本誌でも既報どおり、テリー・ファンクさんが79歳で亡くなった。昨年の10月にはアントニオ猪木さんがやはり79歳で亡くなっており、昭和プロレスを彩ったレジェンドたちが次々と鬼籍に入られている。
テリーさんは本場アメリカのみならず、日本でも絶大な人気を誇っていた。いや、テリーさんの日本での人気はアメリカ以上だったかも知れない(本文中敬称略)。
タッグ・マッチの面白さを再認識させたザ・ファンクス
テリー・ファンクは戦時中の1944年6月30日に生まれた。父親はプロレスラーのドリー・ファンク・シニア、兄は言わずと知れたドリー・ファンク・ジュニアである。
父シニアからプロレスラーとしての英才教育を受けたテリーは、当然の如く兄ドリーの後を追うようにプロレス界にデビュー。米テキサス州アマリロを本拠地として暴れまわった。
テリーは1970年6月に初来日。その時は日本プロレスのマットだったが、日プロが崩壊するとジャイアント馬場が興した全日本プロレスを主戦場とする。
兄ドリーと共にタッグを組んだザ・ファンクスは大人気となり、社会現象になるほどだった。
ザ・ファンクスの功績は、タッグ・マッチの面白さを再認識させたことと、外国人同士の対戦でも日本人ファンを熱狂させたことだろう。
日本ではタッグ・リーグ戦はヒットしないというのが定説だった。それを覆したのがザ・ファンクスの存在だったのである。
今でも語り草となっているのが、1977年暮れに全日本プロレスで開催された世界オープン・タッグ選手権だ。東京・蔵前国技館で行われた最終戦で、ザ・ファンクスはアブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シークの史上最凶悪コンビと対戦した。
ブッチャーがテリーの右腕にフォークを突き刺す。大流血する弟テリーを助ける兄ドリー。当時の『全日本プロレス中継』は土曜夜8時に日本テレビ系で放送されていたが、子供たちがTBS系『8時だヨ!全員集合』を見て笑っている裏番組で、こんな凄惨な場面が流れていたのだ。筆者と同年代の女性ですら、プロレスには全く興味がないのにこのシーンは憶えているという。
結果は、シークがレフェリーのジョー樋口に凶器で攻撃したためにファンクスの反則勝ち。少し後の時代だったらこんな不透明決着はファンが暴動を起こすところだが、当時のファンはファンクスの優勝に酔いしれていた。
何よりも、ファンクスのお互いを助け合う兄弟愛と、右腕を包帯でグルグルに巻きながら左ストレートをブッチャーとシークに打ち込むテリーの姿にファンはシビれたのである。
▼世界オープン・タッグ選手権最終日、ザ・ファンクスvs.ブッチャー&シーク
オープン・タッグは翌年から、世界最強タッグ決定リーグ戦に受け継がれる。以来、最強タッグはオープン・タッグから数えて現在まで45年間も続くロングラン・シリーズとなったが、ザ・ファンクスの存在がなければこんなに大ヒットしなかっただろう。
最強タッグに改称しても、1980年代前半までザ・ファンクスは主役であり続けた。
ザ・ファンクスはもちろん、日プロ時代はジャイアント馬場&アントニオ猪木のBI砲、全日になってからはジャイアント馬場&ジャンボ鶴田の師弟コンビなど日本人チームとも対戦したが、やはり目玉となったのは外国人チームとの抗争だろう。
最初は前述の通りブッチャー&シーク、80年代に入ってからはスタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディの超獣コンビとの対決が黄金カードとなった。
反則と凶器攻撃ばかりのブッチャー&シークと違い、ファンクスにとって後輩であるハンセン&ブロディはパワーと実力でファンクスを圧倒する。超獣コンビの猛攻に必死で耐えるファンクスの姿が、ファンの心を打った。
女性ファンの親衛隊までついたテリー・ファンク
ザ・ファンクスが外国人チームとの対戦で光った理由は、当時としては珍しかった外国人ベビー・フェイスだったからだろう。もちろん、それまでもビル・ロビンソンやミル・マスカラスなどの外国人ベビー・フェイスはいたが、ザ・ファンクスのように女性ファンに悲鳴をあげさせる存在ではなかった。
外国人ヒールの凶器攻撃に、いつも血だるまにされるのはテリー。テリーが戦闘不能状態に陥り、1人になったドリーは、敵の2人がかりの攻撃を受け続ける。やがて、治療を終えてリングに戻ったテリーが大暴れし、最後はファンクスが逆転勝ちというのがお決まりのコースだ。
