[ファイトクラブ]☆☆☆不屈のテキサスブロンコ魂☆☆☆ テリー・ファンクを偲んで

テリー・ファンク御夫妻、プロレスファンはあなた達の笑顔と優しさを忘れることはありません。
[週刊ファイト8月24-31日合併号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼☆☆☆不屈のテキサスブロンコ魂☆☆☆ テリー・ファンクを偲んで
 by 藤井敏之 w/編集部編


 2023年8月24日(木)朝方、日本のプロレスファンに悲しいニュースが舞い込んできた。
 昭和プロレスのリングを席巻し絶大な人気を博したテリー・ファンク(79歳)がお亡くなりになったのだ。

 彼の存在を初めて知ったのは1969年ゴング本誌5月号でした。その年の2月、テレビのプロレス中継で27歳の若き青年があの“戦う機械”といわれたジン・キニスキーを倒し新NWA世界王者になったというニュースが流れてきた。1969年2月10日フロリダ州タンパはフォート・フォーマー・ヘスター・アーモリーの特設リングで、スピニング・トー・ホールドなる未知の技で勝利したのだ。その男の名はドリー・ファンク・ジュニア(弱冠27歳)である。初めて知る名前と技が凄く新鮮に思えた。

 次にドリー・ファンク・ジュニアに弟がいる記事を目にした。“NWAを制覇する若馬ファンク兄弟”なる題名で、抜粋すると“レスリングの名門ファンク一家のドリー・ファンク・ジュニアとテリー・ファンクの兄弟タッグチームは、プロレス界のヌーベルバーク(新しい波)として躍進を続けている。兄のファンク・ジュニアは新NWA世界選手権者となり、今度は弟のテリーとのタッグでNWA世界タッグ選手権の座まで狙っている。20代の若きヒーローたちの限りない野望と闘志に注目してみたい・・・・。”と、童顔のテリーの写真も紹介されたのがその存在を知ったきっかけである。

 その年の暮れ、兄ドリー・ファンク・ジュニアはNWA王者として父ドリー・ファンク・シニアといっしょに来日。日本が誇るジャイアント馬場とアントニオ猪木の連続挑戦を見事退け満天下のプロレスファンにその実力を示した。

ドリー初来日のポスター  
偉大なる父、ドリー・ファンク・ジュニアとドリー

 その翌年、ドリー・ファンク・ジュニアは実弟テリー・ファンクを帯同して再び来日。NWA王者ドリーの弟テリーのファイトぶりを見る絶好のチャンスが巡ってきたのだ。
 1970年7月27日大田区体育館、NETテレビが生中継という幸運。しかも対戦カードはアントニオ猪木&吉村道明組対ファンク兄弟(ドリー&テリー)というアジア・タッグ王座が懸ってはいないが黄金カードである。やんちゃ坊主のような童顔のテリーは粗削りながら躍動感溢れるファイトぶりで日本組と互角以上に戦った。1本目は猪木がコブラツイストでテリーをギブアップさせ、2本目はテリーとドリーの連続のテキサス・ブロンコ・スープレックスで吉村をフォール。決勝の3本目も猪木がファンク兄弟のツープラトンスープレックを食らい完敗。鮮やかな日本デビューを飾ると共にテリー・ファンク強しを日本のファンに印象付けた。
 そしてこのシリーズのテリーにとっての天王山である7月28日、横浜文化体育館(NET録画中継)においてアントニオ猪木と対戦、まさに今となっては珠玉のカードである。ファイトは粗削りではあるが父であるドリー・ファンク・シニアに幼少期から叩き込まれたレスリングは光るものがあり、1本目は猪木から豪快なテキサス・ブロンコ・スープレックスで先取、2本目は猪木にリバースでスープレックを返されタイ。3本目も若さ溢れるファイトぶりを披露、アメリカンフットボール上がりの強烈なショルダー・タックルやストンピングを駆使して猪木を圧倒する場面もあったが、興奮してレフェリーの制止を無視。反則負けを取られる荒馬ファイトを日本のプロレスファンに見せつけていた。

1970年7月30日大阪の街を散策するファンク兄弟

 同シリーズ、8月4日東京体育館では日本が誇るBI砲のインターナショナル・タッグ選手権に挑戦したが、ジャイアント馬場のダイナミックなファイト、アントニオ猪木の洗練されたテクニック連携の前に破れさり、控室に戻って泣き叫ぶテリーを兄ドリーがなだめたというエピソードは、いかにもテリー・ファンクらしい。

1970年テリー・ファンク初来日時の記念ポスター

 キャリアさえ積めば兄の牙城をも崩せるくらいの大物になる予感もして、次の来日を大いに期待したものだ。
 翌46年の年末、再びファンク兄弟が来日、このシリーズはアントニオ猪木の会社改革がリングの外で進行しており猪木はファイトぶりに精彩を欠く。テリーは12月3日山形県体育館で猪木と対戦したが、覇気の無い猪木とは場外乱闘の末、両者リングアウト。12月7日札幌中島スポーツセンターでは全く連携の無いBI砲と対戦。1-1から最後はテリーがダブルアーム・スープレックにてジャイアント馬場からフォールを奪い、遂に海外へとインター・タッグベルトを流出させる。
 最終戦の12月12日東京都体育館では、なんとテリーが挑戦者に抜擢された。しかし、体力的にもキャリア的にも劣るテリーは1本目、かろうじて片エビ固めで馬場からギブアップを奪い勝利したが、2本目は鉄柱攻撃でKOされリングアウト負け。3本目はニードロップを見舞われ失神、逆に片エビ固めでギブアップ。2-1で完敗、試合自体は馬場が軽くテリーを一蹴した印象が強かった。

インタータッグチャンピオンベルトを持って帰国するファンク兄弟(羽田空港)

 インター・タッグ王座をアマリロに持ちかえるという歴史的快挙を成したが、まだまだ発展途上の印象が強いテリー、逆にこの時期の兄ドリーはまさに隙の無いNWA最強王者の印象が深い。
 その後、日本プロレスは猪木を追放、馬場も独立するという大きな変動に見舞われる中、ジャイアント馬場が立ち上げた全日本プロレスに父ドリー・ファンク・シニアが全面協力することを宣言。そのオープニングシリーズからテリーは全日本プロレスに参加することになる。
 昭和47年旗揚げシリーズおいては全日本プロレスの総帥であるジャイアント馬場とPWF争奪マッチ、昭和48年10月10日蔵前国技館では新鋭ジャンボ鶴田とジャイアント馬場の挑戦を受けインター・タッグ戦、49年新春シリーズは現(ジャック・ブリスコ)前(ハーリー・レイス)元(ドリー・ファンク・ジュニア)のNWAの王者揃い踏みの露払い的な参戦に。49年8月9日には馬場のPWF選手権に挑戦、50年3月8日には馬場&鶴田の奪回戦だ。その年の暮れには念願の第51代NWA世界王者になるという快挙を成す。まさにNWA史上初の兄弟揃ってのNWA王者誕生に日米のファンは沸く。

ライバルのジャック・ブリスコと  
ハーリー・レイス夫妻と   
現前元王者のそろい踏み

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