山口敏太郎の大人のプロレス(1)「三沢がマスクを脱ぎ捨てたあの日」

 三沢光晴さんが死んだと聞いた時、私は自分の耳を疑った。プロレス界で最も受身のうまい範疇に入る三沢さんが死ぬなど、まったくもって信じられない。一報を聞いた時の感想はそれしかなかった。社長業とトップレスラーという兼業の難しさを痛感した。

 早いものだ。あれから、一年が過ぎた。

 かくいう筆者は、年間十数冊の単行本や文庫本を執筆、毎月10本近い連載を抱え、テレビ・ラジオ出演は年間60~80本を数える中で、(株)山口敏太郎タートルカンパニーという編集プロダクション、作家・ライター事務所の社長を務めている。毎日ほとんど寝る暇もなく働いているが、社員7名・バイト3名・所属作家5 5名の仕事を作らねばならないと思うと、休んでもいられない。だが、時々「三沢さんの事故は他人事ではない」と痛感する。

 全日本プロレスという巨大組織の中で、自分を殺し先輩を立ててきた若手時代。
 佐山タイガーの幻想に取り憑かれたプロレスファンの前で、二代目タイガーマスクを演じてきた苦難の時代。
 東京体育館で三沢さんがマスクが脱いだ瞬間、筆者は観客席にいたのだが、三沢さんがマスクと同時に”自分自身へのジレンマ”を脱ぎ捨て、”君臨する大人たちへの怒り”を込めてマスクを投げたように思えた。


画・三瓶千詠
 
 ジャイアント馬場という偉大なる父の死後、三沢さんはノアという箱舟で自由への船旅に出たのだが、このセンチメンタル・ジャーニーはハッピーエンドでなかった。自分についてきてくれた若者たちを守りながら、三沢さんは死んでいったのだ。

 いつの時代でも若者とは、体制者や権力者に牙を向き、己のマスクを脱ぎ捨てる。
 そして仲間たちと旅に出るのだが、必ずしもその旅の結末は、約束の地に辿りつくわけではない。それでも、若者は荒海を目指す。その繰り返しが歴史を作ってきたのだ。

 読者の皆さんは、命がけで何かと戦ったことはあるだろうか。

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