週刊ファイト1982年1月5日付け『ローラン・ボック特集号』より
[ファイトクラブ]先行公開 [週刊ファイト8月29日号]収録
[Fightドキュメンタリー劇場55] ローラン・ボック自伝を読む⑥
▼キラー猪木ツアー1978年11月8日「猪木vs.ボック」第一戦比較検証
by Favorite Cafe 管理人
・猪木vs.アリ再戦、1979年6月 西ドイツで? 週刊ファイト記事より
・欧州猪木ツアー:謎多き「猪木vs.ボック」第一戦、第二戦を解きほぐす
・猪木vs.ボック第一戦、1978年11月8日デュッセルドルフ
・壮絶11・8!試合経過詳細~週刊ファイト井上讓二記者の現地レポート
・ファンタジー活字東スポ、週ゴン増刊、謎の試合経過と試合時間の存在
・東スポ早刷り版の表記ミスが原因か 欧州ラウンド制5R、10Rマッチ?
・シュート活字’24東京スポーツ・モーリス東郷通信員の日々の報告とは
・ドイツ通信社「“殺し屋”猪木 コメディスタジアムに登場」リハーサル通り
猪木の欧州遠征のアントニオ猪木vs.ローラン・ボックの試合は、猪木-アリ再戦の前哨戦だったのか。ファイト井上讓二記者の現地レポート、東スポ・モーリス東郷現地通信員の報告。猪木-ボックの第一戦の試合経過を検証する。
■ 週刊ファイト(1978年10月17日付)より—————–
「敗れれば、アリ戦ふっとぶ大一番」
カール・ゴッチでさえ、ハイエナと呼んで毛嫌いしたローランド・ボックが11月8日、ついに猪木とホコをまじえる。西ドイツでのアリ再戦を目論む猪木に、とうとう“噂の殺し屋”が黒い手袋をニューッと突き出してきた。ボックに1敗地にまみれんか、来年6月決行予定の猪木-アリ戦は、あとかたもなく吹っ飛ぶ。「負けられない」と猪木。「金メダリストのデートリッヒやヘーシンク、ルスカ、ラサルテーズなんかはかわせるとして、ボックの殺しワザだけはどうかな」-。
週刊ファイト(1978年10月17日付け)
猪木vs.アリ再戦、1979年6月 西ドイツで? 週刊ファイト記事より
1978年の猪木の欧州遠征に「猪木vs.アリ再戦」のワードが出てくるのは、I編集長の専売特許なのか。しかし、まるで根拠のない話とも言えない。
1978年9月15日(日本時間16日)にモハメド・アリが米国ニューオリンズでレオン・スピンクスを破って奇跡のカムバック、三度目の世界王座(WBA)に着いているのだ。これを機に猪木周辺では「猪木vs.アリ再戦問題」が再燃している。
月刊ゴングにも、「アリ側のプロモーター、ボブ・アラム氏(トッブランク社)の希望もあって、1979年6月、西ドイツで猪木vs.アリ再戦というムードが高まっている。猪木は、6月予定のアリ戦のデモンストレーションという意味もあって、ヨーロッパですべての強豪の挑戦を受けて戦うことを決意した」と書かれている。
週刊ファイト、月刊ゴングで「西ドイツで猪木vs.アリ再戦」と記事で触れているのは、新日本プロレスサイドの一方的なリークの可能性もあるが、何らかの情報があったことを示している。実際、年明け1979年1月に「アントニオ猪木vs.アミン大統領」を発表した記者会見では、プロレス・マスコミだけでなく、一般のマスコミ、世界の通信社に向けて、この試合のレフェリーはモハメド・アリだと正式に発表している。このことは新日本プロレスとモハメド・アリ側で、交渉が続けられていたことを物語っている。
しかし、アミン大統領戦は現地のクーデターで立ち消えになり、猪木vs.アリ再戦もこれ以上具体化することはなかった。
欧州猪木ツアー:謎多き「猪木vs.ボック」第一戦、第二戦を解きほぐす
さて1978年11月の欧州選手権シリーズ・猪木ツアーに話題を戻そう。このツアーで、アントニオ猪木vs.ローラン・ボックの試合は、全部で三戦が行われている。
