[ファイトクラブ]若獅子と呼ばれたアントニオ猪木が最も飛躍した昭和44年(1969)

[週刊ファイト10月20日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼若獅子と呼ばれたアントニオ猪木が最も飛躍した昭和44年(1969)
 by 藤井敏之
・鳥人ダニー・ホッジとの息詰まる攻防
・白い巨像・ゴリラ・モンスーン相手にも貫禄負けしなくなる
・ミスター・アトミックも既に猪木の相手ではなかった
・NWA王座ドリーとの一戦は猪木自らベストバウトと言わしめる


 1969年3月、ジャイアント馬場がザ・デストロイヤーから「ワン、ツー、スリー」のカウントを取った瞬間、デストロイヤーのセコンドにいたジム・オズボーン、ネルソン・ロイヤルがリングに上がり、レフェリーのユセフ・トルコに「お前のカウントが早すぎ、肩が上がっていた」との猛烈な抗議をする。
 さらにはポール・ジョーンズまでがリングに駆け上がり「馬場がレフェリーを抱え込んでいる」と激しく抗議する。その時、下は黒のスラックス上も黒っぽいポロシャツを着た若者が颯爽とリングに駆け上がり、ジャイアント馬場の右手を高く上げ馬場の勝利をアピールした。外人たちもその勢いに腰を引くような構えになる。とにかくカッコイイのである。バタ臭い顔で当時としてもあか抜けたファッションセンスに瞬間的に憧れてしまった。

 前のシリーズ、確か最終戦のインター・タッグ選手試合においてウイルバー・スナイダーに決勝の3本目に新兵器のアントニオ・スペシャル卍固めを爆発させ、相手がギブアップするまで流血しながら絞り上げる姿をテレビの画面でみて、その若々しいファイトぶりに注目はしていたのだが、この場面にキューンと釘付けにされてしまう。
 それまでジャイアント馬場が主役で活躍していた頃のテレビ映像は何となくみていたのだが、この瞬間、この人のプロレスを見続けようと確信し、以来ゴング誌、プロレス&ボクシング誌、週刊ファイト、そして大阪スポーツを買いあさってはこの若者の情報を得る事に努めると同時に、プロレスファンのデビューを果たしたことになる。

    ダニー・ホッジとの息詰まる攻防

▼貴重写真とともに鳥人・ダニー・ホッジ氏を偲んで・・・

[ファイトクラブ]貴重写真とともに鳥人・ダニー・ホッジ氏を偲んで・・・

ザ・デストロイヤーとの攻防も見応えがあった。        
栄光のBI砲

 この頃、既にプロレス界は第2期黄金と呼ばれており、それを決定させるシリーズが発表された。まだまだプロレスの知識が薄かったが、雑誌には春の本場所『第11回ワールド大リーグ戦』に参戦する外人選手が発表された。
 馬場の4連覇を阻む8匹の狼として、その筆頭に黒い魔人ボボ・ブラジル、そして人間台風ゴリラ・モンスーンの両巨頭の参加。1年8ヵ月ぶりにアメリカ武者修行を終え凱旋帰国する坂口征二の参加、そして昨年より大きく成長、馬場の後ろ姿を捕らえ始めつつあった、そう私が注目していた若者ことアントニオ猪木に対し、プロレスファンはこのリーグ戦に初優勝して欲しいとの期待が大いにかけられての参戦と、話題が多すぎ開幕前から人気が爆発した。

 初戦の蔵前国技館ではジャイアント馬場がゴリラ・モンスーンに、猪木はボボ・ブラジルに揃って討ち死にするという大ハプニングでスタートしたことも人気に拍車がかかり、全国各地で満員札止めを記録してゆく。そして遂に決勝戦でジャイアント馬場、アントニオ猪木、ボボ・ブラジル、伏兵のクリス・マルコフが同率で並んだ。
 公平なクジ引きにより初戦はジャイアント馬場対ボボ・ブラジル、その後アントニオ猪木対クリス・マルコフ戦が行われる事になる。クジ運はアントニオ猪木を有利にしてくれた。30分という時間は短すぎ、馬場とブラジルは時間切れ引き分けに終わる。さあ猪木の一世一代の大勝負である。リングサイドで師匠であるカール・ゴッチが「運命に逆らうな、チャンスを待て」というアドバイス通り、猪木は流血しながらも、全国のプロレスファンが体育館、そしてテレビ中継を見ながら応援する中で、遂に秘技卍固めでマルコフからギブアップをとり初優勝したのだ。

白い巨像・ゴリラ・モンスーン相手にも貫禄負けしなくなった

▼1969年、若獅子アントニオ猪木の快進撃!

[ファイトクラブ]1969年、若獅子アントニオ猪木の快進撃!


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