馬場vs.猪木は実現寸前だった!? 41年前『夢のオールスター戦』後

 今から41年前の1979年8月26日、プロレス界ではエポック・メイキングな大会が開催された。東京・日本武道館で行われた『プロレス夢のオールスター戦』である。
 現在でこそ他団体との交流は珍しくもないが、当時はオールスター戦の開催など不可能と思われていた。しかし、東京スポーツの尽力により、このビッグ・イベントが実現したのだ。

 オールスター戦の開催が困難と思われていた原因は、全日本プロレスのジャイアント馬場と、新日本プロレスのアントニオ猪木との確執である。東スポの必死の調整によりオールスター戦は実現したものの、ファンが最も待ち望んでいた馬場vs.猪木のシングル対決は行われなかった。
 代わりに“BI砲”こと馬場&猪木のタッグが8年ぶりに結成され、アブドーラ・ザ・ブッチャー(全日本)&タイガー・ジェット・シン(新日本)の“最凶悪コンビ”と対戦したのである。

 ところが、この『夢のオールスター戦』の直後、馬場vs.猪木が実現寸前まで漕ぎ着けていたというのだ。そう証言するのは、当時はテレビ朝日『ワールドプロレスリング』のプロデューサーだった栗山満男氏である。
 どのような経緯で“BI対決”が実現しかけたのだろうか。

▼79年夢のオールスター戦の裏側 ワールドプロレスリングを創った男

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▼井上譲二の『週刊ファイト』メモリアル第72回 G・馬場さん 度量の大きさは猪木氏より数段上!

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アントニオ猪木を全く信用していなかったジャイアント馬場

 なぜオールスター戦の開催が困難だったのか。最近の若いファンは事情を知らないと思うので、当時のプロレス界の状況を簡単におさらいしておこう。
 この頃、男子のプロレス団体は僅かに3つ。今から見れば異様に少ないように思えるが、当時は「日本にプロレス団体は1つだけでよい」という考え方が主流だった。したがって、マット界の一本化を真剣に考える人は多く、狭い日本に3団体は多過ぎると思われていたのである。

 そして、各団体にテレビ局が付いており、それぞれ独占放送するという形態だった。全日本プロレスは日本テレビ、新日本プロレスがテレビ朝日、国際プロレスは東京12チャンネル(現:テレビ東京)である。各団体を地上波定期放送するなんて、今となっては羨ましい状態だが、この頃はそもそも衛星放送や有料放送などなく(もちろん、ネット中継などあるわけもない)、テレビ中継がなければプロレス団体は崩壊すると言われていた時代だ。
 このうち、馬場の全日本と猪木の新日本が激しい興行戦争を繰り広げており、スター選手のいない国プロは後れを取っていた。事実、2年後の1981年に国プロは崩壊する。

 この『夢のオールスター戦』も、放送をどうするかで揉めたが、当時は全国放送網を持たなかった東京12チャンネル(この頃はテレビ大阪すらなかった)は早々と撤退。テレ朝は『夢のオールスター戦』を日テレと共に2局同時生中継しよう、と持ち掛けた。同じ試合を地上波2局で同時生中継なんて、今の時代では考えられないが、当時はプロ野球などでよくあった。大相撲なんて、テレビ局がNHKと民放2局しかない時代に、3局とも大相撲を生中継していたぐらいである。
 それだけに、テレ朝の申し出は決して無茶ではなかったのだが、日テレ側は固辞した。これは各団体ともそうだったのだが、当時はレスラーがテレビ局とも契約を結んでおり、他局に出ることは禁じられていたのである。
 結局、当日の生放送はもちろん録画中継もなしで、各局がスポーツ・ニュースで3分間だけ試合の模様を流すことになった。このあたりの詳しい事情は、上記の『79年夢のオールスター戦の裏側 ワールドプロレスリングを創った男』をお読みいただきたい。いずれにせよ、他局のスポーツ・ニュースに顔を出すことになるのだから、生中継だって可能だったと思うのだが……。

1978年12月18日、ニューヨークMSGでビンス・マクマホンSRから世界マーシャルアーツ王者に認定されたアントニオ猪木

 元々、日テレと全日本(というか馬場)は『夢のオールスター戦』には消極的だった。日テレはテレ朝を、馬場は新日本を、そして猪木を信用してなかったからである。
 新日本プロレスと全日本プロレスが設立される前、馬場と猪木は力道山の設立した日本プロレスのWエースだった。日プロを独占中継していたのは日テレで、そこにテレ朝(当時はNETテレビ)が割って入ったのである。しかも栗山氏によると、日プロの幹部は日テレのプロデューサーに難癖をつけて退席させ、その間にNETの幹部を呼んで強引に日プロの放送契約を結んだという。
 結局、妥協案として馬場の試合は日テレの独占放送とすることになり、日プロの2局定期放送が実現した。プロレス団体で地上波2局による定期放送を行ったのは、後にも先にもこの時の日プロだけである。馬場の試合を放送できないNETは、猪木をエースとして全面的に売り出した。

 ところが、日プロの杜撰な経理に対し猪木が異を唱え、馬場も協力したものの、この動きが会社改革ではなく猪木による日プロ乗っ取りであるとされ、猪木は日プロを永久除名となったのだ。
 猪木は新日本プロレスを設立するも、ノーTVという苦しい船出となった。困ったのはNETも同じで、エースの猪木を失ったため日プロに馬場の試合を売るように打診。NETに猪木の新日本を放送されたら堪らんと思った日プロは、日テレに無断で馬場の試合をNETに売ってしまう。
 激怒した日テレは日プロの放送を打ち切り、馬場に独立するように勧めた。馬場は日テレの要請に応え全日本プロレスを設立、日テレが定期放送するようになる。
 馬場と猪木を失った日プロは人気が激減、さらに坂口征二が新日本に参加することによりNETは日プロ放送を打ち切り、新日本を定期放送するようになった。力道山以来、栄華を誇っていた日プロはあっけなく崩壊、全日本、新日本、国プロの3団体時代となったのである。

