おそらくドリーが日本のファンの前でトークーショーを行うのは初めてではなかろうか。貴重な話が聞けた60分であった。
今回は小泉悦次さんの進行で日本プロレスまでの対戦相手のドリーの感想を聞くような流れだった。
①アマリロ地区はフットボールのシーズンが終われば本格的なプロレスのシーズンが始まるサイクルだったようで、各地より大物レスラーが登場した。
1963年 AWAマットの帝王となるバーン・ガニアが来た時は、父(ドリー・ファンク・シニア)とボブ・ガイゲル、そしてガニアで自宅のマットでレスリングのイロハを教わったという。ガニアとの接点が、デビュー前に既に会っていた事実は驚愕であろう。
②ジン・キニスキー
1964年にカナダ・バンクーバーで初遭遇。これまたレスリングの先生でもあったが、後にキニスキーを破りNWAの最高峰に輝くとは・・
③フリッツ・フォン・エリック
テキサス・スタジアムにて万余の観客を集めて試合を行った記憶がある。
フットボール上がりのエリックはタフでスピニング・トゥ・ホールドを仕掛けると下からアイアン・クローで攻められた。痛みはあったが、父の教えである”ぜったいあきらめない”精神でドローになった。
④ジャック・ブリスコ
1966年の4月に初対決、4年にわたり400回ぐらい闘ったと思う。ドリーの中では一番思い入れのある選手であり最大のライバルであった。二人のレスリングを見ているとやはり試合がスイングしていたように思える。
1969年2月11日にジン・キニスキーを破りNWA世界王者になり、年間300試合をこなすようになってくる。昼はフロリダでタイトル戦をやり、自家用ジエットでサウス・カロライナでその夜タイトル戦をやる日々が続く。
⑤ビル・ロビンソン
カナダのスタンピート祭りで初遭遇。1週間に7試合を行い、引き分けの連続であったが最終戦で勝利を勝ち取る。ダブルアーム・スープレックスをテキサスブロンコ・スープレックスとして使い始める。
ただ、独特のエルボー・スマッシュもヨーロッパ式なのでロビンソン戦から取り入れたと思っていたが、意外と1969年、アントニオ猪木が始めてジャーマン・スープレックスホールドを決めたクルト・フォン・ストロハイム選手に教わったとのこと。
⑥ミル・マスカラス
11月、ロサンゼル・オリンピック・オーデトリアムで初対戦、彼のメキシカンスタイルはアメリカンスタイルと違い左と右からの組み方が対極であったことを体験。プライドの高い選手であったが私のほうもプライドでは負けていなかった。
そして始めて父(ドリーファンク・シニア)に連れられ日本の土を踏む。
馬場と猪木
馬場さんはプロ野球上がりで決してレスリングに向いているとは思わなかったが、頭がよく豪快であった。猪木は、アメリカン・アマチュアレスラーのイメージがありテクニックがすばらしかった。やはり彼とはもう一度闘いたかった。今でも準備はしてあるので闘おうと宣言! 二人の試合においては猪木とは1969年の大阪の試合が伝説として語られていることに感謝。
馬場さんとの試合においては、1970年7月大阪府立体育館での試合が忘れられない。熱気と照明の熱でマットに横たわると暑さで背中が焼けるようであった。自分の中では最もタフな試合であった。
馬場さんとの試合中、実話で試合中「おかあさん!助けて」といった事は始めて聞いたと笑っていた。
初来日に一緒に来日したNWAジュニア王者ダニー・ホッジ
リンゴを握り潰す握力と元オリンピック選手であり強いレスラーであった。オクラホマで時間切れ引き分けの試合を行った。
追記:ルー・テーズさんは偉大なレスラー、(ブルーザー)ブロデイは偉大なファイターと語る。
最期に父シニアについて
父の最大のライバルはマイク・デビアスであった。彼がリングで亡くなった時、始めて父の涙をみた。
父はドリーが良い試合をすると何も言わなく、悪い試合をするとよく指摘された。唯一、褒められたのはやはりNWAのチャンピオンになった時だった。
その父もバースデーパーティー(フライングメイヤー牧場至)のスパーリングで容態が悪くなる。アマリロには良いお医者がいなく、救急車で運ばれている最中に息を引き取った。その場には、ジャンボ鶴田もいた記憶がある。
また、質問で弟テリーと日本で闘った時の印象を聞かれると、ドリー7歳、テリー5歳の頃から自宅で、父の前でスパーリングをおこなっていた延長上であるよ・・とのことであった。
是非、次回は全日本プロレスの頃の話を聞きたいものである。
※電子書籍版は11月30日号に掲載されました。
取材・文 藤井敏之
▼WeRemember 1966年のアントニオ猪木 君は東プロ時代の猪木を見たか!!