その中で最も印象的で、欧州遠征を振り返る時に話題に上がるのは、もちろん11月25日のシュツットガルトでの試合だ。この試合は1978年12月の最後の週に、テレビ朝日系列の「ワールドプロレスリング」で放送された。地下プロレスのような照明の暗いリングで、アントニオ猪木が何度もマットに叩きつけられ、猪木が判定で負けてしまった試合結果は、プロレスファンに衝撃を与えた。
この試合はビデオ化/DVD化もされており、CSの昭和プロレス・レトロ番組でも何度も放送されているので、一度はご覧になったファンも多いだろう。もちろんアントニオ猪木史を語る書籍、雑誌にも1978年の欧州遠征の記録として必ず取り上げられる試合だ。
ところが、この欧州遠征で闘われた11月8日の猪木vs.ボック第一戦、11月12日の第二戦は、全く語られることがない。もちろん映像も残されていない。今回は猪木とアリの初遭遇の試合をボック自伝、週刊ファイト、その他のプロレス専門誌の記事から振り返ってみたい。
[Fightドキュメンタリー劇場23]
▼「シュツットガルトの惨劇」ハッキリ言ってこれは異種格闘技戦ですよ
壮絶11・8!試合経過詳細~週刊ファイト井上讓二記者の現地レポート
■ 週刊ファイト(1978年11月21日付)より—————–
1978.11.08 西ドイツ・デュッセルドルフ フィリップスホール
4分5ラウンド一本勝負
○アントニオ猪木vs.ローラン・ボック●(5R 3分40秒 反則)
猪木は、初戦の対ルスカ戦同様、欧州遠征2日目のこの夜も猪木はうかつな攻めを手控え、ボックの出方を3ラウンドまで見守った。初めて対決したボックが使う技はダブルアームスープレックスぐらいのものだとわかったので、4ラウンドから攻めに出る試合展開となった。
試合後の猪木は、「ボックは馬鹿力があるので一発を警戒した。ワザそのものには切れもなく見るべきものはなかったね」と語った。
一方のボックは、「見てくれ、この体のしまり具合を・・・・・・・・。猪木に勝つために20㌔もしぼったんだ。空手、ボクシングのトレーニングも半年間やった。それ以上にやったのがイノキの攻めをかわすディフェンスだ。オレはイノキのワザの全てを知っているんだ。負けるわけがない」と反則負けなど負けだとは思っていない。
11/8の猪木vs.ボック第一戦(週刊ファイト1978年11月21日付)
【試合経過】
(第1ラウンド)
猪木が先制した。猪木にすれば軽くジャブを出した程度の空手チョップだったが、ボックはあわてふためいて逃げ回った。ボクシング・スタイルで猪木の出方をうかがうボック。こうして1ラウンドは猪木攻勢のまま終わった。
(第2ラウンド)
ヒヤッとさせられるシーンがあった。猪木がボックをロープに詰めてパンチ。これにカーッときたボックは、いきなりバックに回り、力任せにフルネルソンをがっちりきめた。そのまま猪木を持ち上げて振り回したあと、猪木の顔面、胸をキャンバスへ叩きつけたのだ。両腕の自由を奪われている猪木。右肩を負傷したのは、この時だった。猪木は受け身もとれぬ状態で、この猛撃をもろにくって脳しんとうを起こしてしまった。
その前に猪木のほうが先にフルネルソンを仕掛けており、ボックにしてみれば「ただフルネルソンをやるだけじゃダメだ。本当はこうやって攻めるんだ」という気持ちを猪木や会場のファンに対して見せつけたかったのだろう。
ボックは投げた後もフルネルソンをはなさず、体重を乗せて猪木の首を絞めながら顔面をマットにこすりつけるという荒っぽいことをする。
幸いなことにゴングに救われたが、もう30秒早くやられていたら猪木は完敗していた。
このフルネルソンの写真は、1981年12月8日 蔵前国技館