 現実的には全日本と新日本との争いだったが、常に攻撃を仕掛けるのは新日本。「全日本はショーで、本当の闘いを魅せるのは新日本」と“口撃”し、外国人レスラーの引き抜きも行う。栗山氏によると、全日本の次期エースだったジャンボ鶴田まで引き抜こうとしたというのだ。
 馬場が猪木のことを全く信用していなかったのは、日プロ末期の会社改革や、独立後の仁義を守らない企業戦争が原因である。

馬場vs.猪木が実現していれば、日本マット界は統一されていた!?

 とにもかくにも、一応は実現した『夢のオールスター戦』だったが、団体同士の激突はほとんどなく、混成チームによるタッグ・マッチが中心。たとえば、木村健吾(新日本)&佐藤昭夫(全日本)&阿修羅・原(国際)vs. 藤原喜明(新日本)&永源遙(新日本)&寺西勇(国際)など、他団体との絡みはあるものの、団体の意地がぶつかるわけではないのであまり興味が持てないカードだ。試合結果も、国プロの原が同じ国プロの寺西をフォールするという誰も傷つかない結末。

 新日本と全日本が激突したシングル・マッチでは、坂口征二vs.ロッキー羽田があったが、新日№2の坂口に対し、全日では中堅どころの羽田が相手という、結果は最初から判っているカードだった(坂口のフォール勝ち)。シングルでは、国プロ出身対決であるラッシャー木村(国際)vs.ストロング小林(新日本)が最も注目されたカードだろう(木村のリングアウト勝ち)。第1試合の前座レスラーによるバトルロイヤルで、前田日明(当時は前田明)と大仁田厚が対戦したのは、今から考えると夢のカード(悪夢のカード?)だったが(最後は山本小鉄が大仁田厚を破り優勝)。

▼前座時代の大仁田厚は『夢のオールスター戦』のバトルロイヤルで前田日明と対決

 それはともかく、馬場vs.猪木が現実味を帯びてきたのは、『夢のオールスター戦』が終わってから間もなく、9月のことだったという。猪木から栗山氏の元へ連絡が入り、馬場とのシングル・マッチが実現するかも知れないというのだ。猪木は栗山氏に、馬場vs.猪木が決定すれば、放映料をいくら払えるか訊いてきた。
 会社に戻った栗山氏は上層部に相談、すると1億円を用意するという。モハメド・アリ戦が1億5千万円だったから、それに次ぐ金額だ。猪木は喜び勇んで、その1億円は馬場さんにファイト・マネーとして渡してくれ、新日本とすれば武道館の入場料だけでいいと答えた。
 猪木の考えでは、“BI対決”を花道に馬場さんには引退してもらい、世界最大のプロレス組織だったNWAとのブッカーになってもらって日本マット界を統一しよう、というプランだったらしい。

 しかし、この壮大な計画も日テレに知れたら全てがオジャンだ。馬場と日テレの契約更改は10月初旬。それまでに、話を決める必要がある。栗山氏は慎重に、馬場と極秘で会った。そして、猪木とシングル対決してくれれば、1億円をファイト・マネーとして支払うと約束したのである。
 あまりの額の大きさに、さすがの馬場も驚いた。41年前の1億円である。現在の1億円とはわけが違う。
 当時はまだ、プロ野球でも年俸1億円の選手がいなかった時代。その頃は現役だった“世界のホームラン王”王貞治でさえ、せいぜい年俸8千万円程度だったのだ。その王の1年分以上の収入を、馬場はたった1試合で稼げるというのである。馬場の心も揺らいで当然だった。
 このあたりの詳しい事情は『ドキュメント:馬場・猪木シングル対決への道(上)』をご覧いただきたい。

▼ドキュメント:馬場・猪木シングル対決への道(上)

ドキュメント:馬場・猪木シングル対決への道

 新日本が、そしてテレ朝が出した条件に、ほぼ同意していた馬場だったが、一つだけ懸念材料があった。税金だ。普通のファイト・マネーとして1億円を受け取ると、その大半を税金で持って行かれてしまう。
 そこで馬場は、税金対策としてとんでもないウルトラCを提案した。どんな節税方法だったのか? それは『ドキュメント:馬場・猪木シングル対決への道(下)』を読んでいただくしかないが、さすが経済には詳しい馬場だ。金銭感覚がドンブリ勘定の猪木では、こんな技は思いつかなかっただろう。

 実現寸前の馬場vs.猪木だったが、土壇場で頓挫となった。馬場は日テレと契約更改、日本マット一本化も幻と消えたのである。
 このあたりの馬場とのやり取りを、栗山氏は赤裸々に『ドキュメント:馬場・猪木シングル対決への道(上)』『ドキュメント:馬場・猪木シングル対決への道(下)』で綴っている。馬場は、猪木との確執の理由も、ライバル局のプロデューサーである栗山氏に語った。まさしく現場をリアルに再現した渾身のドキュメント、ぜひともご一読いただきたい。

▼ドキュメント:馬場・猪木シングル対決への道(下)

ドキュメント:馬場・猪木シングル対決への道


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