「くたばりなッ、チャンピオン!! あんたがチャンピオンと呼ばれるのは今夜限りだぜ!」
「パパの予言どおりだッ……。ハーリー・レイスって野郎、ただの悪役じゃなかったぜ!」
「世界挑戦のチャンスを掴むまで、じっと悪役で我慢してやがったのさ! 見ろッ! 奴の腕のクジャクと荒ワシのイレズミを……。美しいクジャクは正統派レスラーを、荒ワシは悪役を現しとる! 技のない悪役と見くびったのが、我がファンク一家の失敗……、ウヌッ!」
今から47年前の1973年5月24日、ミズーリ州カンザスシティでNWA世界ヘビー級チャンピオンだったドリー・ファンク・ジュニア(以下、ドリー)にハーリー・レイスが挑戦、レイスが勝って新チャンピオンとなった。ドリーは4年以上、保持し続けた同王座から転落したのである。
この僅か半月後、ドリーの父親であるドリー・ファンク・シニア(以下、シニア)は、息子の王座転落にショックを受けたせいか、残念パーティー中に急死した。
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臨場感に溢れていた『プロレススーパースター列伝』
冒頭のセリフは漫画『プロレススーパースター列伝』(原作:梶原一騎、作画:原田久仁信)で描かれているシーンだ。『列伝』は、数々の実在したレスラーのプロレス人生を描いたドキュメント作品(!)である。その第1回を飾ったのは『父の執念!ザ・ファンクス』だった(単行本の少年サンデー・コミックスでは4巻途中~5巻途中まで)。
最初の「くたばりなッ、チャンピオン!!(以下略)」はレイス、次の「パパの予言どおりだッ……。(以下略)」はドリーの弟でセコンドに付いていたテリー・ファンク(以下、テリー)、最後の「世界挑戦のチャンスを掴むまで、じっと悪役で我慢してやがったのさ!(以下略)」はやはりセコンドだったシニアのセリフだ。なお、『列伝』では『ハリー・レイス』となっているが、本稿では『ハーリー・レイス』と表記する。
ノンフィクションと謳っているとはいえ、『列伝』は大部分がウソで塗り固められたファンタジー作品だ。たとえば『列伝』では、シニアの若い頃はプロボクサーを目指すアマチュア・ボクサーだったとあるが、実際にはシニアはボクシング経験がない。
『列伝』はアントニオ猪木が協力しており、『アントニオ猪木(談)』というコーナーでは、
「(シニアは)特に若い頃、ボクシングのプロを目指した強烈なパンチがその主力武器だった。私も晩年のシニアのパンチをもらい、一瞬めまいを起こした体験がある」
と猪木が語ったことになっているが、あれは何だったのだろう? 本当に猪木からコメントを取っていたわけではなく、猪木が『列伝』に名前を貸していただけと思われる。
しかし、このタイトルマッチが行われた日時や場所には間違いがないし、この約半月後(正確には10日後の6月3日)にシニアがパーティー中に急死したことも本当だ。時々、こういう事実も描かれているから『列伝』は油断ならない。当時の読者(筆者を含む)は、『列伝』での出来事を信用していた。
実はシニアが急死した時、ジャンボ鶴田がそのパーティーに参加している。当時はまだ新人の鶴田は、テキサス州アマリロのファンク道場でプロレス修行中だった。原作者の梶原一騎氏は、鶴田からその時の様子を聞いたのだろう。ちなみに梶原氏は『ジャンボ最強説』を唱えていた。
とはいえ、冒頭のセリフは有り得ない。劇画なのだから仕方がないが、「世界挑戦のチャンスを掴むまで、じっと悪役で我慢してやがったのさ!」はないだろう。それでも当時の筆者は「レイスはなんて策士なんだ!」と信じ込んでいたのである。
しかし、テリーは「パパの予言どおりだッ……」と言っているのだから、シニアは試合前からレイスのことが判っていたんじゃないのか? という疑問も持っていた(笑)。
