1978年、田舎のプロレス会場に来ている客は「力道山時代から欠かさず見てる」というおじさんが大半だった。
そんな中で、ぼくのような学生に気さくに話しかけてくれた若い選手がいた。
パンフによると、当時自分と同世代で新日本のリングに上がっているのは彼だけ。(佐山サトルはメキシコ遠征中だった)
彼が前座のリングに立つのを興味深く見ていると、客席から、
「小林さ~ん!」
と若い女の子たちから黄色い声援がかかる。
会場にいるのは力道山時代からのおじさんだけではなく、彼のファンの女性もいるらしい。
1984年1月6日、新日本プロレス後楽園ホール コブラvs.小林邦昭戦
みぶ真也 著作タグ
年齢も学年も一つ上の小林邦昭選手は、以来、ぼくにとってはプロレス界にいるお兄さんの印象のままだ。
そのお兄さんがメキシコに渡り、さらにロサンゼルスへ向かう時、
「アメリカではブルース・リーというリングネームで闘う」
という話が聞こえてきた。
元々、空手をしていたお兄さんは『燃えよドラゴン』を観て以来ブルース・リーのファンだったのだ。
残念ながら、渡米寸前のカベジュラ・マッチで坊主頭になってしまった為、その容姿を見たNWAからつけられたリングネームは“キッド・コビー”という可愛らしいものになってしまった。坊主頭ならせめて“シャオリン(少林)・リー”くらいの名前にすればいいのにNWAもセンスがないと思ったものだ。
キッド・コビーは『燃えドラ』の地下要塞シーンのように、バトルロイヤルで並みいる敵をバッタバッタと倒した後、アメリカスヘビー級のベルトまで奪取する。
遠く離れた日本でお兄さんの活躍を知り、ぼくが快哉を叫んだことは言うまでもない。
帰国後、初代タイガーマスクと抗争した一連の試合も、ぼくの目にはブルース・リー対サミー・リーの従兄弟対決に見えたものだ。
WWFに遠征した時は、今度こそ小林版“ブルース・リー”が誕生するかと期待したのだが、現地でのリングネームは「チンコビアシ」。日本では放送に乗せられない名前(!)にされてしまったのが残念だった。
今はきっと、天国で猪木さんや憧れのブルース・リーと顔を合わせているお兄さん。
『燃えよドラゴン』オープニングのように、ブルース・リーとマットの上で闘っているかも知れない。リーにフィッシャーマンズ・スープレックスを決めた瞬間、
「小林さ~ん!」
と、黄色い声援を受けていることだろう。
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