[週刊ファイト3月13日]期間 [ファイトクラブ]公開中
▼追悼「ミスター無我」こと西村修さん(享年53歳)の死亡を聞いて・・・
photo & text by 藤井敏之 w/編集部編
・「無我の伝道師」西村修さんがお亡くなりになったとの連絡
・西村修とドリー・ファンクJr.の深い交流を紐解く
・藤井敏之が聞いた西村修との最後の言葉
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「無我の伝道師」西村修さんがお亡くなりになったとの連絡
「無我の伝道師」、西村修さんが2月28日(享年53歳)にお亡くなりになったとの連絡が入る。
2度目のガンと常に前向きに闘ってきたが、力尽きてしまった。本当に残念である。
彼が新日本プロレスに入門し、師匠と仰いできた選手を振り返ると、1993年に初めての海外遠征で、現CAC会長 ブライアン・ブレアー のゴールドジムで体作りを行い、最初にアメリカでレスリングを学ぶべく ヒロ・マツダ を訪れた。
その後、単身ヨーロッパに飛び、サンボの強豪である クリス・ドールマン道場 で訓練。さらにイギリス・ウィガンの ビリー・ライレー・ジム で ロイ・ウッド にキャッチ・アズ・キャッチ・キャンのレスリングの手ほどきを受けた。
カナダ在住の 大剛鉄之介 のもとで体を大きくし、再びヨーロッパへ飛び、オットー・ワンツ 主催の CWAキャッチトーナメント に参加。そこで トニー・セント・クレアー にレスリングを学ぶ。
2000年頃からフロリダ・タンパに住み始め、その地のレジェンドレスラーである “神様”カール・ゴッチ や “グレートテキサン”ドリー・ファンク・ジュニア の門を叩き、東京とフロリダを行き来し始める。
ウエスタン・ラリアートを代表するパワーレスリングを嫌い、時代に逆行して 1960〜1970年代のクラシック・スタイルのレスリング を好んだ彼は、世界中を巡り、その国の伝統的かつ古典的なレスリングを追求し続けた「無我の伝道師」であった。
当時、誰もが機械を駆使して体を鍛え、パワーを主体とするレスリングが主流となる中で、偏屈と思われようとも、彼は過去を重んじ、基本を主体とするレスリングに執着した。その姿勢は、先ほど時系列に並べた 彼の師匠たちの名前 を見れば明らかである。
そんな彼の生き方、レスリングスタイルが好きな私は、いつも彼のリングでの闘いに注目していた。
藤井敏之、西村修、ドリー・ファンクJr.の深い交流
確か彼がフロリダに住み始め、東京とフロリダを行き来していた頃、私も毎年ラスベガスで行われる CAC(Cauliflower Alley Club) に足を運んでいた。
2002年、どうしてもラスベガスから フロリダ・オカラのドリー・ファンク・ジュニア に会いに行きたくなり、大阪に巡業に来られていた西村さんを訪問し、ドリー邸への交通手段やホテルの相談をした。
忙しい中、試合会場へ行く前に時間を割いてくださり、