テリー・ファンクの先生だったハーリー・レイス
なぜ冒頭のセリフが有り得ないのか。「ケツが決まってるのに『我がファンク一家の失敗……』なんて言うはずがないじゃないか」という意見もあろうが、それを言っちゃあ身もフタもない。
レイスはまだ20歳過ぎの1964年頃、つまりドリーからNWA王座を奪う約10年前に、アマリロを主戦場としていたのだ。当然、同地のプロモーターはシニアである。
当時、ドリーはデビューしてまだ1年足らず、テリーはデビュー前だった。レイスは、ドリーやテリーのスパーリング・パートナーを務めていたのだ。年齢ではドリーがレイスよりも年上だが、プロレス界ではレイスの方が先輩だったのである。少なくともデビューしていないテリーにとって、レイスは先生だったようなものだ。
だからテリーが「ハーリー・レイスって野郎、ただの悪役じゃなかったぜ!」などと言う訳がない。デビュー前にプロレスを教わった相手なのだから。しかもこの頃のレイスは、ドリーはもちろん、まだ現役だったシニアとも試合をしている。お互いに知り尽くした仲だったわけだ。
▼デビュー前はハーリー・レイスとスパーリングをしていたテリー・ファンク
その後のレイスは、バーン・ガニアに誘われてAWAでファイトしていたため、ずっとアマリロにいたわけではないのだが、1969年にはアマリロでブッカーを務めている。当然、シニアに命じられてのことだ。
レイスがアマリロでブッキングを担当した理由はドリーにあった。この年の2月11日にドリーはフロリダ州タンパでジン・キニスキーを破り、NWA王座を初戴冠する。NWA王者になれば全米をサーキットしなければならない。つまり、ドリーがアマリロを空けることが多くなるわけだ。
その留守中、アマリロをレイスが任されたのである。さらに、その年の11月にはドリーとシニアが初来日しているが、レイスも一緒に渡日した(レイスの来日は2度目。ちなみに『列伝』ではテリーも一緒に来日したことになっているが、実際はシリーズには参加していない)。いわばレイスは、ファンク一家をガードする役目だったのである。
要するに、レイスはバリバリのファンク派だったのだ。したがって「あんたがチャンピオンと呼ばれるのは今夜限りだぜ!(レイス)」「技のない悪役と見くびったのが、我がファンク一家の失敗……(シニア)」なんてセリフが出て来る訳がないのである。
レイスとファンクスに、ジャック・ブリスコを加えたNWAの思惑
ドリーはレイスにNWAベルトを渡した。何しろドリーは4年以上もNWA王者に君臨していたのだ。前述のように、NWA王者は全米をサーキットしなければならない。当時のレスラーはNWA王座に憧れていたというが、実際には決して旨味のある商売ではないのだ。一度はNWAベルトを腰に巻きたいと思っていても、何年も巻き続けるのはしんどい。
ドリーから、仲間内のレイスへの王座移動劇は予定通りに見えるが、そういう訳でもなかったようだ。実際には、ドリーがレイスに敗れる3ヵ月前、即ち1973年2月にドリーからジャック・ブリスコに王座を明け渡す計画だったのである。
しかしドリーは、反りの合わないブリスコにジョブ(お仕事)をするのを拒んだ。そしてアマリロ牧場でカートを運転中に事故を起こし、その怪我を理由にタイトルマッチをドタキャンしたのである。
もちろん、世界タイトルマッチなので診断書は提出され、NWAも了承したが、これは当時のNWA会長だったサム・マソニックがドリーを庇ってのこと。事故があったとされる1種間後には、ドリーはコッソリ試合をしていたのだから、やろうと思えばタイトルマッチは行えたわけだ。つまり、ドリーはどうしてもブリスコに直接ベルトを渡したくなかったようである。