そのパターンを破ったのが、1981年暮れの世界最強タッグ決定リーグ戦の最終戦、ブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカとの対戦だった。この時は、新日本プロレスに参加していたスタン・ハンセンが突如乱入、テリーがハンセンのウエスタン・ラリアットを食らってグロッキー。テリーはそのままリングに戻れず、孤軍奮闘していたドリーが最後に力尽きてブロディのキングコング・ニードロップを食らいフォール負けしたのである。
日本人チーム相手だと、お互いにベビー・フェイスなだけに『テリーが敵の反則により大流血しながら反撃する』シーンを演出できない。あまりのクリーン・ファイトだとザ・ファンクス、特にテリーが光らないのだ。
テリーは、ドリーと共に史上初のNWA世界ヘビー級王者に兄弟で戴冠するなど、シングル・プレーヤーとしても一流だったが、やはりタッグ・マッチでの方が活きる。その理由として、クールな兄ドリーとは対照的に、ホットな弟テリーとの絶妙な兄弟コンビという面もあっただろう。
テリーはたった一度だけ、ドリーとシングル兄弟対決を行っている。1981年、全日本プロレスで復活したインターナショナル・ヘビー級王者となったドリーの最初の挑戦者が、抽選の結果テリーになったのだ(もちろん、テリーの挑戦は予定通りだったのだろうが)。
試合は当然の如く、若貴対決のようにテリーが兄のドリーに勝利を譲ってフォール負け。それ自体はテリーも納得していたが、馬場によると後日テレビの録画中継を見ていたテリーはだんだん不機嫌になったという。54分という長時間の試合になったため編集されたが、ドリーの攻めているシーンばかりが使われて、テリーのいい所はほとんどカットされていたのだ。
しかしテリーは、女性ファンには間違いなくドリーよりも人気があった。テリーは、プロレスラーとして日本初(というより世界初?)の、女性ファンによる親衛隊までついたのだ。女性ファンがチアリーダーよろしくミニスカートを穿きポンポンを持って、テリーを応援するのである。
テリー人気は、まさしくジャニーズのアイドル並みだった(今のご時世、この例えはどうかと思うが……)。
悪しき前例を作ってしまったテキサス・ブロンコ
1983年8月31日、蔵前国技館での試合を最後にテリーは引退する。まだ39歳という、プロレスラーにとっては若過ぎるリタイアだった。そのちょうど40年後に亡くなったのは何かの因縁か。
引退の理由は膝の故障の悪化だという。引退後はアマリロで家族と過ごしたい、と語っていた。
引退試合でザ・ファンクスと対戦したのは、弟子であり宿敵でもあるスタン・ハンセンと、当時は売り出し中だったテリー・ゴディとのコンビ。本来ならブルーザー・ブロディとの超獣コンビが相手になるところだが、ハンセンやブロディが負けて商品価値を下げるわけにはいかないので、キャリアの浅いゴディがジョブ役(負け役)としての白羽の矢が立ったのだ。
試合はゴールデン・タイムの特番で放送され、最後はテリーがトップロープからの回転エビ固めでゴディからフォールを奪い、有終の美を飾る。
引退セレモニーでテリーは、
「フォーエバー! フォーエバー! サヨナラ! グッバイ、アイ・ラブ・ユー!」
と泣き叫び、もちろんチアリーダー姿の親衛隊も泣き叫び、蔵前国技館はテリー・コールの大合唱となった。
これほど感動的な引退セレモニーは、長嶋茂雄の引退試合に比肩するだろう。
ところが、その涙と舌の根が乾く間もない1年後の1984年8月にテリーはリングに復帰し、プロレス・ファンは全員ひっくり返る。いくらプロレスがいい加減だと言っても、1年後の復帰は早過ぎるやろ、と誰もが思ったに違いない。
当然、ファンからは顰蹙を買い、以前の絶大な人気は翳りを見せた。
他のスポーツでも引退して復帰する例はあるが、プロレスラーほど頻繁ではない。そもそも、引退から復帰までのスパンが短過ぎる。
このテリー復帰を、女の子の親衛隊はどう思ったのだろう? またテリーの雄姿を見られると喜んだのか、あるいは「あの時の私らの涙を返せ!」と憤ったのか。いずれにしても、チアリーダー姿の親衛隊は見られなくなる。
このテリーが作った悪習は愛弟子の大仁田厚に受け継がれ、さらに他のレスラーが引退を表明しても誰も信じなくなった。テリーのおかげで、プロレスラー全員がオオカミ少年になってしまったのである。
その後、テリーは日米で昭和時代とは違った形で活躍したとはいえ、やはりこの時の引退からの復帰劇は節操がなさ過ぎると言わざるを得ない。日米マット界に輝かしい足跡を残し、レジェンドとしてプロレス界の功労者たるテリーだが、この点だけは残念だ。
最後に苦言も呈したが、やはりテリー・ファンクはグレート・テキサン、偉大なプロレスラーだったことに変わりはない。もう膝の痛みやパーキンソン病で苦しむことはないだろう。
今はただ、安らかにお休みください。
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