・マツダに弟子入りした(後述)。

▼ハルク・ホーガンはスタン・ハンセンとの比較で、アントニオ猪木の凄さを知った!?
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 ニューヨークで26連勝の実績があり、しかも体格ではマツダを圧倒しているホーガンだったが、スパーリングではマツダに全く敵わなかった。パワーに頼り過ぎたファイトをしていたため、遂には肩を脱臼させられてしまう。
 しかし、マツダを通して猪木流のエッセンスを吸収したホーガンは、プロレス開眼した。

MSGデビュー戦は本当だが、時系列がメチャクチャ

 まず『列伝』では、ホーガンがプロレス・デビューしていきなり26連勝したことになっているが、これは有り得ない。日本で言えば元横綱の北尾光司のように他の格闘技で実績充分の選手ならともかく、プロレス入り前に何の実績もなく有名でもないホーガンが、いきなり破竹の連勝をするなどあるわけがないのだ。
 また『列伝』では、ニューヨーク26連勝の後に、ヒロ・マツダの弟子になっているが、これも違う。しかも、マツダに弟子入りした理由が、猪木のことをよく知っているから、ということもウソである。ちなみに、ハンセンがニューヨークを追放になったというのもウソ。サンマルチノの負傷欠場により、ハンセンがニューヨーク・マットに開いた穴を埋める必要があったのだ。

 ホーガンがヒロ・マツダのジムに入門したのは事実だが、それはプロレス・デビュー前のこと。つまり、時系列が逆である。ただし、当時ド素人のホーガンがマツダには全く通用しなかったのは本当だ。実際にはマツダに肩を脱臼させられたのではく、脚の骨を折られたようだが。
 ホーガンがマツダに弟子入りした理由は簡単で、当時のホーガンはマツダの本拠地であるフロリダに住んでいたから。それもエディ・グラハムの息子のマイク・グラハムに紹介されてのことである。猪木は全く関係ない。
 ちなみに、マツダにコーチを受けていた頃までのホーガンは、プロレスを真剣勝負だと思っていた。プロレスの真実を知らされるのはデビュー前、エディ・グラハムからである。そのことにショックを受けたホーガンが、少年時代に『プロレスはウソっぽい』と思うわけがないだろう。

 ヒロ・マツダの元で修業を積んだホーガンだったが、いきなりハルク・ホーガンとしてニューヨークで華々しくデビューしたわけではない。
 ホーガンのプロレス・デビューはスーパー・デストロイヤーというリング・ネームのマスクマンだった。しかし、サッパリ売れずに素顔で再デビューする。テリー・ボールダー、スターリング・ゴールデンなどと名前を変えるが、それでもパッとしない。この頃のホーガンは、真剣に商売替えを検討し、実際にタンパ港で肉体労働を始め、プロレスから足を洗おうとした。

 しかし、テリー・ファンクからWWF(現:WWE)のビンス・マクマホン・シニアを紹介され、ニューヨークでリング・ネームをハルク・ホーガンに換えて再出発。
 MSGでのデビュー戦で、WWFとの契約終了で最後だったテッド・デビアスをベアハッグで葬ったというのは本当だ。冒頭に記した勝負タイムも事実である。他の部分はデタラメばかりの『列伝』だが、こういうホントのことも混ざっている。

ホーガンのMSGデビュー戦、猪木もMSGで試合をしていた!

『列伝』によると、新日本プロレスの役員会議で、新間寿氏が次期シリーズに呼ぶ外人レスラーとして、日本ではまだ無名だったハルク・ホーガンを推した。
「ああ、いつも新間が言う、この猪木を倒したい一心でプロレス入りしたという男か。俺はまだ見たことがないが、とんだビッグマウス(ホラ吹き)かも知れんぞ」
 と、社長のアントニオ猪木は半信半疑の様子。しかし副社長の坂口征二が「面白そうじゃないの……。ものは試し、呼んでみるか」と新間氏に助け舟を出した。
「呼ぶのでしたら、現在ホーガンはフロリダのヒロ・マツダ道場にいるので、連絡は取りやすいです、社長!」
「なにッ、マツダさんのところに? マツダ道場の名うてのスパルタ特訓に耐えとるのなら本物だろう。よしッ、決定だ、呼べ!」
 猪木も了承し、ハルク・ホーガンの初来日が決まった。

 この記述のどこが事実と違うのか。まず、ホーガン初来日の時は既にニューヨークにいたので、フロリダのマツダ道場にいる訳がない。
 そして前述した1979年12月17日のテッド・デビアス戦、この日は猪木もMSGで試合をしていたのだ。さらに、坂口も長州力とタッグを組んで、MSGマットに上がっている。
 つまり猪木や坂口は、この時点でホーガンとニアミスしていたわけだ。もちろん、自分たちの試合に集中していて、ホーガンの試合は見ていなかった可能性も高いのだが。