そこで、ドリーから仲のいいレイスに一旦ベルトを移動させておいて、そのレイスからブリスコにベルトを渡したのだ。まるでパチンコ屋の三店方式である(パチンコでの賭博は禁止されているので、勝った分のパチンコ玉を特殊景品に換えておいて、それを別の店で現金に換える方式)。
▼晩年のジャック・ブリスコとドリー・ファンク・ジュニア
レイスがブリスコに敗れたのは、ドリーから王座を奪ってから(貰ってから?)僅か2ヵ月後の7月20日、テキサス州ヒューストンでのこと。ドリーの代わりにレイスがジョブをしたわけだ。
ブリスコはその後、1974年12月2日に日本(鹿児島県立体育館)でジャイアント馬場にベルトを奪われているが(これが日本人としてNWA世界ヘビー級王座初戴冠)、日本滞在中の1週間後に返してもらい、1975年12月まで王座を守り続けた。
ブリスコは初戴冠から、日本での王座転落を除いて約2年半もベルトを巻いていたが、王座を明け渡す時期が来る。ちょうどその頃、長きにわたってNWA会長を務めていたサム・マソニックが退任し、新会長としてジャック・アドキッソン、即ちフリッツ・フォン・エリックが就任した。
エリックの会長としての初仕事は、次期NWA王者の人選である。NWA内では次期王者をレイスにするかテリーにするか、投票では全くの同数となった。最終的にはエリックがテリーに1票を入れたという。こうして1975年12月10日、テリーは敵地のフロリダ州マイアミでブリスコを破り、ドリーと合わせて史上初の兄弟でのNWA世界ヘビー王者となった。
そのテリーは1977年2月6日、カナダのトロントで『先生』のレイスに敗れてベルトを渡している。この頃のテリーは離婚問題があって、NWA王者としてのサーキットを続けられなかったのだ。結局、ドリーとテリーのNWA戴冠は共に1回ずつ、その後は日本で大人気を博した。
ブリスコもテリーに敗れてから二度とNWAベルトを巻くことはなかったが、レイスは何度もNWA王座に就いた。その後の、NWAベルトの移動歴を見てみよう。
ハーリー・レイス→ダスティ・ローデス→ハーリー・レイス→ジャイアント馬場→ハーリー・レイス→ジャイアント馬場→ハーリー・レイス→トミー・リッチ→ハーリー・レイス→ダスティ・ローデス→リック・フレアー→ハーリー・レイス→リック・フレアー→ハーリー・レイス
なんと、ほぼ2回に1回の戴冠、即ちレイスはベルトを失うと獲り返し、失うと獲り返しを延々と繰り返したのである。まさしく『ミスターNWA王者』とも言えるレスラーだ。
元々、若い頃はレイスよりも、アマレスの実績充分であるブリスコの方が評価は高かった。しかし、ブリスコは王者としては地味で客を呼べず、一方のレイスはチャンピオンとしての華があったことが、NWA王座を長く保持していた理由だろう。
レイスは、悪役としてのらりくらりと汚いマネをする事もあれば、正統派としてアンドレ・ザ・ジャイアントをボディ・スラムで投げ飛ばすほどのパワーもある。そういう意味では「美しいクジャクは正統派レスラーを、荒ワシは悪役を現しとる!」というのも、あながち間違いではない。つまりレイスは、チャンピオンとしてファンに強さを認めさせる説得力があったのだ。
そのレイスは昨年、ブリスコは2010年に、鬼籍に入った。そして今年、ジャック・ブリスコの弟であるジェリー・ブリスコは、コロナ問題によりWWEをリストラされる。
新型コロナウイルスは、一つの時代をも終わらせたということだろうか。
▼ハーリー・レイスvs.リック・フレアー。レフェリーはジン・キニスキー
▼祝福の独裁者ビンスとバベルの塔破壊MITB-パラダイムシフト後のマット界
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’20年05月28日号オーエン・ハート実録 星輝ありさ 石井智宏 シカティック 馬場さん