8月16日(金)、関西テレビの『newsランナー』という番組で、ジャイアント馬場さんの墓が紹介された。漫才コンビ『矢野・兵動』の兵動大樹が担当するコーナー『今昔さんぽ』で、『国民的英雄が眠るお寺』というタイトルが付けられていたのだ。
筆者は、その『国民的英雄』が馬場さんとは想像していなかった。単にこのコーナーが好きだったので見ていたのが、思いがけず馬場さんの墓を目の当たりにしたのである。
柿本人麻呂? 宮本武蔵?? ジャイアント馬場さんに繋がらない!
このコーナーの趣旨は、兵動大樹がスタッフから1枚の古い写真を渡され、その同じ場所から現在の写真を撮る、というもの。兵動が渡されたのは、1960年に兵庫県明石市で撮影された寺の写真だった。ある歴史上の人物に関連する場所、とだけ説明されている。
京都なら判るが、明石で歴史上の人物って誰? と首を捻る兵動。筆者もこの時点で、ジャイアント馬場さんだとは全く思わなかった。まあ馬場さんは、偉大とはいえ歴史上の人物かと言われると、ちょっと違う気がするし。
とりあえず、兵動は明石で街行く人に写真を見せながら聞き込みする。あるオジサンは、明石城の殿様だった松平忠国ではないか、と答えた。
あるお姉さんは、写真を見て本松寺(ほんしょうじ)でしょう、という。この辺りで有名な人とは柿本人麻呂ではないか、ということだ。飛鳥時代の歌人である。もっとも、このお姉さんは柿本人麻呂のことを『頭の良い人』という認識しかなかったが。
明石の有名な『魚の棚商店街』で魚屋を営んでいる主人は、柿本人麻呂ではなく、本松寺の庭を造った宮本武蔵だろう、と語った。宮本武蔵は、明石城を築城する際に城下町の町割りに参画したらしい。
宮本武蔵と言えば、プロレスとも関係が深いのはご存知の通り。宮本武蔵が佐々木小次郎と決闘した巌流島では、アントニオ猪木vs.マサ斎藤、馳浩vs.タイガー・ジェット・シンが行われた。また、宮本武蔵の『五輪書』はカール・ゴッチの愛読書として知られている。とはいえ、ジャイアント馬場とはあまり関係がない。
兵動が本松寺を訪ねると、たしかに門には『「宮本武蔵」作庭』と書かれていた。やはり、歴史上の人物とは宮本武蔵のことだったのか? 住職は兵動を、宮本武蔵が造った庭に案内する。
さらに住職によると、ここに大仁田厚が来たというのだ。物静かな寺に似合わない『大仁田厚』という名前。そして、大仁田と言えば全日本プロレス新弟子第一号として知られる。
急に本松寺とジャイアント馬場さんが繋がった。
馬場さん夫妻が出逢った想い出の地・明石
本松寺の住職は、ここにジャイアント馬場さんの墓があると説明する。驚く兵動大樹。
住職は兵動を馬場さんの墓へ案内すると、そこにあったのは馬場さんのリングシューズを模した石造だった。片足16文、両足で32文である。
▼本松寺にあるジャイアント馬場さんの墓(撮影:藤井敏之記者)
馬場さんの墓がなぜ明石にあるのか? 説明する住職。馬場さんの奥様だった馬場元子さんは明石市の出身で、1999年1月31日に馬場さんが亡くなった後、私が死んだら馬場さんと一緒の墓に入りたいと、馬場さんの遺骨を東京の自宅に保管していたという。
2018年4月14日、元子さんが亡くなり、希望通り夫婦で本松寺にある墓に入った。
番組では語られなかったが、2人の出会いは明石。当時、高校を二年で中退して読売ジャイアンツ(巨人)に入団した馬場さんは明石キャンプに参加し、巨人を後援していた伊藤家に招かれる。
この時、馬場さん用に特大のスリッパを用意していたのが、この頃はまだ中学三年生の、伊藤家のお嬢様である元子さんだった。
VTRが終わり、スタジオトークで神崎博(関西テレビの報道局記者)は、
「(馬場さんの名前が出て)宮本武蔵が消し飛んでしまいましたね。僕らが子供の頃はプロレスごっこで馬場さん役を背の高い奴がやって、キックされたりチョップされたりしてね」
と馬場さんの想い出を語り、兵動も、
「馬場さんは1999年に亡くなったんですけども、未だに俺らの子供でも馬場チョップとか言いますもんね。国民的スターでした」
と同意した。
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