▼1979年12月17日、アントニオ猪木はMSGでハッサン・アラブ(アイアン・シーク)と対戦

 それから3年半後、『ホーガンにロックのギターを捨てさせた男』たるアントニオ猪木が、本当にテッド・デビアスのように、ハルク・ホーガンの手によって葬られた。と言っても、『列伝』では『アントニオ猪木失神事件』までは描かれてなかったが。

 一つ、『列伝』のホーガン編で描かれていた、事実にほぼ忠実なシーンを紹介しよう。ホーガンは、AWA世界ヘビー級チャンピオンのニック・ボックウィンクルと、悪徳マネージャーだったボビー・ヒーナンとのタッグ・チームと1対2のハンディキャップ・マッチを行って勝利した、と『列伝』で描かれていたが、試合内容が違うとはいえ本当だったのだ。

▼追悼part2 ボビー・ヒーナン、ハルク・ホーガンにハンディキャップ・マッチを挑む!

[ファイトクラブ]追悼part2 ボビー・ヒーナン、ハルク・ホーガンにハンディキャップ・マッチを挑む!

 AWAでブレイクしたホーガンだったが、引き抜きで再びWWFマットに上がり、WWFの全米侵攻と共に大スターへの道を歩んで行く。『猪木失神事件』から半年後のことだった。

37年前の『猪木失神事件』の真相が、これを読めば明らかになる

 それでは、今から37年前に起きた第1回IWGP決勝での『アントニオ猪木失神事件』について。
 前述したとおり、この件に関しては色々なところで語られているが、いずれも表面的な解釈ばかりだ。したがって、物事の本質を捉えた検証はほとんどない。

 唯一、事件の核心を突いているのが本誌である。この件を点で見ようとしても正解には辿り着けない。大事件というのは、必ず線で繋がっているものだ。
 たとえば、この『アントニオ猪木失神事件』は、普段はプロレスのことを報道しない一般紙でも社会面に載ったほどの大事件だが、当時の新聞を見ると週刊誌の広告では『アントニオ猪木監禁事件』が掲載されている。梶原一騎氏らが、猪木や新間寿氏を監禁したという事件だ。

 梶原氏と言えば、本稿でも紹介している『列伝』の原作者でもある。この漫画では前述のように『アントニオ猪木(談)』というコーナーがあったのだが、上記に書いている「いささか出来過ぎの話でテレくさいが、ホーガン自身が告白した実話!」というのは大ウソと判るのだから、実際には梶原氏が猪木にコメントを取ることはほとんどなかったのだろう。
 猪木自身は監禁事件の後に「梶原とは一緒にメシも食ったことがない。立ち話程度でね」と語っているぐらいだ。結局、同時期に起こしていた飯島利和氏(当時『月刊少年マガジン』副編集長)に対する傷害事件により梶原氏は逮捕され、『列伝』は打ち切りになっている。
 実は、『アントニオ猪木監禁事件』と『アントニオ猪木失神事件』は独立しているわけではなく、1本の線で繋がっているのだ。他にも繋がっている事柄はたくさんある。

 だが『アントニオ猪木失神事件』の真相はそれだけではなく、とても本稿では書き切れないので、本誌の電子書籍『1983年のアントニオ猪木~We Remember人間不信』を読んでいただくしかない。
 たとえば、坂口征二が書いたという『人間不信』の本当の意味とか、今までどんな書物にも書かれていなかった事件の真実が、この電子書籍を読むと明らかになる。精読すれば、プロレス界の天動説が地動説に変わる瞬間を目の当たりにするだろう。

▼1983年のアントニオ猪木~We Remember人間不信

1983年のアントニオ猪木~We Remember人間不信

 合わせて、『プロレス芸術とは 徹底検証! 猪木vsアリ戦の”裏”2009&2016-40周年』も読んでおきたい。
 アントニオ猪木vs.モハメド・アリは真剣勝負か『ケツ決め』だったのか、猪木はがんじがらめのルールに縛れていたというのは本当か、など余すところなく検証されている。

▼プロレス芸術とは 徹底検証! 猪木vsアリ戦の”裏”2009&2016-40周年

プロレス芸術とは 徹底検証! 猪木vsアリ戦の”裏”2009&2016-40周年

▼アントニオ猪木、井上譲二記者、ハルク・ホーガン


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’20年06月04日号木村花追悼特集-悲嘆と教訓 AEW頂点Double-Nothing Hレイス再検証