[週刊ファイト2月27日期間 [ファイトクラブ]公開中
▼追悼・永島勝司さん、プロレス界に刻んだ伝説「平成の仕掛け人」の歩みと功績
編集部編
・永島勝司の「闘いの哲学」と遺した功績
・永島勝司が駆け抜けた“北朝鮮遠征”の真実
・永島勝司が仕掛けた「全日本プロレスとの対抗戦」成功の舞台裏
▼WJに、ビックリした!!
▼馬場と猪木がそろって記者を買収していた!
▼時代錯誤が生んだWJプロレスの悲劇~消えたプロレス団体
▼ターザン山本を週プロから追い出した黒幕の永島勝司オヤジだけど・・・
永島勝司の「闘いの哲学」と遺した功績

2025年2月10日、新日本プロレスやWJプロレスで活躍し、「平成の仕掛け人」として知られた永島勝司さんが82歳で亡くなった。昭和から平成、そして令和へと続くプロレス界において、彼が残した功績は計り知れない。その人生を振り返りながら、彼が築いた伝説を称えたい。
永島勝司さんのキャリアは、東京スポーツ新聞社の記者として始まった。そこでの活動を通じ、当時の新日本プロレスを率いていたアントニオ猪木さんと強い信頼関係を築き、プロレス業界へと本格的に関わるようになる。そして1988年、彼は新日本プロレスに入社。取締役企画宣伝部長として辣腕を振るい、後に「平成の仕掛け人」と呼ばれる所以となる数々のビッグイベントを成功させた。
中でも特筆すべきは、1989年4月に東京ドームで開催された新日本プロレスの興行である。これがプロレス史上初の東京ドーム大会となり、それ以降、東京ドームはプロレスの一大決戦の舞台として定着することとなった。永島さんの手腕なくして、この歴史的な一歩は成し遂げられなかっただろう。
永島さんは、数々の革新的な試みを通じて、プロレスのスケールを押し広げていった。特に、1995年4月に開催された「平和の祭典(北朝鮮・平壌大会)」は、歴史的な一戦として語り継がれている。この大会は、北朝鮮の平壌で行われた世界最大規模のプロレス興行であり、約19万人の観客を動員。これはプロレス史上、最大の観客数を誇るイベントの一つである。
また同年10月には、当時のプロレス界において抗争を繰り広げていた新日本プロレスとUWFインターナショナルの全面対抗戦を実現。プロレスファンの間では「禁断の対決」として大いに話題となり、団体の垣根を越えた闘いがプロレス界に新たな刺激をもたらした。さらに、1998年4月にはアントニオ猪木引退試合を手掛けるなど、その手腕はプロレス界の歴史を塗り替えるものばかりだった。
2002年に新日本プロレスを退社した後も、永島さんのプロレスに対する情熱は衰えなかった。翌2003年には、長州力さんと共にWJプロレスを旗揚げし、専務取締役として団体運営に尽力。しかし、経営的な困難により短命に終わったものの、この挑戦は彼のプロレスへの情熱を証明するものだった。

その後はプロレス評論家やライターとして活動し、試合の解説や寄稿などを通じて、プロレス界への貢献を続けた。彼の鋭い視点と、熱いプロレス愛に満ちた言葉は、多くのファンに影響を与えた。
晩年、永島さんは肺気腫を患いながらも、プロレスに対する情熱を失うことはなかった。2024年12月に自宅で倒れた後、入院生活を送りながらもプロレスを思い続け、2025年2月10日、呼吸不全のため82歳でその生涯を閉じた。遺族によると、「最期は安らかに逝った」とのことである。
彼の訃報が報じられると、プロレス業界全体から惜しむ声が相次いだ。かつての同僚や選手たちは、「永島さんがいなければ、今のプロレス界はなかった」と口を揃える。
永島勝司さんは、決してリングに上がるレスラーではなかった。しかし、彼が仕掛けた数々のドラマ、実現させた夢の舞台が、プロレスの未来を切り開いてきたことは疑いようがない。アントニオ猪木さんとの深い関係、新日本プロレスでの功績、WJプロレスでの挑戦──彼の足跡は、プロレス界の歴史の中で確かに輝いている。
「名プロデューサー」「名仕掛け人」という言葉では語り尽くせないほどの影響力を持ち続けた男、永島勝司。その魂は、これからもプロレス界に生き続けるだろう。
心からの感謝と哀悼の意を込めて──永島勝司さん、本当にありがとうございました。
永島勝司が駆け抜けた“北朝鮮遠征”の真実

プロレス史において数々の名場面を生み出した名プロデューサーであり、過激な発言や歯に衣着せぬ物言いでも知られた永島勝司がこの世を去った。彼が関わった多くのプロレスイベントの中でも、特筆すべきものとして語られるのが1995年4月に北朝鮮で開催された「平和のためのインターナショナル・スポーツ・文化祭典」――通称「北朝鮮興行」である。新日本プロレスとWCW(ワールド・チャンピオンシップ・レスリング)が共催し、異例の規模で行われたこの大会の舞台裏には、永島勝司の辣腕があった。
この大会の開催にあたっては、北朝鮮政府の意向と新日本プロレス、さらには当時WCWと協力関係にあったアントニオ猪木の交渉力が大きく影響している。だが、その舞台裏には永島勝司の存在が不可欠であった。猪木と親交のあったアメリカの大物プロモーター、エリック・ビショフを介し、WCWの選手たちを招聘することが決定されていたが、北朝鮮という異例の環境に不安を覚えたレスラーたちが多数いたことは明らかであった。

特にリック・フレアーを筆頭とするWCW勢は、当初、この遠征に対して乗り気ではなかった。北朝鮮という未知の国に足を踏み入れることのリスクや、アメリカ政府の方針との兼ね合いもあり、彼らの警戒心は強かった。だが、永島はその交渉術を駆使し、WCW勢が納得せざるを得ないような条件を提示し、慎重に説得を進めたのである。
選手団が北朝鮮に到着した瞬間から、彼らを待ち受けていたのは、通常のプロレス興行とはまるで異なる厳格な管理体制であった。選手たちは北朝鮮政府関係者の指示に従うよう求められ、自由な行動は一切許されなかった。移動には常に監視役が付き、外部との接触も制限されるという状況に、WCW勢をはじめとする外国人レスラーたちは困惑した。
