[ファイトクラブ]☆燃える闘魂☆アントニオ猪木さんに生前に聞きたかった二つの疑問

[週刊ファイト12月01日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼☆燃える闘魂☆ アントニオ猪木さんに生前に聞きたかった二つの疑問
 photo & text by 藤井 敏之


 仏教でいう四十九日にあたる11月18日をもって、極楽浄土へと旅立たれたアントニオ猪木さんが、生前において自らのベストバウトは昭和44年12月2日の大阪におけるドリー・ファンク・ジュニアとのNWA世界王者初挑戦試合であると明言されたことは非常にその空間にいたものにとっては喜ばしいことである。

▼1969年、若獅子アントニオ猪木の快進撃!

[ファイトクラブ]1969年、若獅子アントニオ猪木の快進撃!

▼若獅子と呼ばれたアントニオ猪木が最も飛躍した昭和44年(1969)

[ファイトクラブ]若獅子と呼ばれたアントニオ猪木が最も飛躍した昭和44年(1969)

▼名勝負は永遠に アントニオ猪木vsドリー・ファンク・ジュニア

名勝負は永遠に アントニオ猪木vsドリー・ファンク・ジュニア

 ここで、この世界戦の前にアントニオ猪木とドリー・ファンク・ジュニアの両雄においてアメリカで接点もしくは戦ったことがあるかを検証してゆく中で幾多の証言が出てきている。
 振り返ればこの世界戦の前、同年2月12日(現地時間11日)フロリダ州タンパのフォートフォーマーヘスタリー・アーモリーで新鋭ドリー・ファンク・ジュニアがNWA王者のジン・キニスキーを倒し、第46代NWA世界ヘビー級チャンピオンになったというニュースが外電で飛び込んできた。

1969年12月2日の伝説の試合(大阪)

 このニュースは馬場と猪木にも大きな衝撃を与えた。その時猪木は「27歳といえばオレより1歳上、いよいよオレたちの時代がきたかという感じだ。ジュニアはテキサス時代によく知っている。ぜひ挑戦したいね、NWA世界王座に・・・」と答えているのだ。ただ後年においては「1964年に単身アメリカに渡り、2年間武者修行をしたサーキットエリアで彼の試合も噂も聞いた事が無い」とも語っている。それを実証するかのように後年ドリー本人も69年のNWA世界戦について貴重な証言をしている「それまで私は猪木の試合を観たことが無かったし、もちろん猪木と話したことも無かったし、猪木に関する何の知識も無かったが、初めての試合で1時間戦って彼がベリーグッドなレスラーであることがわかった。2回目の試合も、1回目と同じぐらい内容が良かった記憶がある。猪木とは3回目試合をしたかった」。真実はどちらか定かでは無いが、65年頃猪木はテキサス地区をサーキットしていた事実は確かにある。

アントニオ猪木&ドリー・ファンクJr.    

 ここで1965年10月11日、テキサス州オデッサでドリー・ファンク・ジュニアとトーキョー・トムが対戦しトーキョー・トムが勝利した記録が残っていると報道されたが、後日トーキョー・トムが猪木とは別人であることがわかる。同時期において猪木はテキサスで活躍していたが、リングネームはカンジ・イノキとして活躍していたのだ。さらには1964年12月3日テキサス州ヒューストンでジョー・ブランチャードを破りテキサス・ヘビー級王者にトーキョー・トムがなっているが、同日アントニオ猪木はリトル・トーキョー・ジョー名でワシントン州をサーキットしている。
 ゆえ1964年から1966年の海外サーキッツトではドリーと猪木の対戦は無く、面識も無かったと想像される。

 ただ、もう一つ大いに気になる史実がある。1966年太平洋上の猪木略奪事件が起こり、豊登にそそのかされ日本プロレスを出て、猪木は社長となり新団体である東京プロレス旗揚げに奔走することになる。新団体の旗揚げに必要な外人選手を招く為猪木は社長の責を負い、当時日本プロレスがまだアメリカ西海岸のWWAとの提携しかしていないのを尻目に、自らのコネクションであるサニー・マイヤースとヒュー山城の線から、NWA総本山のセントルイスでサム・マソニックの右腕としてブッカーをしていたボビー・ブラウンへとたどり着く。
 山城を帯同した猪木はセントルイスのNWA本部で、NWA会長であるマソニックとブランズとの交渉に臨むとともに、選手の技量査定の為下記2試合を観戦したとある。

セントルイスでの当日の試合カード         ドリー・ファンク親子

1965年9月16日 キール・オーデイトリアム
① ○ザ・バイキング対トーア・ハーゲン●
② ○ロレンゾ・バレンテ対ザ・モンゴル●
③ ○ボブ・ガイゲル対ティム・ジョハーゲン●
④ ○サニー・マイヤース対ハーキュリー・ボビー・グラハム(ザ・ヘラキュリー)●
⑤ ○フリッツ・フォン・エリック対ドリー・ファンク・シニア&テリー・ファンク●
⑥ ○ジョニー・バレンタイン&カウボーイ・ボブ・エリス対ジョニー・パワーズ&ムースショーラック●
⑦ NWA世界ヘビー級選手権試合
○ジン・キニスキー対ドリー・ファンク・ジュニア●
 さすが、NWAの総本山ならではの新旧のスターが揃った豪華すぎるラインアップである。

1966年9月17日 チェイス・ホテル内ボールルーム
① 〇ジャック・ドノバン対デイック・マードック●
② 〇ジョニー・パワーズ対ジェリー・ティモンズ●
③ 〇ウイルバー・スナイダージム・ウェバ●
④ 〇ジョニー・バレンタイン&ロレンゾ・バレンテ対デイック・ザ・ブルーザー&ハーキュリーズ・ボビー・グラハム●
 テレビ撮りにしてはこれまた豪華すぎるメンバーである。

金髪の妖気ことジョニー・バレンタインの雄姿       

若きジョニー・パワーズ

 実際、この中から東京プロレスに参戦したのはジョニー・バレンタイン、ジョニー・パワーズ、ハーキュリーズ・ボビー・グラハムである。そう17日のテレビ撮りのメンバーなのである。当時で予想されるギャラはバレンタインで週2000ドル前後、パワーズとグラハムでその半分ぐらいであろう。
 ただ、この二日間のカードを興味深く見てすぐに思うのはアマリロから当時、それまで日本マットとはあまり接点が無かったファンク・ファミリーが参加していることである。
はたしてアントニオ猪木は2試合とも観たのであろうか、もし観戦していたらドリー初来日においてあのような発言はしなかったのではないだろうか。
 同年代のドリー、テリーの躍動する姿を見て、猪木は必ずファンク兄弟をブッキングしたはずである。

記事の全文を表示するにはファイトクラブ会員登録が必要です。
会費は月払999円、年払だと2ヶ月分お得な10,000円です。
すでに会員の方はログインして続きをご覧ください。

ログイン