トップ画像 猪木&新間(78年11月)西ドイツの鉄道駅にて
[週刊ファイト12月20日号]収録 [ファイトクラブ]公開中
▼井上譲二の『週刊ファイト』メモリアル第53回
猪木から始まり猪木で終わった新間寿氏のプロレス人生
・アントニオ猪木と共にプロレスブームを巻き起こした新間寿氏
・プロレス界を面白くさせたのは事実
・一方で猪木にとって新間さんはうっとうしい存在になりつつあった
・新間さんと猪木は仕事上の夫婦のような関係だったのだ
81年5月2日LAのホテル・ニューオータニでの新間氏、ブッチャーの代理人を交えての新日参戦契約調印
“過激な仕掛人”となってアントニオ猪木と共にプロレスブームを巻き起こした新間寿氏。もし、新日クーデター未遂事件(83年8月)で詰め腹を切らされていなかったら、その後のプロレス史はまったく違ったものになっていたかもしれない―――そう思わせるほどの影響力と政治力を持つ実力者だった。
『週刊ファイト』の紙面が最もエキサイティングだったのも新間氏の新日プロ在籍時である。
新間さんとは2年前の夏に東京で会って以来、話をしていないが、先のリアル・ジャパン12・6後楽園で行われたダイナマイト・キッドさんの追悼セレモニーで佐山聡氏の横にいる写真を見て改めて「この人、プロレスが好きなんだな」と思った。
アントニオ猪木のマネージャー兼営業本部長として新日プロで采配を振るっていた頃の新間さんには批判の声も少なくなかったが、彼がプロレス界を面白くさせたのは事実。これだけは誰も否定できないだろう。
73年、新日プロに途中入社した新間氏がクーデターにより同団体から去ったのは10年後の83年8月。だが、絶大な発言力を持つようになったのは猪木vs.アリが行われた76年頃だから“新間政権”が続いたのは実質7年。いま思うとあまりにも短か過ぎた。本人にしてみれば、世界のベルト統一をウタイ文句に推し進めたIWGPの構想も軌道に乗り「さぁ、これからだ」という時にバッサリ背後から斬りつけられた。
83年8月に起きた「新日クーデター未遂事件」についてこれまでに専門紙(誌)、プロレスムック本などで書き尽くされているので経緯や結末は割愛させて頂く。ただ、ひとつハッキリしているのは、新日プロ旗揚げ時に№2だった山本小鉄氏が新間さんや坂口征二氏の加入によって窓際に追いやられていなければ、あの事件は起きなかったこと。従って猪木社長の個人事業『アントン・ハイセル』への新日マネーの流用はクーデター派の口実にすぎない。