猪木の話「あの体勢で、しかも後ろからもの凄い力でねじ伏せられたのでは身動き一つとれない。無論、わかっていながら受け身など出来なかった。これはプロレスの“ルール”に反する。レスリングではなく殺しだ。ボックと闘って何人もの犠牲者が出ているが、身をもってボックの怖さを知った。やはり、ゴッチが毛嫌いしたとおり、あいつはレスラーではなく殺人者だ」
(第3ラウンド)
このラウンドは互角だった。猪木はダメージを回復させるべくヘッド・シザースでボックをとらえ時間を稼いだ。だが、ボックは剛力だ。猪木の寝技を力ではね返すとボディ・スラムで叩きつけた。これも凄いもので、猪木でなければ受け身をとりそこなってアクシデントが生じていただろう。さらにアームロック、ヘッドシザース・ホイップ。つづけて今度は猪木の左足をロープ最上段に巻き付けて、へし折らんばかりに痛めつけた。だが、ダブルアームスープレックスだけは、猪木に踏ん張られて不発。
(第4ラウンド)
さすがに猪木だ。スタミナを回復させるとパンチ、チョップで猛反撃に出た。ボックが恐怖していたミステリー・キックをたてつづけに三発飛ばしたが、どういうわけか威力がなかった。
猪木の話「ルスカとやったとき(第一戦=ルーベンスブルッグ)に右足を痛めていたので効果がなかった。残念だ」
ボックの話「あれがアリ・キックか。(猪木の話を聞いたあとで)そうか。ラッキーだったわけだな。それなら、なおのこと次が楽しみだ」
写真は、1982年1月1日 後楽園ホール
(第5ラウンド)
猪木はラフ・ファイトに出た。水平打ち、パンチを乱打して劣勢を挽回。ダウンしたボックにジャンピング・カラテをたたき込み、馬乗りになってボックの首を締め上げた。この猪木の荒っぽいケンカ殺法に、さすがのボックもタジタジだ。
猪木はフロント・スープレックス、バック・ドロップと次から次へと仕掛けたが、ボックは腰を落としロープ・ブレイクにもち込み不発に終わらせた。
猪木がスープレックスで力任せにボックを場外へ放り投げた。床に腰と背中を強打したボックは立ち上がれない。これを追って猪木はリング下へ飛びおり、館内のブーイングを無視してボックの額を鉄柱に叩きつけた。ボックの額から血が噴き出した。だが、猪木はなおもボックを鉄柱へ叩きつけて荒れ狂った。
11/8猪木vs.ボック第一戦(週刊ファイト1982年1月5日付)
ようやくエプロンへ上がったボックに、猪木がリング内から割れた頭めがけてチョップを連打すると出血はますます激しくなる。リング内に舞い戻った両者はパンチ、キックで激しくやりあい、タックル、ヘッド・ロックと死闘をつづける。
だが、猪木がラフ攻撃をレフリーに制止されているスキをついて、ボックは背後から首を絞め、足払いで倒しておいて、さらに首を締め続ける狂乱ファイト。
レフェリーがブレイクを命じたが、狂ったボックは耳を貸さず、レフェリーを突きとばして反則負けを喫した。
数百人のファンがリングを取り囲んで「イノキを殺せ!」と騒ぎ、警察官数十人が駆けつけて騒動を静めるといった大変な試合だった。
猪木の話「あんな手(場外乱闘)に出たのは、あまりにもボックが汚い手を使いすぎたからだ。大体、相手レスラーに受け身をとらせない攻撃ばかりやっていいものかどうか。シンも悪どいが、シンだって、あんなダーティーな攻め方ばかりはしない。オレが怒って当たり前だろう。だからお返しをしてやったまでだ。そり投げ、スープレックス・・・みんなそうじゃないか。レスラーでないのならまだしも、向こうはレッキとしたレスラーなんだよ。許せん!」
ファンタジー活字東スポ、週ゴン増刊、謎の試合経過と試合時間の存在
この試合の結果は、ローラン・ボックの反則負けだが、日本の雑誌には試合時間の記録が、(5ラウンド3分40秒 反則)と(10ラウンド3分40秒 反則)の2種類が存在する。
5ラウンドでの決着と、10ラウンドでの決着、決着のラウンド数の記録が違うのだ。40秒の数値は同じなので、単に数字の書き間違いのように思えるが、なんとそれぞれ、違う試合経過リポートも存在する。